感謝申し上げます

脳幹 まこと

感謝申し上げます


――感謝申し上げます――


 郵便受けの中に、この一文だけが載せられた手紙が入っていた。

 送り主の名前には「岩田 哲郎」とあったが、少なくとも私の認識では岩田なる人物に関する記憶はなかった。大体、どういった経緯で感謝しているのかも分からないのだから、受け取ったところでどうしようもない。

 封筒も紙も手触りからして高級なものだったし、文字も達筆であるところを踏まえると、何かしらの悪意がある訳ではなさそうだ。毒でもないし、薬でもない。

 放っておこう。そろそろゴミ出しの時間だ。



――感謝申し上げます――


 その翌週、郵便受けの中に「岩田 哲郎」からの手紙が入っていた。

 文章は相も変わらず、感謝を示す言葉が一文だけ。住所を確認してみるが、まったく余所よその県だ。まるで関係がない。

 送り返してやろうかとも思ったが、感謝されているのに、それを突き返すというのも気が引ける。どうしたものかと思って友達に相談してみると「もう少し様子を見て、止まらなかったら警察にでも行けば」という当たり前の回答が出た。私だってそう返すだろう。

 放っておこう。そろそろゴミ出しの時間だ。



――感謝申し上げます――


 その翌週、郵便受けの中に三度目の「岩田 哲郎」からの手紙。

 文面は変わりなし。少し文字が掠れているくらい。私宛に届く目的不明の手紙。警察に向かおうか。脅迫どころか感謝されているが、不気味であることに変わりはない。

 ゴミ出しを終えた私は、最寄りの警察署に向かった。そして謎の人物「岩田 哲郎」から何度も意味不明な文章を送られたのだと説明した。

 お巡りさんは三通の手紙をじいっと見て「達筆だなあ」と一言だけ感想を述べて、どこかへと行ってしまった。



――感謝申し上げます――


 件の手紙は週ごとに送られてきた。それは決まってゴミ出しをする曜日だった。文字は段々と薄く、掠れ、読みにくくなっていったが、書いてある内容は変わらなかった。

 危険を承知で手紙を返したこともある。意訳すると「何のことだか分からないので、これ以上手紙を送るのはやめてください」となる文章をだ。


 そこで私ははじめて「岩田 哲郎」が実在しない住所から手紙を送ってきていたことを知った。

 引っ越しをすることにした。手紙は全部びりびりに破いて燃えるゴミに出した。

 



「感謝申し上げます」


 引っ越し当日、ボロボロの服を着た男がやって来て、この一文を言った。

 名前は岩田 哲郎。ホームレスで飢え死に寸前だったところを、私の出した生ゴミによって助けられたのだという。

「ああ、そうだ……これを」

 そう言ってあの人は、ポケットからあるものを取り出した。

 それは手紙の束であった。破片をひとかけらずつテープで張り付けた、あの……

 

 雨が降ってきた。傘がないあの人は手を震わせて、ポケットから万年筆を取り出した。「どうぞ……」と差し出してくるのだが、私からすれば迷惑この上ない。

 引っ越し業者も困惑しているなか、数分のやりとりがあって、しまいには手紙も万年筆もすべて放り投げた。

 項垂れるあの人を無視して、運搬用のトラックに乗って街を去った。



 引っ越し先は職場からはかなり遠くなってしまった。

 そのせいで、この肝心な日に会社にギリギリ遅刻してしまうことになった。

 上司からしこたま怒鳴られ、気落ちしている私に同僚が声をかけた。

「おいおい、今日は新卒採用の面接だろ? しっかりしてくれよ、先パイ」

 普段はお前の方が遅刻しているだろうが、という言葉を呑み込んで、私は面接場所の会議室へと向かった。

 採用面接は順調だった。相手となる男子学生は、身なりから話し方まで好印象であった。同僚が「この子、採用でいいよな?」と目くばせをする。

 なるほど、私もそう思う。しかし、何かが気にかかる、この子を見た時から……いったい何が?

 違和感の原因に気付けないまま、面接は進んでいった。


「以上で面接を終わりますが、何かご質問はございますでしょうか」

「質問ではないのですが、ひとつ、感謝の言葉を申し上げてもよろしいでしょうか」


 嫌な予感がした。

 同僚は「感謝」の対象を面接官に対するものだと思ったらしく、「どうぞ」と促した。

 すると、彼は私の方を見てはにかんだ。


「父が大変お世話になりました」


 胸ポケットに差している万年筆が光った。

 そこで私ははじめて「岩田 哲郎」が実在しない名前であることを知った。

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