第4話

 それはいつの間にか花開いた桜が、あっという間に散りはじめた四月の初め。

 僕にとっては新しい学年を迎えた日。新入生の入学式と、続く在校生の始業式、新しいクラスでの簡単な自己紹介やら、一年間の教訓やらの話があっただけで、昼には帰宅してよいと言われた日のことだ。

 家に帰ってもよかったのだけれど、僕はしばらく学校の図書室で時間をつぶすことにした。せっかく春休みが明けたのだから、家でテレビを観て過ごす祖父の邪魔をしたくなかった。きっと世話すべき孫がいなくて、のんびり過ごしていることだろう。僕にしても、せっかく学校が始まったのだから、世話すべき祖父のところへすぐに帰りたいとも思えなかった。

 グラウンドからは早くも活動を始めた運動部の掛け声が響き、校舎からは入学式という晴れ舞台が終わったばかりの、吹奏楽部の気楽な音が響いてくる。

 それらの喧噪から壁ひとつ挟んで、ひっそりと静まりかえった図書室の埃っぽい部屋の中で、僕は古い本の頁を一枚一枚めくっていた。祖父の話を聞いてからというもの、地域の伝承をまとめた本に、龍の記載を探すことが多くなっている。ちょうど釘付の龍の話を読みはじめたところで、部屋の静寂を裂くように、僕の求める音が聞こえた。

 笛の音。

 はっとして、目の前の窓を開けた。

 図書室の曇りガラスは、普段はすべて閉じられている。その向こうが学校の敷地のほとんど端っこで、雑草の生い茂った小さな空き地しかないことを、僕はこのとき初めて知った。

 その空き地に、制服姿の女子生徒が一人、こちらに背を向けて立っている。

 急に開いた窓に、彼女は驚いた様子で振り返った。

「わあ、太田くん。びっくりした」

「……綾瀬さん」

 垂らせば背中の半分くらいまでとどきそうな真っ黒な長い髪を、うなじのあたりで一つにまとめ、黒縁の地味な眼鏡をかけた綾瀬さん。切ることも折ることもしない制服のスカートは、校則で定められた膝丈ぴったりでゆらゆらと揺れている。真面目を絵に描いたような彼女は、僕の新しいクラスメイトだった。氏名順の席が比較的近いために初日でもなんとか覚えていただけで、普通なら、印象に残るような女子でもない。その彼女が笛の奏者であったことは意外でもあり、一方でその落ち着いた雰囲気を思えば、納得のいく事実でもあった。

 彼女の右手には、使い古した横笛が握られている。

「誰もいないと思ったけれど、そういえば図書室のすぐ外なんだね。ごめん、うるさかったでしょ」

「ううん、気にしないで」

 とても綺麗な音だとか、いつまで聞いていても厭きないとか、なぜ龍を鎮める笛を綾瀬さんが吹いているのかとかいう言葉が、僕の頭の中をぐるぐるとめぐった。そのどれもが口に出す前に泡と消えて、言いたいことは山ほどあるはずなのに、僕の口からは何の言葉も出てこない。そうしているうちに彼女の方が気まずくなったらしく「じゃあ、また明日」と一言残してその場を立ち去ろうとした。半ば走って逃げようとする彼女を前に、僕は慌てて立ち上がり、窓から身を乗り出した。

「待って。……また、聞かせてほしいんだ」

 彼女も言葉が見つからなかったとみえる。あるいは突然僕がそんなことを言ったので、驚いたのだろう。

 それでも彼女は、躊躇いがちながらも、無言で頷いてくれた。



 その後の一年間も、傍目に見れば僕の生活に変化はなかったはずだ。

 ひと月に一度ほど友人を家に呼び、家の修繕を手伝わせたり、庭で騒いだり。若者らしく活発に遊んだ。

 春には花見と称してレジャーシートに菓子を広げて宴を楽しみ、夏にはクラスの男子をほとんど全員集めて暑苦しい中バーベキューを営んだ。秋には落ち葉かきを兼ねて芋を焼き、もちろん雪の積もった朝には雪合戦から雪だるまにかまくらまで、ひととおりの雪遊びに興じた。

 それまでどおり、祖父もよほどのことがなければ、うるさく騒いでも口を出さずに見守ってくれていた。友人関係が良好なだけでなく、成績も優秀な位置を保っていたので、遊びに夢中で勉強をさぼっているように思われることもなかったはずだ。

