第10話

 年老いたザカの目は、遠い時間の彼方へ去って行った人々を見つめている。彼が再び口を開くのを待つ間、ロンデはソギから聞いた話を思い返していた。

 一度は焼けた屍竜樹ネグドラディも、焦げた葉と実を落とした後は一年と経たぬうちに元の姿に戻った。

 そのころティコは孕み、やがてタティカという美しい娘を産んだ。母になったティコは、娘のためにしばらくは槍を置いたが、娘が乳離れした後はまた槍人ゴークに復帰した。彼女の槍さばきは、まるで衰えを知らなかったという。

 タティカとソギはすぐに仲良くなった。ふたりを許婚にしてはどうか、と最初に言い出したのはオセルだった。ザカに断る理由はなかったが、ティコは「お互い好きなら、結婚すればいい」と言った。相手のことが好きかと尋ねると、幼いふたりは無邪気に頷いた。リュオンは「それじゃあ私が、タティカに素敵な花嫁衣装を作ってあげる」と、手を叩いて喜んだ。

 けれどもリュオンは、ザカとの六人目の子のお産で死んだ。ソギが十二歳のときだった。同じころ、オセルもワベ族の騙し討ちに遭って命を落とした。彼らの葬儀には、いずれもザカが彫った竜燭ムーリが用いられた。

 彫り人ナンクの仕事が手につかなくなるほど落ち込んだザカと違って、ティコはすぐに立ち直った。彼女はときどきザカを訪ねてくれた。ふたりは亡くなった互いの伴侶の思い出を語り合っていた。――

 ザカが再びティコに対して特別な感情を抱いたかどうかは、ソギやロンデの知るところではない。ただ、ザカはこう語っただけだ。

「ティコが死んだのは、おれのせいだ」

「それは違う。ソギもそう言っている」

 ザカが首を振った。

「おれは、外の世界に出たがっていたソギを許さなかった。あいつにはおれ以上に彫り人ナンクの才能があった。おれはそれが惜しかったんだ。若いころ、ティコには夢が叶うようにと願ったのに、自分の息子には同じことを言ってやれなかった……」

 ザカとの激しい親子喧嘩のあと、ソギは真夜中に竜燭ムーリさえ持たずに里を飛び出し、山を下ろうとした。だが夜の山は、竜神の守りなしにはあまりにも危険である。槍人ゴークたちがソギの捜索に出た。無力なザカは、ただ息子の無事を祈ることしかできなかった。

 夜が明ける前、ティコがソギを連れて帰ってきた。ザカが心からの感謝を伝えようとしたその瞬間、ティコは目の前で倒れた。その足首に、点々と傷ができていた。毒蛇に咬まれた痕だ。安堵の涙が、悲嘆の涙へと変わった。

 ザカにとって何よりもつらかったのは、「母が死んだのはお前のせいだ」とタティカがソギを責めたことだ。ソギとタティカの結婚は自然と破談になり、ソギは深く傷ついた。

 ティコとの婚約が破談になったときのザカもひどく苦しんだが、ソギはそれ以上だったろう。だが本当に悪いのはソギではない。ザカが息子の夢を認めてやっていたら、こんなことにはならなかったのだ。

 そのころ外の世界では、安価で扱いやすい灯油ランプが普及し始め、竜燭ムーリは以前ほど売れなくなっていった。ティコが死んでから一年と経たぬうちに、ナティウ族の生活は徐々に困窮していった。若者たちは祭り人トゥークの命令を無視して里を去って行った。タティカもソギとは別の夫とともに去った。残された老人たちはひとり、またひとりと竜神のもとへ旅立ち、里は急速に寂れていった。

 ソギは一緒にピアトへ移り住もうとザカを誘った。ザカもまだ三十代だったし、優れた彫刻の技能を持っているから、発展めざましいピアトに行けば仕事に困りそうもなかった。

 けれどもザカは頑なに拒んだ。ティコが槍人ゴークの仕事で死んだ。しかも自分の息子を助けるために。最後のひとりになってもこの地に残り、若き日の約束を果たし、己の罪を引き受けねばならない――この命が尽きるまで。

「……ソギには、何度もそう伝えたはずだ」

 ザカが竜燭ムーリに手を伸ばし、火を消そうとした。ロンデはその手をつかんで止めた。話はまだ、終わっていないのだ。

「僕からも君に聞かせたいことがある。ピアトに移り住んだソギが、どうなったかを」

「知ってるよ。商人になったお前から、仕事をもらって生計を立てているんだろう。そのことは本当に感謝してる。あいつは気の毒なやつだ。もう四十も近いというのに、ずっと独り身で……」

 ロンデは青い目を見張り、首を振った。

「……違うのか?」

「ソギはついこの間、結婚したんだ。相手は誰だと思う?」

 なぜそんな質問をするのか、ザカには分かったはずだ。しかし頭に浮かんだ答えを信じられない様子で、口を開いたまま硬直している。

「タティカだよ、ザカ。ソギはタティカと結婚したんだ。タティカは夫とそりが合わずに、ピアトに来て数年で別れた」

「別れる? ……夫婦が、夫婦をやめるのか?」

「ピアトにはその自由がある。ともかく、タティカは独り身に戻り、独り身のソギに出会ったんだ。ふたりは過去を乗り越えて、自分たちの意志で夫婦になった。ついこないだ息子も生まれたよ。ジャルヤという名前だ。君の孫で、ティコの孫だ。ティコの弔いは、もう十分果たしたろう。君が罪を背負い続ける必要なんてないんだ。僕と一緒に、ピアトへ行こう」

 ザカの目から、ぼたぼたと涙が落ちた。屍竜樹ネグドラディの下で竜燭ムーリを彫り続けた最後の彫り人ナンク。その大いなる孤独が、終わりを告げた。

 夜が明けて里を出る前に、ザカは竜燭ムーリをひとつ灯してジャガラ=チセに放った。亡きティコへの最後の贈り物だった。

 ロンデが連れてきた二頭の馬は、麓の村で草を食みながら大人しく待っていた。行きはロンデだけが乗っていた。帰りにはザカもいる。馬に乗ったことのない彼のために、ロンデは穏やかな気質の馬を選んでいた。

 ふたりは馬首を西に向け、野営しながら二日歩いた。悪臭が漂ってくると、そろそろニタンガ川が近いと分かる。

 ザカは初めて、ジャガラ=チセが行き着く先を見た。

「こんな、汚い川だったのか」

 寂しげな呟きが、いつまでもロンデの耳から離れなかった。(了)

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竜の灯は泥河に流れ(短編版) 泡野瑤子 @yokoawano

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