あるステップファミリーのさよなら
十和田 茅
葬送
「もしもし、ばあちゃん? 俺、俺」
受話器をあげてすぐ流れてきた、聞き覚えがある若い男の声に
「金なら無いよ」
と、私は答える。
ややあって、受話器の向こうから心底疲れたような声が続いた。
「ばあちゃん……実の孫相手に、そのボケ何回目?」
「何度でも。もし本当に詐欺だったらどうするんだい。こちとら、いたいけな年寄りなんだからね。か弱いばばあの身で、自分を守るためには自分でなんとかしなきゃならないなんて、生きにくい世の中になったもんだ、ああ、いやだ、いやだ」
と、そこまで早口で一気に言ってやった。
電話の向こうで、誰がいたいけな年寄りだ、か弱いだ、心臓に針金生えてるくせに、と続いたような気がするが、年寄りは耳が遠くていけない。なにも聞こえなかった、はっきりとは。うん。
「それで? お忙しいあんたがわざわざ電話してくるなんて、何の用だい?」
昼間はデイトレードとやらで時間がないというのが口癖の、引きこもりが。壁掛け時計に目をやると正午を少し過ぎていた。
「……ばあちゃん、じいちゃんが死んだって、マジ?」
「おや、ま、おまえにしては耳が遅いね」
「あいにくと身内の話はネットには流れてこないもんで。……じいちゃんの喪主、ばあちゃんじゃないんだって……?」
「ああ、そうさ。当然だろ。奥様は先にゆかれたとはいえ、あちらには息子さんがちゃんといなさるんだから、あちらで葬式あげるのが成り行きだろうよ。たとえ入院中、下の世話までしたのが内縁の女房だとしてもね。それが、筋ってもんさ」
私は、葬式にもでなかった。
長年連れ添ったとはいえ私たちは最後まで、戸籍上は赤の他人だった。正妻の息子が取り仕切る中、我こそが連れ合いでございと図々しく顔を出すのは趣味じゃない。
私が夫を亡くし残された息子二人を育てて、母子家庭ならではの壁にぶつかっていた時期。
そんなタイミングでたまたま古い馴染みと再会した。
馴染みの男につっこんだ相談を持ちかけ、子供たちにとってもいい話し相手になり、いつのまにやらそういう関係になって、気がつけばあの人は、我が家の空席だった父親のような位置におさまっていた。けれど私たちの間に結婚という選択肢はなかった。
もっとも、向こうからは、ときどき打診されていたけれど。
いつか言ったものだ。
「いいじゃない。面倒くさい。子供たちがいて、あなたがいて、ただいまとあなたが帰ってきたら私がおかえりと迎える。結婚なんてしなくても、それが変わることがある?」
「うちの実家に、おまえが顔をだしやすいだろう」
「なんでわざわざあんたの実家に顔をださなきゃならないの、私が」
その実家に初めて連れて行かれたときは、さすがの私も緊張した。あちらさんにしてみれば、いくら息子が可愛いとはいえ瘤付きの未亡人と、その瘤がふたつ。はたしてどれほど警戒されるかと覚悟して臨んだわりには、あちらのご両親は私たちがびっくりするほど喜んで迎えてくれた。私の連れてきた、あちらさんとは全く血のつながりのない子供たちを、まるで本当の孫のようにかわいがってくれたことには感謝するほかない。
もっとも、代償はそれなりにあって。あの人は、実家に帰るときには、必ずと言っていいほど私と子供たちをつれていった。まるでそれがあるべき形のように。
あちらのご両親は毎回喜んで私たちを出迎えてくれ、帰りには不要品を山のように持たされる。いくら気安く歓迎されているとはいえ失敗できない相手といつも一緒にいるとなると気疲れが半端ではない。冠婚葬祭となると顔出しはしないまでも、私たちの家計からのし袋の中身がでていく。仮にも妻帯者なのだから独身者と同じ程度には包めない。本当の奥様と、奥様が引き取ったと聞いた息子さんはなにをしているのだろうと、そのつど怒りに燃えたものだ。面倒くさいからわざわざ結婚という形をとらなかったのに、あの人の実家のつきあいだけはしっかりと嫁扱いだった。子供たちは私ほど緊張しなかったようだが、それでも私側の実家の親戚とのつきあいよりは、少しだけ鯱張った態度でいたようだ。私としてはそれがおかしくもあり、大人の事情につきあわせて申し訳なくもあり。
そんなこんなで、私たちは社会的にも、苗字が違うだけの夫婦で、家族だった。
その一方で、亡くなった夫を忘れたことはない。
月命日には仏前にかならず好物の和菓子を供え、手を合わせる。春秋の彼岸と盆と祥月命日、年四回の墓参りも欠かしたことはない。
大きくなった子供たちの仕草の中に、ときどき夫を見つけることがある。
背筋が伸びた歩き方だとか。後ろ姿だとか。
甘い物なんか食べませんよといった顔しながら、実は饅頭には目がない所だとか。
