第10話
入り組んだ裏通りに逃げ込まれると土地勘がないだけにアクシャイには不利と言えた。牛やリキシャや露天商をすり抜け、何度も角を曲がるのだったが、路地のどん詰まりに辿り着いたころには、すっかり盗人の姿を見失って途方に暮れてしまった。
「遅かったなアクシャイ」
がっくりと肩を落としたアクシャイに声をかけたのは、なんと師であった。路地の片隅で
突き出た家々の屋根はアーケードのように路地を薄暗くしていた。
そのせいで師の姿が認めがたく感じたが、見たところ別れた三年前と違いはなく、変わらず壮健と映った。お手玉を返すと少女は駆け去っていったが、かわりに商人が息を切らしながら、おぼつかない足取りでやってきた。
「おお、師よ。お久しぶりでございます」
「誰だ? こいつは。死んだガチョウのようではないか」
初対面のやり取りを反復するように師は冷たく突き放し、ぶるぶると身を震わせた。師に忘れられていたことに商人は少なからぬ哀しみを覚えた。
「師よ。この商人はあなたの排泄物を欲しがった男です。共に旅をしたのをお忘れですか」
アクシャイのとりなしにも一向に動じる気配はなく、知らん、とだけ師は呟いた。
「なんだクソが欲しいのか? そんなものならいくらでもくれてやるぞ」
あれだけつき纏っても、いっこうに排泄の瞬間を掴ませなかった師がいきなり手の平を返したのに商人は戸惑った。
「ついてこい」
風の強い日だった。コルカタの少年たちはこんな日には凧を上げて遊ぶ。糸にはガラス粉が含ませてあり、それを絡めて互いの糸を切り合うという喧嘩凧である。負けた凧が突風に流されて墜落し、トタンの庇を破って商人の足元に着地した時、瓦礫の堆く積まれた解体現場に一向は差し掛かった。
「このあたりでよかろう」
そう告げると腰布をたくしあげた師は西日差す集積物の山の頂上にしゃがみ込むのだった。人目などお構いなしの師であったが、商人とアクシャイは背中を向けた。
「ご機嫌なクソだ。まったく」
振り向けば、そこには夢にまで見た聖なる大便があった。一点の曇りもない見事な一本糞で、それはそれは美しい代物だった。最高級の大麻樹脂さながらの質感は排泄物となってなお充分な滋養を含んでいると思わせる。この世界にこれほどまでに完璧な姿があったろうか。いいや、ないぞ、と商人は確信した。その屁でさえ、妻の痛風を癒したのだ、大便ともなれば、まさしく大いなる大地をまるごと黄金に変える力があるに違いない。
「素晴らしい!」商人は狂喜した。顔を近づけて、手で仰ぎ、心ゆくまで香りを味わった。麝香のような神々しい匂いで肺が一杯になる。脳が痺れて、言葉が上手く出てこない。
「アクシャイよ。呼びつけておいてなんだが、別に言うべきことはもはやない。神のお膝元で面白おかしく生きていけ」
「はい」
再会を果たした師弟は、そっけない言葉を交わすとあとは無言になり、鼻をほじった。商人だけが、いままさに聖穢に触れんとゆっくりと手を伸ばしているのだったが、紙で包むとか、手袋で掴むといった発想はもはや脳中から消えていた。無限の黄金を生む愛おしきソレに直接触れてみたい。商人はたったそれだけの衝動に突き動かされていた。聖者の排泄物が持つ誘引力はそれほどのものであった。
――ああああああ!
ついに聖なる穢れに触れる。商人は恍惚境に遊んだ。神秘の力が指先から全身に流れ込む。そうだ。これは触れるものを黄金する力があるのだ。商人は自分が高貴で輝かしい金色の存在になったのだと確信した。逆立ちした家具のように、すべての観念がひっくり返っていく。いまでは身に着ける宝飾品の数々こそが唾棄すべき汚物であると思えた。指輪やブレスレットを取り外し、一片の未練もなく放擲する。土くれほども価値のないものばかりだった。シルクのドーティも要らない。それどころか妻や息子さえ要らないと思った。とうとう幾万の者が夢見た境地に辿り着いたのだ。儂は光明を得た!
「師よ。これが――」全裸になった商人は排泄物を抱きながら、滂沱と涙を流す。「これがあなたの御覧になっていた世界なのですね。おお。なんと不可思議な、それでいて光輝に満ちた‥‥なんという」
商人はそっと大便を掴むと、それを厳かに天に掲げた。
この糞便で商人は黄金を作り出そうとはもはや考えなかった。一攫千金の望みも消え失せた。己が黄金であるならば、これ以上何を求めることがあろうか。ついに長い生涯追い求めた答えを得たように商人はひどく満たされていた。
――プッ。
だしぬけに聖者は笑い出した。
まるで突発的なヒステリーのように腹を抱えて爆笑する。
「師よ!」アクシャイも驚きを隠せない。「どうなさったのですか? なにがそんなに」
「――それは犬のクソだ」と師は言った。「そいつは犬のクソをうやうやしく差し上げているじゃないか。これを笑わずして何を笑う!?」
師の笑いは止まることをしらず、横隔膜を激しく上下させて瓦礫の上を転がり回った。
「犬のクソだ! ドゥルーブは犬のクソを掲げてるぞ!」
嵐の前の紙吹雪のように商人の恍惚は吹き飛んだ。真っ白な無思考の淵に突き落とされて言葉もない。それでも師は笑い続ける。どこまでも果てないかに見えた、その笑いの果てで師はぴたりと身動きをやめた。
「師よ」アクシャイが語りかけるが返事がない。
近づいて揺すぶってみても反応がない。おずおずと商人も犬のクソを振り捨てて師に近いていく。その眼はぐるりと上に向いて、白眼しか見えなかった。呼吸も心臓もすっかり停止していた。
「おお、師が逝かれた! マハーサマディだ」
ヨギの死。マハーサマディ。瞑想中に至福の内に亡くなる状態を指す言葉であるが、慣習的に聖者の死はすべてマハーサマディと呼ばれる。偉大なるサダシヴァは笑い死にした。犬のクソで恍惚となっている商人を見つめながら、爆笑のうちに虚妄の輪廻を去ったのだ。
「さぁ、手を洗って家に帰りましょう」と涙に暮れてアクシャイが言った。「あなたには師匠を火葬にする薪代を恵んでもらわなくては」
「……最後に師は儂の名を呼んだな」
「そんな気もしましたが、さてどうだったか」
アクシャイはとぼけるように首を捻った。呆然自失の商人の横を、先程の
聖穢――ホーリーシット 十三不塔 @hridayam
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