引きこもり
かれこれ一年以上、彼は薄暗い部屋で引きこもり生活を続けていた。去年入学した高校も結局は数ヶ月で行かなくなってしまった。
朝と晩、ドアの前に母親が置いた食事を受け取り、食べ終えた後の食器をまたドアの前に戻す。トイレやシャワー等も極力家族の目を避けるように済ませる。
だからといって家から一歩も出ない訳ではない。時折、母親が食事と共に渡す小遣いを手に、夜中にコンビニに行くこともある。
もちろん、こんな生活がいつまでも続けられる訳がない。それは彼自身も十分に承知のことだ。家族にも迷惑をかけていると思っている。しかし、抜け出すタイミングを完全に失っていた。
ある朝、彼はふと目が覚めた。スマホを見れば時刻はまだ五時五十分。昼夜逆転した生活を送る彼には随分珍しいことだった。もう一眠りしようと布団を被るが、すぐに尿意を感じた。困ったもので、一旦自覚するともう、行きたくて堪らなくなる。
既に親は起きているだろうが仕方ない。ドアに耳をつけ、廊下の様子を窺う。物音がしないのを確認して戸を開けた。誰もいない。
無事トイレを済ませ、微かな解放感と共にドアを開けた。行き同様に外の気配は窺ったつもりだが、少し油断していたのかもしれない。ドアを閉めた先の廊下に母親の足が見えた。
足が、というのには理由がある。彼はいつも俯いて相手から視線を逸らしていたからだ。初めは学校や外出先のみであったが、それがいつから家族まで対象となったのかは、自分でも覚えていなかった。
とにかく、この母親の奇襲に彼の頭は上手く反応できなかった。思わず顔をあげてしまい、そして見知らぬ女と目が合った。
「……え、誰?」
「何言ってるの、ヒロキ。あんた、母親の顔も忘れちゃったの?」
女はそう言うと悲しそうな顔をした。彼の頭は混乱した。どこをどう見ても、彼の記憶にある母親ではなかった。一体どうなっているのか。
「どうかしたのか?」
異変を感じ取ったらしい父親が、母親の後ろから顔を出す。すぐ横の部屋のドアも開き、会社員の姉も出てきた。だが、やはり二人とも見知らぬ顔をしていた。
「どうしたんだ」
「ヒロキ、あんたの顔見るの久しぶり」
「う、うわぁっ…近寄るなっ!!」
彼は混乱する頭で彼らを押しのけ、もつれる足で自室に駆け込んだ。確かタンスの奥にアルバムが入っていたはずだ。落ち着けと念ずるが、全身が震えて、上手く動かない。
「あった、これだ!」
何とか探し出したアルバムをめくる。
そこには、今見たばかりの顔と並んで映る楽しそうな自分がいた。アルバムの写真のどこにも、彼の記憶にある両親も姉も存在していなかった。
「ヒロキ…あんた」
「!!」
慌てる余り、彼は鍵をかけ忘れていた。
恐る恐る振り返ると、いつの間にか部屋に入って来ていた三人が心配そうにこちらを見ている。
そこに悪意は全く感じられない。表情も声の調子も、少しも彼を騙そうとするものではなかった。それによく見れば皆、彼の記憶の三人よりずっと整った顔をしている。
引きこもりを続けるうちに、自分の記憶がおかしくなってしまったのかもしれない。本当に、元から彼らが自分の家族だったんだろう。
そう、無理に自分を納得させようとする。
いや、でも—。
これまでの自分の人生の、沢山の出来事を思い出す。その時に自分の横にあった顔を思い出す。よく怒られたり、喧嘩もした。家族揃って美男美女でも何でも無い。けれども。
「…やっぱりあんた達は俺の家族じゃ無い。俺の本当の家族、返してくれよ!」
彼がそう叫んだ途端、三人の顔にヒビが入り、欠片となってパラパラと剥がれ落ちた。
そしてその下から現れた彼の良く知る顔が泣きながら駆け寄ってくる。
「ありがとう、ヒロキ。覚えていてくれてありがとう!!」
「もしかしたら俺達ヒロキに忘れられてるかも、なんて話した俺が悪かったんだ」
「頭がぼんやりして変な感じだった。…ヒロキが思い出してくれなかったらどうなってたんだろう」
口々に話す両親も姉も、今度こそ彼の知る通りの彼らであった。懐かしさと安心とで、彼も久しぶりに泣き、心から笑った。
もしかするとこの生活から抜け出すのは、自分が考えていたよりも、もっと簡単なのかもしれない。
明日は部屋のカーテンを開けてみようか。
そう思うと、彼の心は少し軽くなるのであった。
「…私、結局この子に何もしてあげられなかったわ」
母親は、もう二度と目覚めることの無い息子の顔を撫でた。
こんなにゆっくりと息子の顔を眺めたのはいつ以来だろう。
長く引きこもっていた息子は、部屋の中で突然死していた。苦しんだはずだが、母親も誰も気づくことができなかった。
父親と姉がそっと母親の肩に手を置いた。
「母さんは十分やったよ。ヒロキだってきっと分かってる。…だってほら。こんなに幸せそうな顔してるんだから」
ショートショートの世界(逢魔時の部屋) 柏木 慎 @pata_mon
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