第34回 最終局面
「オスガキが。ちょっと可愛いからって調子に乗るんじゃねえわよ」
麻辣掌のスイと呼ばれる女の言葉に、口を利けぬフゥシィは再び小指を立てて返答する。
貴女なんか取るに足らない、と。明らかな挑発。
スイは苛立ちを見せながらも、それに任せて攻めてくるかと言えば、そうではない。
広げた両手を胸の高さに挙げている。
警戒心は根深いようだ。
さもありなん。
二度、喰らったのだ。突然、眼前に現れるあの突きを。
フゥシィは、その場で一定間隔、トーン、トーンという跳躍を繰り返す。
もはや先のように隙を見せてはくれないだろう。
麻痺の毒氣を使う彼女は、狙っている。
突きの瞬間こそを。
(相打ちで充分なのでしょうね。毒氣を吸わせるか、触れて氣を浸透させられたらいい、と)
パァンッと渇いた音が鳴る。
フゥシィの一打が胸部に入ったのだ。
攻め気をまるで感じさせず、上下運動から突如として水平へと転じる。
予備動作を極限まで廃した無拍子の突き。
彼の師はこれに瞬拳と名付けた。
フゥシィは、ショユエとの出会いには、心底、驚いたものだった。
この拳に合わせることの出来る者がいるだなんて。
恐るべき機先を読む力。世界は広い。
一方、このスイという女暗殺者はどうだろう。
(……侮れないものですね)
引っ掻きを決めた彼女ほどではない。
が、指先で触れるくらいは出来ている。
打点も、心臓付近から少しずらされた。
単に毒氣だけの手合いではないということ。
それが毒氣も使うのだ。
これは中々に骨の折れる相手かもしれない。
フゥシィは拳を握り直す。
手先に微かな違和感がある。
(すぐにどうこうということは、ない。けれど、このまま時間が経つにつれて、向こうは合い、こちらは鈍るだろう)
女が鼻で笑う。
「あんたの拳なんか、軽いし。咽び泣いて許しを請うなら今のうちよ。すぐに、そんなこともできなくなるんだから。そしたら可愛がってあげる、大人の女のやり方でね」
フゥシィは跳躍の
「生意気ぃ~」
だから何度だって打つ。百でも千でも。
打って退く。愚直にひたすら繰り返す。
そんな彼の戦法に対して、彼女が採ったのは毒氣の煙幕だった。
両腕を繰り返し繰り返し、振るって氣を放つ。
上手い手だと、フゥシィは素直に称賛した。
(息を止めて跳び込むけど、弾みで少しは吸ってしまうこともあるかもしれない。防御、接触にも転じやすい。……最初からそうはしなかったのは、消耗が激しいから、かな)
フゥシィの瞬拳が炸裂。
律動を変えての一発目は綺麗に、顔に入った。
毒氣も吸うことはなかった。
が、しかし――。
それから掌で完全に受け止められてしまうようになるまで、やはり、時間は掛からなかった。
その段階にまでなってしまえば、打てば打つほど体に毒氣が染み込んでいく。
だがフゥシィは打ち込み続けた。
握り拳はどうにか形を保っているが、力を込めている感覚はない。
とうとう足もつれて倒れ込む。喉も痺れて苦しい。
長くはないだろう。
解毒薬なんてものがあっても、懐に仕舞ったままでは何の役にも立たないのだ。
(だ、けど……ぼくの……勝ち、だ……じゅうぶん、打ちこめた……)
フゥシィはひきつる唇を吊り上げる。
女の高笑いが――やんだ。
喉を押さえながらヒュウヒュウと苦し気な息を漏らす。
驚愕と苦悶に歪んだ顔して膝を折る。
「なに、を、した……っ! がき、がぁ……!」
フゥシィはそっと、震える小指を立てた。
彼女がそれを見たのかは定かでない。
床に倒れ込む音だけが答えだった。
フゥシィの外功は当てることは巧みでも威力不足。
その点は否めない。
だが彼には、それを補う内功の
それは単純に威力を底上げする、という性質のものではない。
彼の握りは、中指の第二関節を少しだけ突出させる。
