第5話
出会って半年足らずで、僕には彼女のいない生活が考えられなくなっていた。
もちろん祖父との日々の暮らしや、友人との馬鹿騒ぎの場に彼女はいない。しかしその合間に図書館やどこかで彼女と話し、都合さえ良ければ笛を吹いてもらう。日常の合間に組み込まれた習慣こそが僕にとっての生活の中心で、その他の場面は全て、彼女と過ごす時間のためにあるようにさえ感じていた。
だからこそ、高校生活二年目の夏として避けられない「進路」という言葉が出てきたときに、僕はそれまで思いもかけなかった不安に駆られたのだった。
「進路」は僕にとって、両親との約束だった。高校は、祖父の家から近くの学校に通う。しかし大学では実家に戻り、都内の大きな大学に通うこと。
高校生という若い時分から実家を離れることになった息子をそのまま手放したくないという親心の現れで、強い拘束力のある約束ではなかったけれど、できれば叶えてやりたいという子心が僕にもあった。
それでも僕はその選択によって、彼女との時間を失ってしまうかもしれないことを恐れた。
「このあいだ配られた進路調査票、なんて書いて出したの」
「もちろんA短大。だいたいの女子がそう書くって、知っているでしょう」
「ええと、それで、本心では」
「言ってしまったら、A短大って書いた意味がないじゃない」
同じ大学に行こうなどと唐突に強く誘う勇気がなかった僕は、まず彼女の動向を探ることにした。しかし会話の入口を失敗したらしい。
校内では級友の提出物を覗いて真似合うことが日常茶飯事だった。進路調査票でさえその例外ではなく、だから自身の本心をそこへ書くのは稀だ。女子は四年制大学を目指していたとしても地元の短大を、男子は受験もしないのに国内最高峰の国立大をそこに書く。
探りに失敗したことを笑ってごまかした僕は、日を改めて、図書館でふたたび彼女に尋ねた。
「卒業したらどうするの。大学に行くの」
「まあ、そうね。だからこのクラスにいるのだし。太田くんもそうでしょ」
僕と彼女の通う高校では、一年生のときの大まかな進路調査によって、二年生のクラス分けをする。僕が所属するのは進学クラスで、だから同じクラスにいる彼女も進学を希望しているということだけはわかっていた。
本当に知りたいのは地元の短大を希望しているのか、家から通える四年制大学を受験するのか、はたまた実家を離れて遠くへ進学するつもりでいるのかということのはずだったのに、なかなか上手く話を引き出せない。
僕は根気よく、また日を改めて、こんどは神社で彼女に会った際に尋ねた。
「綾瀬さんは大学に入ったら家を出ようとか、思っていないの」
「そうねえ。母さえ許してくれれば、一度は一人暮らしもしてみたいね」
「お母さんが厳しいんだ」
「まだ相談もしていないよ。何を言われるかわからなくて、ちょっと心配」
心配しているなどと微塵も感じさせない明るい声で彼女が笑う。それから僕へ向けて、彼女は優しく言葉を重ねた。
「太田くんも心配性だね。今の時代、遠く離れたって連絡手段はいくらでもあるんだから。進路がどうであれ友だちでいられるでしょう。それに、たぶんそう遠くになることもないよ。だから、心配しなくても大丈夫」
同じ話題が不自然に度重なって、さすがに彼女も僕の思惑に気付いたらしい。僕は恥ずかしくなって、いくらか赤面した。
彼女はそれ以上言葉を重ねず、笛を吹きはじめた。のんびりとした旋律が、僕の心を落ち着ける。
本当は僕にも、意地悪に反論する用意があったのだ。けれど笛の音に耳を傾けるうちに言葉はするするとほどけ、笛の音が止んでも再び紡がれはしなかった。
僕は彼女の笛の音を、無条件に愛していた。彼女の言葉が足りずとも、それによって彼女に不審を感じることがあろうとも、笛の音に対する僕の執着は変わらなかった。
それでも異常なことがあれば、不審に思うことには違いなかった。
祖父との暮らしで夜の早くなっていた僕が笛の音に目を覚ましたのは、時計の針がちょうど真夜中の十二時を指したときだった。
笛の音は、彼女の家の方ではなくて、神社の方角から聞こえて来ていた。昼間と違い、雑音が少ない澄んだ夜の空気を突き破るように、笛の音は鋭く、よく響いた。自分以外の誰もが気付いて目覚めてしまうのではないかと焦りを覚えるほどに、音は強く耳に届いた。
家を出る前に、祖父の寝ている居間兼寝室をそろりと覗いた。祖父はいびきをかいて眠っていて、笛の音でも僕の足音でも、目を覚ます様子は見られない。安心した僕は祖父が厠に起きないことを祈りつつ、堂々と玄関から外へ出た。
いつもならどんなに急いでも家を出る頃には途絶えてしまう笛の音が、珍しく自転車を漕ぎ、坂道を下っても続いていた。住宅街を抜けるときには建物に遮られるはずなのに、澄んだ音色は変わらず僕の耳に届き続けた。音に導かれるように崖の脇の坂道を上り、彼女の姿を探して公園を覗き込む。
僕が公園の奥に彼女ともう一人の姿を認めるのと、音の止むのとが同時だった。笛を下ろした彼女は振り向いて、まるで僕が来ることをわかっていたかのように、にっこりと微笑んだ。
「こんばんは。こんな真夜中に起こしちゃってごめんね。母が急に私の笛を聴きたいと言うから。近所迷惑にならないようにここまで来たのだけれど、太田くんには聞こえちゃったね」
彼女によく似た女性が静かに頭を下げた。どうやら彼女の母親らしい。僕も思わず会釈を返したが、場所が真夜中の公園だと思うと、その不自然さが妙に気になった。挨拶の言葉ひとつ口にできない。
僕が何も言えずに立ち尽くしていると、彼女は母親と僕とに視線を遣って、困ったように笑って首を傾げた。
「ごめんね、こんな時間に。もう終わりにするから、安心して」
「え、もう終わりにしちゃうの。僕のことなんか、気にしなくても」
「ううん、ちょうど終わりにするところだったの。太田くんも寝ていたんでしょう。もう帰りなよ」
彼女の視線をたどり、僕は自分の着ているものを見下ろした。そうしてようやく、寝間着にしている中学時代のジャージ姿のまま出てきたことを思い出した。
恥ずかしい。帰りたい。しかし、このまま彼女に何も聞かずに帰ってよいものか。
逡巡する僕の背を押すように、彼女はにっこり微笑んで手を振った。
「心配しないで。見てのとおり、母と一緒だから。また明日、学校で」
気付くと僕は手を振り返し、自転車にまたがって帰路についていた。
あれはなんだったのだろう。
彼女は母親が笛を聴きたがったのだと言った。
しかし、いくら笛の音を聴きたいからといっても。
母親が年頃の娘を、真夜中に公園へ連れ出すことがあるだろうか。
翌朝目覚めると、それは夢の一場面だったようにも思われた。耳の奥に残った笛の音だけが、それが現実だったのだと訴える。しかし夢であろうと現実であろうと、いかほどの違いがあるだろう。
学校へ行くと、僕はいつものように彼女に会い、いつものように彼女と話した。
前夜のことを口にしてもよかったはずなのに、彼女の音を失うことを恐れて、僕は何も尋ねることができなかった。
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