第2話
幼い頃の思い出は、時の流れにしたがって忘れ去られるか、美化されて当時の姿を失うか。いずれにしても、現象を現象のままに記憶しておくことはひどく難しい。
だから思い出にある祖父の荘厳な家が、田舎らしい広さを持つだけの黴臭く埃っぽいぼろ屋に見えたところで、特段に衝撃を受けるほどのことではなかった。ただ、これからそこで暮らすと思うと、辟易するところはある。
黴臭く埃っぽいのは、僕の記憶違いというばかりではないかもしれない。昨年祖母が亡くなってからは、高齢の祖父も満足に掃除などできず、親戚が時折手伝いに訪れるほかは、広大な家屋のほとんどが放置されていた。
さすがにこれ以上独りで住まわせるわけにもいかないというのが、僕がこの家に住み始めることになった理由のひとつだった。僕の通うことになった高校が近いという、僕にとっての利点もある。
だから僕は親戚一同の頼みを快く引き受けて、その家に祖父と二人で住まうことになったのだ。
その家に暮らすにあたり、僕には不安なことが三つあった。
ひとつ目は、年に一度しか会っていなかった祖父と、突然同居するということ。
父や母の話から、祖父は随分と頑固で意地っ張りな老人であることが予想された。世間一般の若者に比べれば大人しいという自覚のある自分ではあるが、所詮は都会生まれの都会育ち。果たしてこの大きな家に生まれ育った祖父と、上手に同居することができるだろうか。
けれど最初の一週間を過ぎた頃には、これは見当違いの過剰な心配であったことがわかった。祖父は若者に理解のある柔軟な思考の持ち主で、僕の私生活にも友人関係にも触れず、顔を合わせてもただテレビの話や天気の話といった、当たり障りのない世間話をするだけだった。
それは祖父にとっても、孫という外部の存在から自分の生活を守るための手段だったのかもしれない。
なんであれ祖父の態度は、僕にとって好都合の生活環境をもたらした。
そうなると僕にとっての不安は、残り二つにしぼられた。
一つは言わずもがな、家の古さと手入れの悪さである。歩けば軋む廊下に、ビー玉を置かずとも傾いていることのわかる床。雨漏りするところはバケツの数では足りず、埃の溜まった二階には、家の中でも蜘蛛の巣が張っている。
この家の簡単な修繕と掃除は僕の役割だ。祖父は寛容な人だから、僕が多少仕事をなおざりにしたところで不満を顔にも出しはしまい。それでも盆か正月か、とつぜん親戚が訪ねて来るとなったときのために、僕には仕事をしているという証を残しておく必要があった。
だから僕は勉強や遊びやほかの用事で忙しいときにも、少しずつ隙間の時間を作っては、働き蟻のような勤勉さで、地道に家の手入れにかかるのだった。
もう一つの不安は、僕にとって、この家に住むことを決めた一番の目的に関わることだ。
僕は僕の目的のために、あえて祖父の家の近くの高校を進学先に選び、あえて祖父と同居することを選んだのだった。
とはいえ僕には、この家に住み始めたことが本当に僕の目的に適うことなのかさえわからなかった。どちらへ向かってどう動けば良いのかさえわからず、この家に住みはじめたことが前進となるのかも定かでない。
果たして僕は、目的を達成することができるのか。この三つ目の不安こそが、最も大きな不安として、僕の思考の大部分を占めていた。
僕の高校生活は、僕の不安に関わりなく始まった。
学校生活について、僕が不安に思うことは少なかった。地元で育った子供の多い高校で、祖父の家があるとはいえ外から入ってきた僕は、良くも悪くも目立っていた。
それでも人付き合いは苦手ではなく、数日もすれば、誰と交流し誰を避ければ良いのかがわかった。それを実践に移すこともできた。
一週間後、僕は新しい友人を祖父とともに暮らす家に招き、祖父の了承を得た上で、数人でがやがやと障子の張り替えをした。高校生活を上手く送っていることを祖父に見せることができるし、面倒な家の修繕も軽くなる。ひと月に一度ほど、僕はそうして友人を集め、賑やかに家の手入れに勤しんだ。
僕は頭の悪い方ではなかったけれど、慣れない生活をしながらの高校の勉強は難しかった。僕は祖父に図書館の場所を尋ね、よくそこに通うようになった。
祖父の家は、勉強をするにはうるさすぎる。天井裏ではしょっちゅう鼠の運動会が催され、どの部屋にいても祖父の楽しむ居間のテレビの音が漏れ聞こえている。夕方になれば近所の犬が遠吠えし、風は庭の木を不気味に揺らした。
耳栓をつけて勉強をすることもあったけれど、家では集中できないからと、図書館に行くことの方が多かった。
こうして僕は無難な高校生活を送ったが、目的には近づけないままだった。
友人と仲良く過ごし、家の修繕をすすめ、成績も維持しながら、なぜか肝心の目的だけは達成できていなかった僕の生活に変化が生まれたのは、高校入学から半年が経ったときだった。
蒸し暑く日差しの強い日が続くとはいえ、時折ひんやりとした風が道を走り、もみじの葉が、先端から赤く染まる季節になっていた。
月末の土曜日にでも、友人を呼んで落ち葉を掃いて、集めた落ち葉で焼き芋をやってみようか。いや、まだ焼き芋には季節が早いから、集めた落ち葉を庭の一角に溜めておこうか。
友人と遊んだり図書館へ通ったりと忙しい僕にしては珍しく、自室の窓からのんびりと庭を眺めて、考えをめぐらせているときだった。
その音は、唐突に、僕の耳に届いた。
笛の音。
懐かしい音の魅力に、歓喜の鳥肌が立った。息が止まるほどの感激に思考は中断し、躍り上がる心に逆らえずに縁側から庭へ飛び降りる。サンダルをつっかけて、自転車まで走った。
音はどこから聞こえるだろう。家の北東の方角だ。あの方角には、そうだ、幼い頃によく遊んだ神社がある。なぜ今まであの神社に行くことを思いつかなかったのだろう。
勢いよくペダルを踏み込んで、急な坂道を駆け下りた。音が聞こえたのはほんの一瞬で、もはや耳には残響しかない。それでも僕は音の源がどこだったのか、確信を持っていた。
坂を下りて、右手の細い路地に曲がる。古民家の垣根と新築住宅のコンクリート塀の間を縫って、道なりにさらに下る。やがて見えてきた土嚢で固められた崖を回り込むように右に曲がって、横の坂道を、下ってきた分だけ一息に登る。崖上の雑木林添いに道を左に曲がれば、林に囲まれた、古い遊具の点在する小さな公園の入口はすぐそこだった。
公園の奥には朱色の鳥居と、崖のきわに建つ小さなお社が見える。
期待に反して、公園には誰もいなかった。暮れかけた日の光は林に遮られ、公園は夜の始めのように薄暗い。拝殿の扉は固く閉ざされ、来客を拒んでいた。
隅に自転車を止めた僕は、落ち葉を踏んで公園の中をうろうろと歩き、失敗をごまかすように、鳥居をくぐって形ばかり手を合わせた。心を落ち着けて、もう一度ぐるりと周囲を見回す。何度見ても誰もいないことを確かめて、僕は再び自転車にまたがった。
冷静になれば、部屋着のジャージに庭のサンダルをつっかけただけの自分の姿が恥ずかしい。一刻も早く帰るため、僕は再び、全力で自転車を漕いだ。
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