第3話

 家に帰ると、珍しく祖父が食事の支度をして待っていた。

 掃除と違って頼まれたわけではないが、僕は料理が嫌いではない。試験前の忙しい時期を除けば、夕食の準備は僕の仕事だった。

 それなのに、なんの気まぐれか食事の仕度を始めた祖父は、いつもよりだいぶ早くに仕度を終えて「はやく食べよう」と僕を急かした。



 どうやら祖父は、僕になにかを話したいようだった。

 僕がそのことに気付いたのは、普段なら食事中にも付けっぱなしのテレビが消されていたからだ。黙って食事を続ける祖父が、時折、機をうかがうように僕を見た。そのたびに、言葉を発することなく食事にもどる。

 僕からなにか尋ねるべきだろうか。そう思ったが、なにを尋ねるべきなのか、皆目わからなかった。

 いつもならテレビの音で紛れる沈黙も、ただ静かに部屋を満たすだけ。時計の針の音が、やたらと大きく聞こえた。

 やがて、あまりにも続く沈黙に僕が緊張を感じ始めた頃。ようやく祖父が、ゆっくりと話し始めた。

「……隆之たかゆきが、この家で育ったのは」

 隆之。すなわち僕の父。祖父の息子。彼のことを祖父が話すのは、珍しかった。

「ちょうど、あの笛の音が途絶えていた時期だった。あの音を聞いたことがないから、隆之は簡単にこの家から出て行くことができたんだ」

「じいちゃん、あの音を知っているの」

 手がかりは、思っていたよりもずっと近くにあったのかもしれない。灯台もと暗しという言葉が僕の頭をかすめた。

 祖父は、ゆっくりと頷いた。

「知っているとも。今日、久しぶりにあの笛の音が聞こえたね。お前が飛び出して行ったとき、やっとお前が私の孫なんだと理解できたよ」

 祖父の不思議な物言いに、僕は相槌を打つこともできなかった。ただ僕は、その話の中に目的を果たすための鍵が含まれていることをなんとか理解し、その鍵を引き出すことに必死になった。

「あれはやっぱり、笛の音なの」

「なんだ、鳥の声とでも思ったか」

 龍の吹く笛かと思ったなどと戯言を言えば、さすがの祖父も呆れるだろう。僕は口をつぐんで、話の続きを促した。僕には知りたいことが多すぎた。それでいて祖父に色々聞こうにも、自分がなにをわかっていないのかさえ、わからなかった。

 そうして黙っていたら、祖父の口から、僕の戯言を遥かに超えた話が飛び出した。

「あれは、沼に棲む龍を鎮めるための笛の音だ。代々受け継がれる音らしいが、自分の子孫にしか伝えないようだから、今の世では途絶えてしまっても不思議はない。前にあの音を聞いたのは、隆之が生まれる前だった。ちょうど、五十年くらいは経ったかな」

「龍を、鎮める笛?」

「そう。百年近く前に沼が埋め立てられて、ここは棲みよいとは言えなくなった。それでも鎮めの笛の音があったからこそ、私たちはこの土地を離れずに生きてきた。その笛が途絶えたならば、隆之が土地を離れるのも無理からぬことと思ったものだ……まさか、まだ奏者がいたとは」

 祖父があまりにも当たり前に「龍」という言葉を口にして話をそのまま進めたものだから、僕はどこから聞き返し、どこに問いを差し挟むべきか、まるきりわからなくなってしまった。

 ただ一つ、このまま祖父に話を続けさせても、自分の疑問はいつまで経っても解消されないということだけはわかった。

「待ってよ、じいちゃん。なんで龍を鎮める笛の音のあることが、この土地を離れない理由になるの」

「……おや、隆之からはなにも聞いていないのか」

 祖父はきょとんと僕を見つめた。それから考え込むようにふむと唸って一人で頷き、改めて、もう一度真正面から僕を見据えた。目の前に座る孫に対して話がまったく通じていなかったことに、そのとき初めて気が付いたようだった。

「無理もないか。いくら言っても、隆之は信じなかったからね。我々がこのあたりの沼に棲んだ龍の子孫だ、とは」



 季節の移りはあっという間だ。

 赤く黄色く着飾っていた木々が、いつの間にか寒々しく葉を落とした。そんな景色をつい昨日まで見ていたように思うのに、今ではもう、ちらほらと梅の咲く季節になっている。このぶんだと、桜の季節にたどりつくのもすぐだろう。

 そのなかで僕は、新しい季節を鬱屈した気分で迎えようとしていた。

 半年間努力をしたのに、どうにも笛の主に出会えなかった。

 あの秋の日以来、笛の音はしばしば僕の耳に入ってきた。僕はそのつど神社へむかい、そのたびに、人っ子一人いない寂れた境内に迎えられた。あるときには曜日と時間を見計らい、先に神社へ出かけて待ち伏せをした。それなのに、そんな日にかぎって、日が暮れるまで待ってもあの音が聞こえてくることはないのだった。

 先祖が龍だと言った祖父はそれ以上の詳細を話さなかったが、僕は、祖父の話をすんなりと受け入れた。

 祖父の話を信じれば、幼い頃に聞こえた笛の音に異常なまでに執着する自分の感情にも、容易に説明がついた。自分は龍の末裔なのだから、龍を鎮める笛の音に焦がれるのは仕方がない。これまで理由のわからなかった自身の習性が、ようやく僕の理解の範疇に入ったのだ。

 それでも疑問に思うことはあった。龍というのは、鱗に覆われた、足の生えた蛇みたいなものではないのか。それが子孫になると、なぜ人の形をしているのか。なにより一番の不審は、どうにも笛の主と出会えないことだった。もしもこれが伝説や物語のたぐいなら、笛の奏者と僕とは、自然と出会える運命であってもおかしくない。それなのにどんなに努力をしても、影にも形にも会うことがない。現実が伝説や物語と違うことはわかっていても、先祖が龍だなどという幻想めいた話が真実ならばと、どうしても物語のような展開を期待してしまうのだ。

「だから言っているだろう、隆治たかはる

 僕があせって家を飛び出し、打ちひしがれて頭を垂らして帰って来るたび、夕食は祖父の説教で始まった。

「あれは、捕まえようと思って捕まるようなものではない。だから私も待つよりなくて、何十年もこの土地を離れられずにいるんだよ。お前もあの音が恋しいのなら、じっとここで、あの音が響くのを待って暮らすしかない」

 そんなふうに祖父に諭されても、僕には、諦めることができなかった。

 落胆した翌日であろうと、笛の音が聞こえればまた家を飛び出した。



 そんな僕の行動が功を奏したとは言い難い。

 その出会いは結局、偶然の元に起こったのであって、僕の努力とは些かの関わりもなかった。それでも僕はその出会いを歓迎し、自分の努力が無駄であったことには、一切こだわらなかった。

 ただ心の中で祖父に対してだけは、勝ち誇った思いを抱いた。

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