第35回 百合の花は満天に咲く
「ショユエ!?」
お堂に出るや否や彼女と出くわし、ヂェンリィは面食らう。
よくよく考えてみれば、彼女にしろフゥシィにしろハオにしろ、いても当たり前なのだが、あの男から逃げることばかり必死で、そこまで頭が巡っていなかった。
再び出会えて、ほっとした。
思いが心の奥底から溢れてくる。
ヂェンリィはショユエの手を掴んだ。
「逃げるぞ!」
しかし意外にも彼女は抗った。
「待って、巴蛇は?」
「間に合わなかった! 奴はもう、私たちの手に負える相手じゃない!」
「あがってくるの? わたしが隙を作るよ」
「無理!」
答えると同時にショユエの腹をぶん殴る。
怯んだところをすかさず肩に担いだ。
「ぢぇ、ヂェンリィ、みんなでなら……」
寺を出る。
とにかく山を降りなければ。
「ショユエ、あんたはまだ知らないから。あいつを見ていないから。あれは、ここの朱嶺派と束になったって敵うものか!」
気付けば涙が溢れていた。
まるで走馬灯のように思いが巡る。
たとえ返り討ちにあうのだとしても、最後まで喰らいつく。
旅を出た日の誓いを裏切ってしまった。
母に申し訳ない。復讐を果たせなくなってしまった。
ショユエとさえ出会わなければ、こんなことにはならなかった。
恨むべき相手を違えてさえ、いなければ。
ショユエには、本当は、なんの因縁もなかった。
この戦いに居ていい子じゃない。
出会わなければ、今もあの村で平和に暮らしていられたのだ。
(それを巻き込んだのは私だ!)
ヂェンリィは心のどこかで、どうにかなると思っていた。
朱嶺派がいて、ハオたちがいて……。
かの天華五輪を卑怯な手で討ち取った奴らだ。
地力なんか大したことないんじゃないか、と。
その結果が、これだ。
死を目前にして無様に逃げ回る。
それでもいい。
自分はいくら無様に死のうと、そんなこと。
間違った相手を殺してしまったのだ。
ろくな死に方できなくても当然だ。
でもショユエは関係ない。
この子は、ただ巻き込まれただけなのだ。
この子は、あの優しすぎる哀れな母親と幸せに生きるべきなのだ。
果たせぬ復讐なんかと、心中させてなるものか。絶対に。
ヂェンリィは全力の軽身功で山を駆ける。
村のあるほうへ、流れた涙が飛んでいく。
足裏の感覚と星明かりが今は頼もしい。
ショユエが叫んだ。
「ヂェンリィ! 追手が――消えた!?」
急停止したヂェンリィは、その勢いままに肩のショユエを明後日の方向へ放り投げた。
巴蛇はすでに、眼前に立っていた。
ヂェンリィは爪を繰り出す。
狙いは首の頸動脈。
不動のまま彼は悠然と受けた。
ペキンッ。小気味良い音がした。
ヂェンリィの三指が、折れたのだ。
もはや、この怪物の硬い体には、いかなる攻撃も効かないのかもしれない。
それでもヂェンリィは臆することなく、次の攻撃を仕掛けた。
「逃げろ、ショユエ!」
その時間を彼女に与えんがために。
跳びあがりながらの後ろ回し蹴り。
これまた男の側頭部に直撃。
足首を取られ、一度、振り上げられたかと思えば、地に叩きつけられる。
まだ体はバラバラになっていないようだ。
なんたる余裕。なんたる傲慢。
よほど
悔しいことに――それが許されるだけの力が、巴蛇には、百合功には、あった。
「に、げて! 生きて!」
か細い願いを掻き消すように、彼女の雄叫びが聞こえた。
「ヂェンリィを放せ!」
生まれて初めて、ヂェンリィは天に祈った。
彼女を助けてほしいと。
神仏に、亡き母に。
(私は、どんな罰でも受けるから……!)
