第33回 百合宝樹の根元

「――そこにいるのは誰ですか?」


 ヂェンリィは口から心臓が飛び出るかと思った。

 しかし彼の視線は、ヂェンリィのいるほうとは反対側へ向けられている。


 人影が一つ、増えた。

 岩陰から姿を現した男は跪く。


「申し訳ありません、巴蛇様。お邪魔になるのではないかと、機を見ておりました」


 ヂェンリィは当然に知らないが、その男は、あの猫目の女に付き従っていた頭巾――先代の巴蛇の子、ヒ・コウだった。


「戦局について、お伝えするよう申しつけられ参上した次第です」

「朱嶺派に苦戦しているのですか?」

「はい」


 ヂェンリィは部下らしき男を訝しんだ。

 彼女が戦場をあとにするまでの様子では、朱嶺派が苦戦することあっても、その逆はないと思う。


 なぜ男は嘘をつくのか。

 それとも大番狂わせがあったのか。


 巴蛇は変わらぬ声で

「そうですか」

 と答えて、部下から壁に視線を戻した。


 部下の言葉も不審だが、それ以上にシュウ・ユは不気味だった。

 貼りつけたような笑みに、落ち着き払った声。

 それは聞く者の心にすっと染み入るような、不思議な声だった。


 緊張感や刺々しさとは、きっと無縁に思えた。

 まさか。暗殺集団の長が? あり得ない。

 そう言いたいところだが、思うにそれが彼の恐ろしさなのだ。

 必要とあらば、どんな残虐なことにも平然と手を染める、不動の精神。

 その現れだ。


「……よろしいのですか?」


 ヒ・コウは訊ねながら静かに立ち上がる。

 その手には白刃が、薄明りに照らされ煌めいていた。


「駒の補充など、百合経を掲げれば容易いでしょう。脱皮する良い機会です。が――」


 そして男が小刀を振るわんとした瞬間、スイカの割れるような音が洞窟に響いた。


「あなたの好機では、なかったようですね」


 ただの一蹴り。

 それだけで男、ヒ・コウの頭は地を転々と。


「先代、父親を殺された復讐といったところですか」


 巴蛇はそうするのが当然のように血飛沫噴き出す胴体を軽く小突く。

 それはやけにゆっくり、ぐらぁり――倒れていく。

 まるでヂェンリィに、間もなく訪れる未来を突きつけるかの如くに。


「それにしても、ここまでとは思いませんでした。ほんの入口をくぐっただけで、これほどの力が湧いてくるとは。流石は百合宝樹の内功。素晴らしくもあり、恐ろしくもある」


 そう言う巴蛇の目は、ヂェンリィの潜むほうへ注がれていた。


「あなたも、そう思いませんか?」


 ヂェンリィは完全に岩陰に隠れている。

 体を小さく縮こまらせ、微動だにしない。

 息を殺すばかりか、心臓の音さえ消し去らんと、両腕を胸に押し付けている。


 蛇に睨まれた蛙とは言うまい。

 蛇は睨むどころかにこやかで、蛙は岩影にいるのだから。


 ヂェンリィは全身全霊で、見えざる彼の動向に注意していた。

 どうすべきか。必死に考えていた。


 一目見てわかった。勝てない。

 決死の覚悟でも勝てない。


 時間を稼げたとして、三十秒ほど。

 それだけでも上等だ。


 彼の言葉が真実だとして、なお江湖に怪物が産まれたとしか言いようがなかった。

 天下無双の足元でさえこうなのだから、百合宝樹の遥か高きことには畏怖を禁じ得ない。


 ヂェンリイが、かの者について知ることは多くない。

 人伝に聞いた、伝説のいくつかと異名くらいだ。


 もっとも、歴史書を紐解いても、かの者について正しく知ることは難しい。

 本名はおろか、性別だって確かではない。

 あるいは個人ではなく組織の名、と語る者もいる。


(救国の英雄! 真なる黄帝の矛にして盾! 全ての武の結集! 全ての武の始まり! 天下無双! 麒麟の化身! ――百合宝樹! あんたって人は、とんでもないものを遺しやがって!)