 僕は一年目と同じく、図書館に行くと言ってたびたび家を空けて出かけた。それから稀に笛の音を聞きつけて、居ても立ってもいられずに家を飛び出し、意気消沈して戻って来た。その度に呆れた祖父から説教されるところまで、前の年と同じだった。



 その生活が大きく変わったことを知っているのは、僕と彼女しかいない。

 僕は嘘をついているわけではなかった。ただ、何もかもを明け透けに話しているように見せて、実のところは誰に対しても、核心を隠していた。

 想いを寄せる相手ができたことを友人に相談することはなかった。図書館に行って何をするか――つまり、図書館の裏庭で彼女と会って話し、彼女の吹く笛の音を聴いていることは、祖父にさえ話すことがなかった。

 笛の音に惹かれて神社に行けば、三度に一度は彼女と会うことができた。神社まで行って彼女と入れ違いになったときには意気消沈したが、それはもはや、音を掴まえられないことへの煩悶ではなかった。神社から帰れば必ず祖父に説教されたが、僕は以前とまったく同じように、反論せずにそれを聞き流した。

 僕の生活は、大きく変化していた。僕の思考の大部分は、彼女のことで埋まっていた。最初は彼女の吹く笛の音に惹かれただけだった。笛の音を聴くついでに彼女と話しているようなもので、話に身が入っていないのは、彼女にも伝わっていただろう。それでも彼女の方は、僕という人間そのものに興味があったとみえる。笛のほかに関心を示さない僕に根気強く話しかけ、ときに笛を吹くのをらして、強引に僕との会話を継続した。

「幼い頃から母に言われて笛を吹いているのだけれど、家族以外の誰かにこうして聴いてもらうのは初めてなの。本当は、人に聴いてもらうために吹いているはずなのにね」

「お母さんに聴かせるためではなくて」

「違うよ。母に聴かせるのでは意味がないの。いつか上手くなれば、きっと思うとおりの結果を出すことができるから。それまで頑張って練習しないとね」

「……今でも十分、上手いと思うけれど」

 彼女は言葉を重ねることはしないで、黙って首を横に振った。彼女の言葉にはいつも何かが欠けていて、会話を重ねるごとに、僕の中には困惑とれとが降り積もる。笛のついでだったはずなのに、しだいに僕も、そうした会話を楽しむようになっていった。



「太田くんはこんなにしょっちゅう家を空けて遊びに出ていて、怒られないの」

 あるとき彼女は、ふとこんなことを言った。

「ほとんど毎日でしょう。心配はされないの」

「大丈夫。図書館に行くとしか言っていないんだ。勉強をしに行くものだと思っているはずだよ。綾瀬さんは?」

「私は笛を吹きに行くと言えば、たいていの外出は許してもらえるの。それがたとえ、真夜中であっても」

 彼女の言葉が本気なのか冗談なのか、僕にはいまいち判断がつかなかった。

「……真夜中は危ないから、外には出ない方がいいよ」

「それは無理。時折、真夜中でも無性に笛を吹きたくなるの。それに、母もよく言っている。この笛さえ持っていれば大丈夫って。この笛は特別だから、たとえ十分に扱うことができなくても、持っているだけで安心するの」

 ざわりと僕の体に鳥肌が立った。彼女の笛に、なんの力があるだろう。

 僕はこの土地の龍の子孫であることに自覚があった。しかし、だからといって、できることなど何もない。

 彼女の笛には龍の末裔である僕の心を落ち着かせる力があるかもしれないが、だからといって、それが真夜中に、彼女の身を守る力になるのだろうか。

「……よく、わからないけれど。やっぱり危険なことはしない方が身のためだよ」

 僕が小さな声で言うと、彼女は珍しく、ころころと笑った。

「そんなに心配そうな顔をしないで。大丈夫、母が許すからと言って、そうそう夜中にはでかけないから。当たり前でしょ」

 これまでの話が冗談であったかのように彼女は楽しげに笑ったが、僕のなかに突然湧き上がったとてつもなく大きな不安はおさまらなかった。

 それでも彼女が笛に息を吹き込めば、すぐに、何を不安に思ったのかさえ忘れてしまうのだから不思議だ。

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