第9話
ティコはその日、家で槍の修理をしていた。オセルは川向こうに狩りに出かけていた。槍を壊していなければ、ティコも一緒に行きたかったのだが。
新しい穂先を柄にくくりつけ、修理は完了だ。もう夕陽が沈みかかっている。そろそろオセルも戻ってくるだろう。
そのとき、
ダーシタルミの逞しい肩を丸い穴が貫き、赤黒い血がとめどなく溢れ出している。その傷がどんな武器によるものなのか、ティコはまだ知らなかった。
「……ザカが、連れて行かれた」
膝をつき、苦しげな息を吐きながらも、ダーシタルミはいまかつてない災厄がナティウ族を襲っていることを伝えた。そして里を守るため、ザカが自ら犠牲になろうとしていることも。
「ザカは、いまどこにいる」
「あいつらと一緒に
「そういうわけにはいかない」
ティコは奥歯をぎりりと噛みしめた。ティコがロンデを助けたから里に災いを招いたのだ。何より、ザカには返しきれないほどの恩がある。ザカを見捨てることは、
「すまない、ダーシ。お前は自分で手当てをしてくれ」
軟膏と当て布をダーシタルミに押しつける。ティコは鬼面をかぶり、修理したての槍を手に家を飛び出した。
里は静まり返っていた。みな外から来た悪鬼に怯え、家の中で息を潜めているらしかった。倒れたまま動かなくなった
山からは女たちが駆け下りてきた。
ティコは坂の上を睨む。
「お前たち、いますぐ
門は開け放たれたままだが、里の掟がティコを無意識に縛りつけていた。一歩門を踏み越えられずに柵の外から叫ぶティコを、ザカが見つける。
「ティコ、なんで来た!」
ザカは賊の長らしき男――ボリノの腕に締め上げられたまま、こめかみに黒い筒のようなものを押し当てられている。あれが、ダーシタルミの肩に穴を開けた武器だろう。そのすぐそばにロンデもいる。表情を凍りつかせて、ただ座り込んでいた。
〈おいおい、ありゃ女か? ずいぶん威勢がいい嬢ちゃんだ〉
〈そんなとこにいたって、こいつは助けられんぞ?〉
知らない言葉だったが、薄汚い男たちが一斉にせせら笑ったので何を言われているのかは想像できる。好きなだけ笑うがいい。いまのティコには、未知の武器すら脅威ではなかった。
「ザカ、いま行く」
ティコは燃え盛る闘志とともに、冷えた頭で考えた。
ザカを助けるまで、大股に跳んで四歩ほど。武器の形状とダーシタルミの傷口から想像するに、あの黒い筒からは矢か、
まず、一歩。跳躍の瞬間、爆ぜる音とともに足元の小石が弾けた。
「やめてくれよ! ティコを撃つな!」
ザカが悲鳴交じりの声を上げた。悪党が何とか言って笑う。二歩め、二発めの銃声。何か鬼面をかすめてひびを入れる。最初とは別の方向から撃たれた。三歩めで聖域に踏み入った。また銃声。左腕にひりつく痛みが走る。でもこのくらい、どうということはない。あと一歩。槍をぶん回し、走り寄ってきた男二人の額を割る。跳ぶ。しかしボリノの銃口は、確実にティコを捉えていた。
――殺される。
あっという間のことだった。
わずかにボリノの腕が緩み、ザカの身体が滑り落ちる。彼はとっさに、足元に転がっていた
「このクソガキが!」
弾を込め直した手下が駆け寄って来て、代わりにティコを狙った。
「おい馬鹿、やめろ……」
ボリノには何が起こるか分かったらしいが、もう遅い。ティコはザカの腕を掴んで引き寄せ、身を盾にして彼を守った。
耳をつんざく轟音は、かえって静寂に似ていた。
山ごと
柵がなぎ倒されるほどの爆風だった。
彼らが盗もうとしていた
「あの武器、燧石を使ってるみたいだな。だから脂に火がついたんだ。
ザカがティコの胸の下で言った。だから「聖域」だったのかもしれない、とティコは思った。
「
「おれにも分からん。でも竜の木なら、きっと炎に枯らされることはないんじゃないかな。……それより、ロンデはどうなった?」
こんな状況でも、ザカはロンデの身を案じている。
ロンデは倒れた柵のそばでうずくまっていた。ほとんど怪我はしていない。竜神はこの少年を罰さなかったようだ。ならば、ティコもまた彼を罰することはない。
「ロンデ、私の目を見ろ。私の言葉が分かるな?」
ティコはロンデの正面に腰を下ろし、鬼面を取った。ロンデは涙目で頷く。炎に照らされて、青い瞳がティコと橙色を映した。
「ほかのナティウ族に見つかる前に、山を下りるんだ。二度とここへ来るな。わたしたちのことを、二度とほかの人に話すな。いいな?」
腰に下げた
ロンデは何度も頷いた。行け、とティコに促されて走り出した外の少年は、一度だけティコとザカを振り返ったが、斜面を下るともう見えなくなった。夜道をひとりで行かせるのは危険だが、竜神の加護があるなら生き延びられるはずだ。
「ティコ、帰ろう。おれたちの家族が待ってる」
ザカの言葉は、ティコの心に不思議な雫を落とした。
――帰れるのか、私は?
ザカとともに山を下りると、里の人々がみな外に出ていた。燃える
ザカと別れ、ティコは家に辿り着いた。ひとりティコの帰りを待っていたオセルと見つめ合う。
ティコの「泉」が、内側で震えた。
「……ダーシは?」
「帰った」
答えを聞いたとき、ティコは我を忘れてオセルに飛びついた。逞しい胸に迎えられ、求められるより先に唇に吸いついた。カヤに対する自責の念も、
わたしは生きている。それがすべてだった。たとえ罪深く、弱くてつまらない存在だとしても、わたしはわたしの求めるものを求めてよいのだ。
腕の傷から血が滲んだが、どうでもいい。オセルもティコの求めに応じた。お互いの胸元に手を差し入れ、ふたりを隔てるすべてを取り去る。
せめて寝床へ、と一瞬よぎった理性は、熱を帯びたオセルの手によって揉み消された。ティコの手も、オセルの割れた腹筋の下へ伸びた。はあ、と生ぬるい息が混ざり合う。固い床の上に背中をつけ、オセルを自分の上に招いた。
まずはオセルの指先が
「おれだって……、ずっとこうしたかった」
身体を貫く痛みすら歓びだった。槍が泉へ沈むのか、泉が槍を呑み込むのか、もはや曖昧なほどにふたりは求め合った。
やがてオセルが短い声を上げて腰を震わせた。ティコはその背を強く抱いて受け入れた。ふたりして大きく息を吐き、そのまま床に転がった。床に点々と血が落ちている。初めて身体を交わした妻に何を言おうか決めあぐねている様子の夫に、ティコが呼びかけた。
「オセル、もう一回だ。わたしはまだ物足りない」
目を丸くする夫の手を引く。次は、ちゃんと寝床で。この夜を、まだ終わらせたくなかった。
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