そこから、着弾の瞬間、氣を打ち込む。
それでもって相手に内傷――経絡に傷をつけるのだ。
小さな傷ゆえに数打たねば、ほぼ効果を発揮しない。
スイは、その傷より毒氣が自らの体内に漏れ出てしまい、制御不能に陥ったのだった。
内傷は治りにくい。下手すると一生もの。
武芸者として再起できないばかりか、廃人になることもある。
こんなときでもなければ使わない、使う必要のない、フゥシィの秘策であった。
* * *
無論、本名ではない。
江湖北方の暗殺業界にいた彼に俗世の名はない。
首を締め上げてから、動かなくなるまでの無様な姿に興奮する。
そんな
趣味と実益を兼ねた殺し屋だ。
もっとも、ショユエは男の名も経歴も知らないし、関心もない。
男が髪をよって紐にしたものを武器にしているということ。
それで充分。
髪にしては強度が高い。内功をこめて作ったのだろう。
さっきは五度ほど爪で斬りつけて、ようやくだった。
男はあれから、ずっと樹上に隠れている。
辺りには黒い紐が何本も垂れ下がっている。
ショユエもまた、機敏に体の向きを変え、急襲に備え続けている。
左手を胸の高さ、右手を顔の高さに挙げ両手の指を猛獣の爪の如くに折り曲げている。
ふと思う。
本当に樹上にいるのだろうか。
とっくに枝を足場にして二人を追い掛けてしまったのではないだろうか。
ならば、行かなくては。
その瞬間こそ狙っているのではないだろうか。
ショユエの顎から一滴の汗が落ちていった。
実戦経験に乏しい彼女だが、山中で姿の見えない相手――メイフォンとこうして向き合ったことはある。
鍛錬の一環だった。
そのとき母は、こう言った。
『膠着状態ではね、相手も苦しんでるはず。今か今かと待っている。その状態を維持するのは水の中にいるみたいに苦しい。だから――』
ショユエは構えを解いた。
(……降りてこない)
しばらく待ってから、ヂェンリィたちの向かったほうへ向き直る。
そして駆け出そうとした瞬間、突如として振り返る!
逆さまの男と目が合った。
男も確かに苦しかったのだ。
早く早く、吊るしたくてたまらなかった。
『だから、顔を出して良いよと、教えてやればいいのよ』
紐がショユエの首に巻き付く。
その締め上げよりも早く、ショユエは男の肩を指で穿つ。
紐を握る手が、にわかにゆるむ。
さらにショユエは、肩の穴に指を突っ込んだまま、全体重をかけて男を地に落とさんとする。
相手も流石に足のみで昇り降りするだけのことはある。
中々に耐える。ばかりか紐を引き絞る手にまた力が戻る。
けれども、耐久勝負となれば手負いとなった彼に、勝ち目などなかった。
ショユエは引きずり倒した男の顔を殴りつけ、うつ伏せにさせる。
紐を奪って両手首を縛る。これでしばらく動けまい。
ショユエはさっさとヂェンリィらを追った。
すっかり日は落ちて夜闇に星空が浮かんでいる。
寺のお堂で、フゥシィが倒れているのを見て血の気が引いた。
すぐさま具合を確かめれば、辛うじて息がある。
外傷らしい外傷がないから毒だろう。
懐から取り出した薬を喉の奥に突っ込んでやる。
女のほうも、まだ息があった。虫の息というやつだ。
動けないのなら特にすることはない。
このまま女が死ぬのか、それとも生き残るのかは、天のみぞ知るところ。
ショユエはフゥシィを寺の裏側へ運んだ。
ここなら死角となって、ゆっくり回復できるはず。
それから例の階段を降りようとして、人の気配に後退る。
誰かがあがって来る。
蛇徳教だろうか。
ヂェンリィだろうか。
(前者だったら先攻をもらう)
そんな気概で構えていたショユエの目に飛び込んできたのは、後者のほう。
青い顔したヂェンリィだった。
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