第9話


 アクシャイたちと袂を分かち、みすぼらしい旅装を脱ぎ捨てた商人は、以前の豪奢は装いに戻った。息子以上に高価なシルクのドーティと宝飾品の数々を身に着けるとマハラジャさながらの威風を漂わせた。もう貧相な老人の排泄物を追い求めるような愚行はするまい。息子に商売を任せたのはいいとして、まだまだ経験不足は否めない。いずれ自分の助力を求めてくることもあろう。さりげない支援を惜しまず、孫の代までの繁栄の礎を築くのだ。


「おお。愛しのコルカタよ。おまえの王が帰還したぞ」


 凱歌にしては沈鬱な、それは呟きだった。


 何やら得体の知れぬ敗北感が胸の内にわだかまっている。順風満帆な商売にいっそう精を出したとしてもどんよりとした気持ちは晴れなかった。インド中の聖地と塵埃の巷を経巡ったあげく、一粒の黄金さえも得られなかった。しかし思い返せば愉しい日々であったようでもある。放屁ひとつを残して師は去った。狂える聖人サダシヴァらしい餞別であった。


 三年の月日が瞬く間に過ぎた。


 時を経るごとに師への想いは募った。あの日のようにドゥルーブの店先にアクシャイが顔を覗かせることはついぞなかった。なぜ師を恋焦がれるのかわからぬまま、商人はその気持ちを黄金への執着と取り違えた。あるいは師の糞便――その聖なる穢れを一度でもよいから拝みたかっただけかもしれない。ほかほかと湯気を立てる聖者のこんもりとした便に額ずき、永遠の忠誠を誓う自分の姿を想像して、心ならずもうっとりしたあげく、ハッと我に返る。それは黄金のためでなければならない。新たな富のためでなければならない。ドゥルーブはそう言い聞かせた。


 と、そこへアクシャイが現れたのだった。


 育ちざかりの少年は、見違えるほどに成長し、がっしりと逞しく、声は低く、屈託ない笑みは慎み深くなっていた。


「野菜とギーを恵んでくださいませんか。今日は金はありませんが」

「師はどうしてらっしゃる?」

「あれから師とは離れて遊行しておりました。我が教団では一人前になったと見なされた見習いは師から離れ、たったひとりで流れねばなりませんから。再会するときは、本当の別れの時であると師はおっしゃいました。その時には必ず報せを寄越すと」


「なんと!」商人は信じがたい事実に衝撃を受けた。自分でも思ってみなかったほどに。あの闊達な老人に死が迫っているというか。


「師の夢を見ました。コルカタへ来いと。かのラーマクリシュナに聖別されたダクシネーシュワル寺院に参拝しました。あそこで師をお会いできると思ったのですが――しかし、必ずコルカタでお逢いできるはずです」

「よし、一緒に探そう」


 こうしてアクシャイと商人は車夫を雇ってコルカタ中に師の姿を探した。

 ハウラー橋を何度も往復し、マイダーン公園をほっつき歩いた。鉄道駅の界隈を眼を皿のようにして探し回ったけれど、あの猫背気味の聖者のシルエットは見つからない。チラムから煙をたなびかせる行者を何度か師を見間違えたことはあったにしろ。


 とっぷりと日が暮れるとアクシャイを邸宅に泊まらせて、すっかり健康になった妻と息子とその嫁とで食卓を囲み、師の教えを語ってもらう。そんな日々が続いた。一泊を超える贅沢な逗留をアクシャイは固辞したが、なんとか屋根のある納屋にならと引き止めることに成功し、朝日とともに二人はまた探索の旅に出かけるのだった。


 サダルストリートに差し掛かった時、スリに出くわした。


 師ほどでないにしろ老いた商人は、若き日にはありえないほど鈍重に注意散漫になっていたらしい。札入れを盗まれたのに気付いたのは本人ではなくアクシャイで、長旅で鍛えた健脚でもって盗人を追いかけていった。商人のかすむ眼からは、ふたりの姿は瞬く間に小さくなり、やがて土埃やゴミや飛蚊症のチラつきと見分けがつかなくなる。


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