春のぼた餅、草餅、桜餅。端午の節句は柏餅。夏は竹筒に入った水羊羹、求肥入りの鮎。秋のおはぎに、栗饅頭。冬は豆大福。広島のもみじ饅頭、伊勢の赤福、赤穂の塩味饅頭。特に、こしあんのもみじ饅頭が好きで、土産にもらおうものなら兄弟で争奪戦だ。夫が生きていたら三人で争奪戦をやっていただろうか、と、そんなふうに思いながら熱い渋茶をいれてやる。
あの人は、次々と饅頭をほおばる子供たちと、お茶をいれる私が囲むダイニングテーブルには近寄らず、いつも少し離れたソファに座って黙ってテレビを見ていた。
あの人には内緒だったが、あの人の奥様という方に、一度だけお目にかかったことがある。
四角い、白い部屋で。
青白い顔の、お美しい奥様がベッドの上にいて。
傍らには怖い顔をして私をにらんでいる、高校の制服を着た男の子。私の下の子よりも、もう少し下だろうか。あの人には似ていなかった。顔立ちは奥様そっくりで、ただ線の細い奥様とは違う、硬そうな黒髪とか凛々しい眉とか誰かご親戚に似たのかと思った。
「お呼びだてして申し訳ありません」
細い首、小さな肩。ゆるやかに波打つ、細めの髪。
はかなそうな、やわらかな微笑みを浮かべる女性。
あの人はこういう女性が好みだったのかと思ったし、ならばなぜ正反対の性格の自分と一緒にいるのかとも思った。
私は何も言わなかった。
「お呼びしておいてなんですが、もう二度とお目にかかることはないと思います。私にはそう時間が残されていませんので」
私に、ただ、会いたかったのだとその女性は言った。やはりやわらかな笑顔で。傍らにいる男の子がさらにきりりと目をつり上げた。
あの人は、私には「嫁さんとは別れた。息子を連れて出て行った」と言った。
私に結婚しないかと言ったことも、一回や二回ではない。何度も私が突っぱねるので次第に言わなくなったが。
違っていた。
奥様があの人に送った離婚届は、まだ提出されていなかった、らしい。
奥様は、あの人に「出て行け」といわれたので、出て行ったこと。なのにまだ離婚はしてもらえていないこと。別居する原因は、奥様ご自身が作られたこと。そして、その原因をあの人が知る前までは、息子さんとあの人はとても仲のよい親子であったこと。
息子さんは確かに、奥様がおなかを痛めて生んだ子供であること。
そして、あの人と奥様の息子さんが似ていない理由。
それが、あの人のご実家が、奥様と息子さんの存在を、なかったものとしている理由。
最後に「あの人をよろしくお願いいたします」と頭をさげられた。あの人が私と、私の子供たちと家族のように暮らしているのを人づてに聞いたらしい。あの人に再び心やすらぐ家族ができて嬉しいと、奥様はほほえんだ。
私は、ようやく言葉を紡ぐことができた。
「私は亡くなった夫を愛しているんです」
奥様は顔をあげた。
「確かに、私たちは家族かもしれません。ですが、私は今でも夫を愛しています。その事はあの人も知っています」
亡くなった夫本人に愛しているなんてセリフ、果たして何回聞かせたことがあったやら。
だが、自覚はなかったがそう言うことなんだろう、と自分で納得した。私は亡くなった夫を愛していて、あの人もまた、今も別れた奥様を愛しているのだ。そうして、それとは別の形で今、私たちはつながっている。だから一緒に生活しているのに、結婚はできない。同じ愛ではないのだ。別次元の話なのだから。……もしかしたら、あの人は私を、別れた奥様と同じ次元にもっていこうとしていたこともあったのかもしれないけれど。それを拒否したのは、私。
そして私に求婚しながら離婚届をだしていないのが、あの人なのだ。
奥様とは連絡先を交換し合った。あまり時間のない奥様は息子さんにもよく言い含めておくと言ったし、こくりと男の子もうなずいた。男の子の目はもうつり上がっていなかった。大好きなお父さんを取られたわけではないと理解してくれたようだった。男の子の、血のつながった父親はどうしたのか、聞いてみたかったけれど無粋な気がして聞けなかった。そしてそれは最後まで知ることはなかった。
とにかく、その日の晩は胸の内がどろどろした炎でたぎるようで。
帰宅して、いつものようにソファにいたあの人に、私のほうから襲いかかったのは、今だから言える話。その感情が嫉妬だと、気づきたくなかったし、認めたくもなかった。
その年の晩秋、あの人宛に、年賀欠礼のはがきが届いたのを私は知っている。
その数ヶ月前あの人が、真夜中の電話を受けてばたばたと喪服を着て出かけたのも知っている。「知り合いの通夜と葬式に出てくる」と言って、丸三日、帰ってこなかった。
なぜか涙がとめどなくあふれた。それと反比例して、胸の中でマグマのように煮えたぎっていたなにかは、急速に静かになっていったのを覚えている。
やがて、社会人になった子供たちは、それぞれ似合いのお嫁さんを見つけ、結婚した。
