笛の音

南波なな

第1話

 その音を聞いたのは、祖父母の家でのことだった。何の音かと尋ねる僕に、母は「笛の音」と簡潔に答えた。

 母が自宅で吹くフルートの音色こそが「笛の音」だと思っていた幼い僕にとって、その答えは奇妙で信じ難かった。だから僕は母の答えよりも音から受けた印象を強く信じて、その美しい音色を、絵本に登場する美しい幻の動物の鳴き声か、緑あふれる田舎の田んぼを浮遊する、哀しい幽霊の泣き声であろうと夢想した。



 家業を継ぐはずだった父は、故郷から離れたことで実家から勘当されていた。

 それでも孫の顔だけは見たいという祖父母の我儘に応えたのは母だ。自身はその土地になんら関係が無いにもかかわらず、年に一度、母は律儀に祖父母の元へ僕を連れて行った。

 幼い頃の僕は事情を知らなかったが、母の気持ちには敏感だった。祖父母の家ではいつでも行儀よく、大人しく振る舞わなければならないと知っていた。お菓子をもらってもお小遣いをもらっても、大袈裟にはしゃいだりしないで、曖昧に微笑んで、小さな声でありがとうと呟いた。

 祖父母の家は子供にとって、極めて魅力的だった。

 走り回れるほどに長い廊下。ごろごろと何回でも転がることができそうな広い和室。隣地との境界が曖昧な広い庭。つい登りたくなる大きな木。

 そんな魅力的な家で遊ばず騒がず大人しい孫を演じたご褒美として、母は帰り道にはいつも、近くの公園に立ち寄ってくれた。これは僕のためと称して、実は母のためでもあることを僕は知っていた。

 古い神社の横の空き地に、ブランコと滑り台を並べただけの寂れた公園。母が近くのベンチに座って本を読み、疲れた心を休める間、僕は独りで黙々とブランコを揺すり、どんぐりを拾って遊んだ。

 日が暮れはじめる頃、母は本を閉じ、僕を呼んで家路につく。

 毎年の恒例だった。



 笛の音を聞いたのは、ある年、いつもの公園を出て家へ帰るときだった。

 祖父母の家での憂鬱も、母親の機嫌への緊張も、全てを忘れる音だった。僕は全人類がその音に同じ心持ちを抱くことを信じ、一片の疑いも抱かなかった。母が音にさしたる興味を示さず僕の手を引いて帰ろうとすることや、そこかしこの家の窓の中で、笛の音など聞こえないように日常の茶飯事をこなしている人のいることが、信じられなかった。

 そして、最も僕が不審に思ったのは、あの素晴らしい音を聞いたにもかかわらず、母の機嫌が直らなかったことだ。

 家に帰りつくと、母はいつものように父を詰った。

「いいかげん一度くらい帰ったらどうなの。私、もう一人で行くのはいや」

「無理して行かなくていいよ。父の我儘になんて付き合わなくても」

「そう言ってばかりいられないでしょ。帰りたくないのなら、お義父さんたちをこっちに呼ぶのはどう。とにかくあの家は気詰まりなのよ。古くて、大きくて」

「いやだよ、俺は会いたくない。そもそも父があの家から離れるとは思わないね。離れちゃいけないと思い込んでいるんだ。小さい頃から、旅行にだって行ったことがない」

「なんでそんなに実家を嫌うの。お義父さんもお義母さんも、悪い人ではないじゃないの」

「別に、理由なんてなんだっていいだろう」

 毎年おなじみのやり取り。これがその日も繰り返されたことに、僕は違和感を覚えずにはいられなかった。僕自身はあの音色聴きたさに、明日にでも再びあの公園へ行きたいと思っていたのに。母も同じ気持ちであろうと信じていたのに。

 あの公園で聞いた笛の音のことなど、母は忘れてしまっているようだった。



 父と母の言い争いが終わるまで、僕は大人しくしていることにした。

 居間の隅の学習机に向かって、教科書を開いた。頭の中には美しく滑らかな音色がなおも響き渡っていて、教科書の中身など、一文字たりとも入り込む余地はない。それでも煩わしい夫婦喧嘩をやり過ごすには、良い子の振りをしているのが一番だった。

 やがて母は不機嫌を背負ったまま夕飯の買い物に出かけ、父は僕の元にやってきた。

「ごめんな隆治たかはる。それで、今日は何をして遊んだ? おやつは食べたか?」

「忘れちゃったよ。それより、帰りにすごく綺麗な音を聞いたんだ」

 言い争いの後、父はいつも、まるで言い訳をするように僕に優しく話しかける。その機会を利用しようと思っていた僕はすぐに、帰り道に聞いた、美しい笛の音の話を始めた。

 音色のことを誰かと分かち合いたい一心だった。母は無関心だったけれども、あるいはほかの誰かであれば、この気持ちをわかってくれるかもしれない。もしかすると、あの家で生まれ育った父ならば、わかってくれるかもしれない。

 しかしあの澄み渡る美しい音色を語るには、いくら重ねても言葉が足りなかった。自身の語彙の乏しさに俯いた僕の肩を、父は優しく叩いた。

「隆治がこれだけ夢中になったんだ、きっとすごい音だったんだろう。……でもな、そういう音には気をつけないといけない。あの辺りには、龍の笛という昔話があるんだ」

 音そのものの美しさと崇高さを伝えきれずに落胆した僕だったが、続く父の話には興味を持った。

「あの家の近くの沼には、昔から龍が棲んでいるという伝説がある」



 沼に棲む龍は美女に化けて美しい笛の音を響かせ、人を沼へ誘い出しては喰らっていたのだという。

 あるとき旅の途中で沼を訪れた武士が、村人たちの嘆きを聞いた。息子を龍に喰われたという村人に同情した武士は、晩になると、聞こえてきた笛の音に酔ったふりをして、笛の奏者に近付いた。

 誘われた先は龍の沼。笛の奏者は絶世の美女。

 見た目に惑わされずに、武士は女を斬り払った。

 すると美女は煙となって消え、あとには笛だけが残ったという。

 その笛を神社に奉納すると、龍による被害はおさまった。



「隆治が聞いたのはこの笛の音かもしれないな」

「でも、龍はもういないんでしょ」

「いいや、話には続きがあってね。あるとき笛を納めていた神社におばあさんが現れて、その笛を持って行ってしまったというんだ。そのおばあさんはきっと、龍の仲間だったんだよ。だから今でも龍はあの辺りに棲んでいるし、隙を見て人間を喰らおうと、時折美しい笛の音を響かせるんだ。ほら、気をつけないと……」

「わぁっ」

 僕は頭を抱えて、べそをかいた。

 今なら僕にも、父が面白がって僕を怖がらせようとしていただけだとよくわかる。父は昔話や伝承を信じる人ではなかったのだから。

 それでも当時の僕は、まだ父の考えを見抜けるほど大人ではなかった。幼い僕は言葉をそのままの意味で受け取って、心に残る美しい音色に恐怖した。

 一方で頭の片隅では、それでもなお、あの公園で再び笛の音を聴きたいと願っていた。

 あの音色をもう一度聴けるのならば、龍にさらわれても構わない。

 そう思う自分がいた。

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