心の底から祈った。
それを最後に、意識は、途切れた。
* * *
「――リィ!」
誰かが名前を呼んでいる。
すごく騒々しい。
なのにホッとする。
「ヂェンリィ! 起きてよ、ヂェンリィ!」
うっすらと開いた目に飛び込んできたのは、今にも泣きそうなショユエの顔だった。
体の痛みで意識はすぐにシャンとした。
「私、どのくらい?」
「ほんの数秒だよ」
ショユエが続けて「良かったぁ」と安堵の言葉を発するよりも早く、ヂェンリィは軋む体を忘れて彼女に抱きついた。
「生きてる? 生きてるよね、ショユエ? 怪我は? 痛いところは?」
らしからぬ様子に戸惑いつつも首肯するショユエ。
「う、うん。だいじょぶ。ヂェンリィ? ヂェンリィも、だいじょぶ? 頭、打ったとかは?」
「私も大丈夫よ。本当に、ショユエ……生きていてくれて……」
ほろりと涙を流して、ヂェンリィは鼻をすすった。
「ショユエ、あなたを死なせてしまったら、私……きっと、なによりも後悔していた。だって、あなたは、ただ巻き込まれただけなんだもの。蛇に騙された、馬鹿な私や母に巻き込まれて、そんなの最初から、あってはいけないことだった。ごめんなさい、ショユエ。ごめんなさい!」
ショユエは、まるで幼子のように泣く彼女の頭をそっと撫でた。
「遅かれ早かれ、だよ」
「え……?」
「わたしね、あなたが来なくても指輪を探しに行くつもりだったんだ」
ヂェンリィは目を丸くする。
初耳だった。
「メイマーマが亡くなってから考えてたんだ。思い出の指輪を墓前に供えたい。インマーマにあげたいって。だから、あなたが来たのは、ちょうど良い機会だったんだ」
「……それでも、こんな危険な目には」
そこで、はたとヂェンリィは思い出した。
「巴蛇は!?」
「それが」
戸惑い混じりの彼女の視線の先を見る。
あの男が地に倒れていた。
その事実を簡単には受け入れられず、ヂェンリィは
「ショユエ……え? 勝ったの?」
言ってから、あり得ないと思った。
勝てるはずがない。
彼女も首を左右に、ぶんぶん音が鳴るほど強く振った。
「攻撃しようとしたら、急に目と口から血を出して死んだんだよ!」
「は? ……はぁ?」
もしかして本当に天罰が下ったとでも言うのか。
「ヂェンリィ、毒でも打ち込んだの?」
「いや……」
それで思い出すのは洞窟での出来事。
だけれど、巴蛇に攻撃する前に、あの男は倒されてしまった。
毒の可能性は低い。
他に現実的な理由があるとすれば、
「もしかして、百合経が」
「偽物ってこと? シツ先生も騙されちゃったのかな」
「その線も、ないとは言わない。でも私が思ったのは、解読に失敗したんじゃないかってこと。内功の部分しかない、恐らく不完全な書。暗号も賢珠語への置き換え以外に仕掛けがあったのかもしれない。……急いては事を仕損じる。ああ見えて、冷静じゃなかったのかも」
「無理もないよ、たぶん。ずっと追い求めていた伝説。それが目の前に現れたんだから。でも幸運だった。そうじゃなかったら、体得を試みた時点で死ぬ運命にあったとしても、その前に、わたしたちも殺されていたよ」
ヂェンリィは折れた指を、とりあえず真っ直ぐにした。
肩や足首にもヒビくらい入っているかもしれないが、もうしばらくしたら内功で痛みも緩和されて、動けるくらいにはなるだろう。
「ま、なんで死んだのかなんて、どうでもいいけどね。死んだ。それだけで、いい」
「……ん、そうだね」
ショユエが柔らかな微笑みを浮かべた。
結局、復讐は果たせず終い。
それでもヂェンリィは晴れやかな気分だった。
父も母も家も失い、復讐のため、母のささやかな愛情に報いるためだけに生きてきた。
それしかなかった。
そのためには己の命さえ使い果たす覚悟だった。
でも、あの死と交わった瞬間、それ以外のものがあった。
それになんて名をつければ良いのかは、今はまだわからないけれど……。
ただ、今は、幸運だと思う。
「あ、この袋かな、たぶん」