最初に次男が結婚式を挙げたとき、あの人は出席を辞退した。次に長男が結婚したときは、私以外の家族がみんなであの人を説得して出席させた。次男の嫁までも、だ。肩書きは義父となっていた。
新郎の家族として荷物を山ほど持って帰宅したとき、酔ったあの人が嬉しそうに言った。
「あれは、いいな。花嫁の隣で父親がこう、腕を組んで歩く。うちはみんな男ばかりだから」
そうね、と、相づちを打った声は、震えてはいなかっただろうか。みんな、の中には亡くなった奥様が生んだ、あの男の子も含まれるのだろうか、とか、そう思うと私の胸の中でまた粘度の高い感情が渦巻いた。
「今からでも娘を生まないか」
ひどい冗談を言うので、私の年を考えろと応じたら、あの人は笑った。
「高齢出産、まだいけるだろ。あいつらを生んだのが早かったから」
腕をとられて引き寄せられて、腹の中では毒づいた。まだ亡くなった奥様を愛しているくせに。それを口に出してやりたい衝動と戦い、ぎりぎりで飲み込んだ。私が、子供たちの中に夫を見ている間、この人もこんな感情を飲み込んでいたのだろうか。
考えてみれば、この人には、自分の血を分けた子供は一人もいないのだ。そう思うと自分が生んでもいいような気がしたし、それは、亡くなった夫への裏切りのような気もした。
子供たちが結婚して家を出た後も、私たちは一緒に暮らし続けた。息子夫婦たちには子供が生まれ、血のつながらない孫は全員あの人を本当の祖父のように「じいちゃん」と呼び慕う。結局あの人が血のつながった子供を得ることは、なかった。
ごく普通に家族らしいイベントには参加したし、子育てならぬ孫育ても人並みにこなした。不登校、引きこもり、LINEいじめに学校裏サイト、そんな今時のイベントも、別に経験したくはなかったのだが、経験させてもらった。私の性格が変わるわけもなく、孫には少々辛辣な祖母だったかもしれないが、飄々としたじいさんの性格にかなり助けられたのではないかと思う。
あの人が病に倒れて、久しぶりに連絡を取った。連絡先が変わるたび、きちんと新しい住所と電話番号を知らせてくれていた、律儀な子に。
いつまでも高校生の男の子の印象が抜けないあの子は、当たり前だがいいおっさんになっていた。体型も、華奢だった奥様とはかなり違っていたが、それでも、どことなく奥様の面影を残していた。血とはたいしたものだ。
私はその、会話のない再会に立ち会った。かつての好青年は、病に伏した老人をいつぞやのようなきりりとした視線で見つめる。あの人は、それが誰であるのか気づいたようだった。まず目を見張って、しばらくそうやってお互いの目を見合って、それから口元に皮肉げな笑みを浮かべ、目を閉じた。私には十分、満足そうに見えた。
肩の荷が下りたのだろう。何年もかかる介護生活を覚悟したのに、半年未満であっけなく逝ってしまった。もうこの世でやり残したことはないに違いない。
「戸籍上は、あんたが長男だろ。面倒だったらこっちで引き受けるけれど?」
そう伝えたら、自分が喪主を務めるとあの子は答えた。
鼻に栓を詰めて、あごが開かないよう固定された老人の遺体を見て、あの子は初めてわんわん泣いた。
それが、つい十日ほど前の話だ。
一から十まで何も知らない孫息子に、まして電話などで語るつもりはなかったので、手短に切り上げるつもりだった。さてどうしようかと考えあぐねていたら、孫息子のほうから「もうじき後場が始まるから」と、さっさと電話を切ってくれた。
苦笑しながら、私は受話器を取り上げる前の作業に入る。
「さて、と」
彼岸花の咲く裏庭の片隅には、渦高く積み上げた落ち葉。
私の手には、A4の茶封筒。中にはあの人が残した、書類が入っている。
「しょうがない男。今さら、私がこんなものを欲しがるとでも思ったのかい?」
それでもこれが、あの人の、何も残せない私への、精一杯の気持ちなのだろうが。
ここで自分の手で千々に引き裂いてやったらかっこよかっただろうが、あいにく老女の腕力では、丈夫な書類はちぎれない。一番よく切れるはさみで裁断してやった。
落ち葉に火をつける。地域の条例で庭先のたき火は禁止されていたような気もするが、ダイオキシンを振りまいてるわけではないのだから勘弁してもらおう。
「そら。一緒に、持っていきな」
たき付け代わりに、落ち葉に撒いてやる。炎が紙切れを飲み込んでさらに大きく燃え上がった。
全部持って行くがいい。やすらぎも性欲も嫉妬も、愛も。
紅の想いすべてを炎が飲み込んで、残らず灰燼に帰すだろう。女は灰になるまで、だ。この肉体がどれだけ老いようとも、私は最後まで女として生きる。
煙が立ち上る。高く、高く、
あるステップファミリーのさよなら 十和田 茅 @chigaya
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