 百合宝樹とは何者だったのか。

 なにを思って、これを遺したのか。


 わからない。

 が、今、ここにあるのは、その圧倒的な力の片鱗だった。


 力や技には意思がない。

 ゆえに左右される。

 それを持つ者が悪鬼なのか、善神なのか――に。


 ヂェンリィは、岩に張り付いていた背と尻を全力で引き剥がす。

 彼の動く気配を察知してのことだった。


 遅かった。

 岩陰からぬっと伸びた彼の手に首を掴まれて、そう思い知った。


 巴蛇はヂェンリィを岩に押し付けながら、くつくつと、喉でワラった。

 産まれて初めて、彼は心から笑っている。

 彼と初めて顔をつき合わせたばかりのヂェンリィだったが、不思議と確信があった。


 ヂェンリイも「ひひひっ」と口角をあげた。

 恐怖のあまり。そして自らの馬鹿さ加減を笑っていた。


 もしも、小刀をあそこで投げずに持っていれば、刺すことも出来たろうに。

 いや、けれど解毒されてしまうだろうか。

 試すくらいの価値はあった。


 殺す者と殺される者が共に、友のように笑っている。

 異様な光景は、なお続いた。


 ――巴蛇が手を離したのだ。


 訝しむヂェンリィに、彼は元の笑みを向ける。


「三十秒だけ、あげましょう」

「あ……?」

「逃げるんですよ。このまま殺されては、百合功を実感できないでしょう? あなたも武林の端くれならば、かの百合宝樹が遺産に触れて死にたいでしょう?」


 この男はどうやら、力に溺れ切っているようだ。

 いつでも殺せると、たかを括っている。油断しきっている。

 今、ここで、小娘を殺す必要はないと思っている。


 好機だ。一発逆転の大好機。

 でもそれは、相手が並の悪党だったらの話。


 動けずにいるヂェンリィに、彼は自分の手提行燈を握らせる。

「暗いですからね。途中で転んだりしては大変です。さあ、お行きなさい」


 そして手拍子が、ぱぁんっと一つ響くや否や、ヂェンリィは全速力で駆けだしていた。


 彼は追ってきていない。

 そのはずだ。


(なのに、どうして! ずっと首元に刃を押し当てられているような!)


 後ろを振り返って確認する気にはなれなかった。

 いや、その必要はない。

 彼は追ってきていない。


 追ってきていないのだ。



   *   *   *



「ハオさん、勝ってね!」


 ショユエの言葉に頷きながら、彼は腰にぶら下げていた籠手こてを両手にはめる。

 獣皮に鉄板を貼り付けたもので、手の甲から手首の少し先までを覆う。

 毒を警戒して朱嶺派から借りたものだ。


(こいつの戦法やりくちに毒はいらねえだろうがな)


 ハオは物に氣を巡らせるのを不得手としている。

 あの青龍刀に対抗するには、少し心許ない。


(が、ないよりはまし、だ!)


 ハオは腕を振り回して相手に向かっていく。

 拳と武器という違いはあれど、奇しくも二人の戦法は近いもの。


 力任せに、ただ振り回す。

 己の間合いに入るもの全てを破壊する。

 鍛え上げられた肉体が生み出す、暴力の嵐。


 嵐と嵐とがぶつかり合う。

 鉄と鉄とが響き合う。砂や葉が、石が枝が踊り狂う。


 不利有利を語るなら、やはり、ほぼ素手のハオが不利に思われた。


 しかし意外や意外。

 武器の重量を乗せた攻撃にも、決して圧し敗けていない。


 ハオは真っ向から受けず、高速の振りを見極め、刀の腹を殴り軌道をずらしているのだ。


 長続きはしないだろう。

 集中力があるうちに拳の間合いへ入らねば、死あるのみ。


 だというのにハオは、そこから一歩も進めずにいた。

 金剛腕をさらに加速させる。

 青龍刀、遅れることなし。


 ハオはなお速く、強く腕を振るう。

 やがて頬を汗が伝う。冷たかった。


 次の一刀を強く弾き飛ばして踏み込み――、否、後ろへ跳躍する。

 喉元に赤い線、一筋。

 パカッと空いた第二の口からヒュウと息漏れたかと思えば、ハオは仰向けに倒れていく。


 嵐はやんだ。

 男が踵を返す。


 一刹那。

 男はにわかに、初めて顔色を変え、振り向きざまに一閃を放つ。


 その判断は正しかった。

 ハオの斬られたのは、奇跡的にも気道のみ。

 死んではいなかった。


(最後まで油断しねえとは、やるじゃねえか。だが!)


 間一髪。

 青龍刀の横薙ぎを頭上に感じながらハオは、裂帛の気合と共に拳を男の顔面へ叩きこんだ。

 男は怯みながら今度は右の青龍刀を斬り上げる。

 左肩に痛みが縦にはしる。


 さらに左が横薙ぐ。

 その刃が辿り着くより早く、ハオの金剛腕が再び顔を打つ。

 相手が後退ったなら、すかさず跳び蹴り。

 倒れる男。

 馬乗りになると青龍刀の切っ先が脇腹を抉った。

 一瞬、苦悶の顔を滲ませるハオ。


 いいや、腹かっ捌かれてなるものか。


 放つは絶命の一撃。

 頭蓋の潰れる音が、山中に木霊した。


 ハオは肩で息しながら男――竜巻のリーフェンの上から退くと、道端に座って傷を確かめる。


「首と、縦のは……平気、か。腹のがちぃときついな。深くはねえようだが、浅くもない、か」


 念のため、朱嶺派に貰った各種解毒薬を飲み、帯で腹をぎゅっと締める。

 そうしてようやく、一息つけた。

 木を背もたれにして腰を下ろす。


「少し、休むか。十分……いや、五分だけ。内力で回復、を……」

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