第36回 かなわぬ旅の終わりに
ヂェンリィが、その飯店の前に立つためには相応の勇気が必要だった。
あるいは巴蛇に立ち向かうことのほうが、よっぽど気楽だったかもしれない。
昼間から近くで様子を窺っていたのだが、気付けば夜。
戸には店仕舞いの札が掛けられてしまった。
店内には明かりが灯っている。
片付けや、明日の仕込みをしているのだろう。
邪魔になるかもしれない。
弱気がまた鎌首をもたげてくる。
ヂェンリィは
頬を両手で打ち、己に喝を入れる。
そして一歩を踏み出した。
戸を開けると、机を拭いていた女性が人懐っこい笑みを浮かべた。
「ごめんなさーい。今日はもう閉店なんですよ」
恐らく妻であろう。
この人の夫を自分は殺したのだ。
改めて喉が詰まる思いだった。
ヂェンリィはつっかえながらも、
「あ、あの……り、リウさんのことで、お話が」
すると女性は、まさか、ぽんと手を叩いた。
「あぁ! もしかして、あなたがヂェンリィちゃん?」
詰まった喉から心臓が飛び出るかと思った。
「やっぱり、そうなのね?」
どうして自分を知っているのか。
それに、夫を殺した相手に向ける顔じゃない。
朗らかだった。
わけがわからない。
戸惑っていると彼女は厨房に向かって、
「あなたー! ヂェンリィちゃんが来たわよー!」
これまた顔を出したのは、間違いない、リウ・ラングだった。
ヂェンリィは今度こそ心臓が飛び出るかと思った。
「い、生きていたの……!?」
「これのおかげでね」
そう言って彼が懐から取り出したのは、一冊の書物。
題して鬼哭経。
その中心には、刃物で刺したような穴が開いている。
「これが盾になってくれた……というのもあるけど、この中には心臓をずらす技があってね。本当に、メイフォン
それはヂェンリィにとっても同じだった。
つくづく、あの人に救われた。
リウを殺せなかったこと、ショユエと旅をしたこと。
彼女の存在なくしてありえなかった。
心底憎み、殺したくて殺したくてたまらなかったのが、本当に恥ずかしい。
ヂェンリィは大粒の涙を零して呟いた。
「あぁ、よかった」
喜びと懺悔の入り混じった、まだら色の涙だった。
恭しく跪き、額を地に擦りつける。
「リウ・ラング、あなたを殺そうとしたこと、謝りに参りました。本当に……本当にごめんなさい! 許してもらえるとは思っていない。私に出来ることなら、なんでもします!」
まず答えたのは妻のほうだった。
ヂェンリィに歩み寄り、頭をあげるよう言った。
「おなか、空いてない? うちの人のご飯、おいしいわよ」
「なんで……だって、私は」
「でも生きていたもの。そりゃあ倒れているのを見つけたときは、びっくりしたけど。でも今ピンピンしてる。それに、うちの人も、恨んでないのよ。ね、あなた?」
リウは頷いた。
「事情は聞いているよ、インファさんに。君に刺された後、手紙を出したんだ。回復に時間が掛かったからかな、着いた頃には君はもう旅に出ていたようだけど。生きていたことを内緒にしてもらったのは……まぁ、少しくらい驚かせたって、いいだろう?」
「すべて、私の誤解でした。本当に、本当に申し訳ありません!」
「いいんだ、妻の言った通り、今はピンピンしている」
奥さんがふふと笑う。
「昔の恋人の娘さんだから、すっごく心配していたのよ。本当の仇を探しに出たって聞いて」
「いや、だから、そういうわけじゃないって」
「お人好しなの、うちの人。わたしのときだってねぇ――」
しばらくして、食卓についたヂェンリィの前に自慢の炒飯が置かれた。
それはとても美味しかった。
生涯、これを越える炒飯は食べられないだろう。
食べながら彼女は、これまでのことを話した。
奥さんが聞きたがったというのもあるし、二人には全てを聞く権利があると思った。
母のこと、自分のこと、ショユエに蛇徳教のこと。
思いつく限り、全てを話した。
リウが静かに耳を傾ける一方、奥さんは時に微笑み、時に涙ぐんだ。
「大変だったわね、ヂェンリィちゃん」
「いえ、そんな……」
「だけれど、こう言っていいのかしら、本当の仇は呆気なかったのね」
「そうですね」
ショユエいわく、あっという間の出来事だった。
きっと、あの男は天下無双のまま死んでいった。
師を裏切り、大勢を殺し、不幸にした男は、夢想に溺れて死んでいったのだ。
ただ哀れ。
もはや、それ以外になんの感情もない。
ヂェンリィは改めて二人に頭をさげた。
「……本当に、申し訳ありませんでした。私に出来ることなら、なんでもします」
リウは妻と目配せし「気にしなくていいんだけど」という前置きの後、
「そこまで言うのなら、仁茶村の茶葉を毎年、届けてくれるかな」
「え?」
「インファさんが手紙で心配していたよ。君が、このままどこかへ行ってしまうんじゃないか」
図星だった。
ヂェンリィは二ヵ月前のあの樹立村での戦いの後、ショユエの家にしばし身を置いたが、今回の謝罪を機にもう帰ることはないと決心していた。
この町で死罪になるだろう。
そうでなくとも、なにかしらの罰を受けるだろう。
ここが己の目指すべき死に場所なのだ、と。
その覚悟で村を発った。
そうはならなかった今となっても、彼に言われるまで、帰ろうとは思っていなかった。
あの二人といて、良いのだろうか。
あの二人には、自分にそこまでする義理も因縁もない。
従姉妹みたいなものだとしても、血の繋がりがあるわけでなし。
それでも良くしてくれると、わかるからこそ、甘えてはいけない気がする。
リウが言った。
「ぼくは、きみのお父さんに騙された形になるけれど」
「はい……その節は父が」
「いや、いや、違うんだ。責めたいわけじゃない。ぼくは、あのときだって復讐したいとは、思わなかったんだ。それよりも大切なものがあった」
妻が「チュミンさん?」と口を挟む。
リウは少しだけばつが悪そうに、
「ん、んん。まあ、それもあるにはあるけど、師姉とインファさん。そして師姉も、復讐より大切なものがあった。幸せなことだよ。ヂェンリィ。今、きみは本当の仇もいなくなり、復讐よりも大切なものがある。そうだろう?」
頷くヂェンリィ。
その脳裏には母やショユエたち親子、ヨウオウ・シツの顔が浮かんでいた。
自分の命と引き換えに復讐を果たすことは今でも出来るだろう。
けれど彼女たちとは、もはや引き換えに出来そうになかった。
「なら、それを守りなさい。きっと、それが罪を贖うことになるから」
ヂェンリィは何度も頷き、涙を流した。
「……ありがとう、ございます!」
リウは少し照れ臭そうにして、
「ま、茶葉のことは下心もあるから。普通に買うと結構するからね、あそこのは」
奥さんも微笑む。
「そうね! 少しでも、まけてくれたら嬉しいわ」
「そういうわけだからさ、もう気にしないでくれよ、ぼくたちのことは。生きてるんだ」
ヂェンリィは溢れそうになる涙を拭って答える。
「百袋でも千袋でも、お届けいたします」
そんなにはいらないよ、と夫妻が苦笑する。
復讐も贖罪も、何一つ望むままにならない。
それがヂェンリィ・ラングの旅路だった。
【完】
百合狼伝 壱原優一 @yu1hara
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