ショユエが巴蛇の懐から取り出した中には、思った通り色々な百合の指輪があった。
もちろん、目的は黄色い
ヂェンリィは、今となっては、指輪を母の墓前に供える気はなかった。
ショユエに遠慮したわけではない。
巴蛇の髪の毛あたりを、こいつが本当の仇だった、と供えてやるほうが喜ぶと思うのだ。
「うーん、二つあるよ、黄色の」
「めんざくさいし、とりあえず袋ごとでいいんじゃない? インファさんに確かめてもらって、残りは川にでも捨てる」
「名案! そうしよう」
「それじゃあ、さっさと巴蛇の首を斬り落として村に行くよ」
「うん! 戦いを終わらせないとね」
その帰途でハオを発見。
一見、酷い有様だったが命に別状はなかった。
対蛇徳閥は半分ほどの犠牲を出して、蛇の三分の一を討ち取ることが出来た。
その中には、陣頭指揮を執っていた髭面の男――後継者候補の一人と目されていたガイ・オウもいた。
今後、セイ・レツやヒ・コウなどを筆頭に組織は存続するだろうが、こたびの戦勝をきっかけに追い詰めていきたい。
派閥の頭首、シン・エンはそう語った。
それからしばらく、彼らと彼女らは村で過ごした。
傷を癒す時間のいる者もあるし、戦いの余波でボロボロとなった村を再建する必要もある。
村人たちには少しずつ戻ってもらうこととなった。
ヂェンリィ組にとって悩みの種であったのが百合経のことである。
なぜ
結局、四人は協議の末、当初の予定の通り、洞窟には密かに壁を敷くことにした。
百合経の会得にはシュウ・ユの例を見るに危険性を孕んでいるとしても、それを手にしたという事実が、江湖の勢力図にどのような影響を及ぼすかは計り知れない。
その重責と比べたら、伝説を自分たちの一存で封じてしまうことのほうが、遥かにましだった。
一月が経ち、対蛇徳閥の面々は村を去った。
その数日後、ハオたちが、
「俺らも、そろそろ行くわ。喉の調子も、随分と良くなったしな」
「そう」
とヂェンリィ。
「まあ、色々と助かったわ。ありがとう、ハオ、フゥシィ」
「お、おう。素直すぎて怖いな」
「また二口になりたい?」
ショユエが訊ねた。
「ふたりは、これからどこへ?」
「さあなぁ。元より気の向くまま、風の向くまま、だ」
「そっか。……あ、そうだ、うちの茶葉あげるっ」
「おお。悪いな。茶の匂いに誘われたら、仁茶に寄ることもあるかもしれねえ」
「そのときは歓迎するよ。ね、ヂェンリィ」
「は? 私は仁茶の出じゃないし」
苦笑しながら、ハオとフゥシィは旅立っていった。
彼らが見えなくなるとショユエは、
「仁茶には帰らないの?」
「まずは、あんたを送り届けるとこまではやる。その後は、まだやるべきことがある」
「その後は?」
ヂェンリィは答えられなかった。
「うちに帰ろうよ。なんなら、ヂェンリィのお母さまやお父さま、おじいちゃんたちのお墓も、うちに移したっていいからさ」
「……なんでよ」
そう訊き返すヂェンリィは、悲痛な面持ちだった。
「なんで、そんなこと……言いがかりつけて、襲って、こんなことに巻き込んだってのに」
答えるショユエの微笑みは、インファが、彼女へ向けるそれと似ていた。
「そりゃ出会いは最悪だったけど、でも、今からでも家族になれると思うの。そもそも従姉妹みたいなものだしさ。だから――おうちに帰ろう?」
ヂェンリィは鼻の奥がつんとするのを誤魔化すように、そっぽを向いて吐き捨てる。
「……ほんっと、人のいいやつ。馬鹿じゃないの」
ショユエが、その手を優しく握った。
「いつでもいいから。ね? 覚えていてよ」
こうして、ツァオ・ラングに始まり親子三代に渡って翻弄し続けた百合の指輪は、ひとまず、安住の地を見つけた。
だが、ヂェンリィ・ラングがその地に辿り着くのは、もうしばらく先になるだろう。
彼女の旅路は、ここから、始まるのだ。
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