第3話 右腕
※2020年『猛チュールの惑星』
https://bccks.jp/bcck/165369/info
に書き下ろした作品をここにも掲載します。
五日ほどろくに寝ていなかった。クライアントの依頼が殺到していたからだ。リモート会議、在宅勤務などなど、さまざまなネット環境の変化に対応して社内システムを組み直し、新たなセキュリティをかけているうちに会社に住み続けるしかなかったのである。
久しぶりに自宅に帰って文子とキスをしたとたん倒れるように眠ってしまい、気付けば部屋には日射しがたっぷり差し込んでいた。文子は洗濯物をベランダに干していた。
三十五年ローン。まだ二年しか払っていない。いまの仕事はキツイが、住宅手当など福利厚生はとてもよく、いくつか転職話もあったものの、安定性、収入ともにリスクを取る必要性をまったく感じていなかった。
このステキな生活を維持するためには、週末になって帰宅してぶっ倒れ、セックスもできず、ひたすら十二時間眠るようなことも許容すべきなのだろう。そもそも、新婚旅行から帰ってきて七百六十三日間、きちんとした休みを取っていなかった。
久しぶりの三連休。しかもカレンダーと同じ。一般的な休日に仕事へ行かないことは、とんでもない贅沢なのだ。
文子はぼくを挑発するように、体の線が浮き上がるTシャツと短パン。Tシャツには「GO TO HELL」の文字。彼女の好きなロックバンドのものだ。
腹は減っていたが、いまからしてもいい。三連休なのだから。
「文子」と声をかけ、薄い羽毛布団をめくって、固まった。
右手になにか不気味なものが貼り付いている。
薄い茶色の長いもの。いや濃い茶。白も混じっている。黒っぽいものも。
毛だ。
右手はびっしり毛で覆われていた。
しかもそれは手ではなかった。
「にゃ」
短く声を上げた。
指や手の平があったあたりに、小さいとはいえ、立派な猫の顔があった。
頭が混乱した。爆発した。大声を出したくなった。
「ん? なんか言った?」
文子がベランダから戻ってくる。
慌てて手を布団の中へ隠す。
そんなことがあるだろうか。
右手が、肘から先が猫になる……。
猫の手も借りたい、という言葉がある。しかし猫が手になる、手が猫になる、なんてあり得ない。
百歩譲って猫化現象があり得たとしても、それは右手が、猫の右手になるだけ(いや、それだって大変なことだが)とかではないのか。本体になるなんて。
そっと布団の中を覗く。
「にゃっ」
耳、目、口、舌、歯……。
あまりにも精巧だ。特殊メイクにしては。
親の経営する中華料理店で働く文子にそんな技術はない。だが、なにかのツテで特殊メイクアップアーティストとつながっていたとしても不思議ではない。
気絶したように寝てしまったので、その間に「サプライズ!」ということなのか。
「おはよ」
文子は、ぼくにキスをした。珍しくチュッと音を立てた。彼女はする気がある。ここで、彼女を抱き寄せて、「ふふふ。やめてよー、まだ朝なんだよ、なにするのよ、もう」と言わせながらベッドに引きずり込むのだ。中華屋の仕事も、ぼくの休みに合わせて連休にしてもらっている。
だけど、猫。
「あのさ」と、平静になろうと努力しながら声を出した。
「ん?」
「ぼくの右手なんだけど……」
「ん? なに? なんのこと?」
積極的だ。文子は自分からベッドにお尻をのせてきた。彼女の指がぼくの髪をまさぐる。天然パーマ。このところ美容室にも行けていないので、もじゃもじゃだ。
「ぼくの右手に、なにか、した?」
「えー、なにそれ」
しなだれかかる彼女。
右手で抱き寄せた。いや、猫腕で。
腕猫かな。猫腕だと猫の腕だ。腕が猫なのだから腕猫かな。
彼女の背中越しに猫がこっちを見ている。
「ゆうべ、なにか、あったっけ?」
「なんにも。だってお風呂入ったら、なにも食べないで、がぶがぶ水を飲んでここに倒れ込んだじゃない」
その記憶はある。頭はちゃんとしている。キスをしたはずだが……。
「驚かないで欲しいんだけど」
「なに?」
パッと文子の表情に輝きが満ちる。いや、プレゼントとかうれしい話とかじゃない。
「猫って飼ったこと、ある?」
「ないなー。飼いたいって思ったことはある。猫カフェに行ったことあったよね?」
知り合って間もない頃だ。猫カフェが好きだったのは、ハードすぎる仕事にクタクタになっていたぼくであって、彼女に付き合って貰ったのだ。常連になっていた猫カフェへ。
そういう男なんだと知って欲しかったから。
でも、文子と親しくなっていくにつれて、猫カフェへ行く必要を感じなくなっていた。結婚し、自分の家(まだローンは二年しか払っていないけど)を持つと、そこが癒やしの場となった。文子は、ぼくを癒やしてくれた。
「ここに、猫がいたら、どう思う?」
「なにそれ。クイズ?」
「いや、リアルな話」
そんな気はなかったのに、口調が出川哲朗になってしまう。
「ふふふ。なによ。変だよ」
リアルガチな話。
「にゃっ」
猫の声。
「えっ」
彼女は声の方へと顔を向ける。だが、なにもない。床にもベランダにも。だって、鳴いているのはぼくの右手だから。それは彼女の背中に回っている。
勇気を出して、その右手を、いや猫を、彼女の見えるところへ差し出した。
「ええええええっ」
やっぱりな。文子は気絶するかも。
「かわいいいいいい!」
文子はぼくの右手、いや腕猫を両手で抱き寄せて頬ずりした。
「にやー」
そのとき、猫の声はぼくの指の感覚で鳴っていることに気付いた。薬指あたりを曲げると「にゃー」なのだ。中指を意識すると、目をパチパチした。親指で耳。人差し指など全体に力を入れると、口の開閉。
操り人形。右手に施したマペット。こんな技術がいつの間にできたのだろう。
「ふみふみがしたんだよね、これ」(ぼくは彼女のことを、ふみふみ、と呼ぶ)
「なに、どういうこと」
「見てよ」
自分でも確認したくて、思い切って上体を起こし、布団から抜け出た。
「え? なに? どうなってるの?」
文子は驚いてベッドから降りて床に腰を落としていた。
「わからない」
「にゃっ」
鳴き方が下手なのは、ぼくの操り方が悪いからだろうか。
いや、そもそもこのシステムがわからない。
「こうなってるんだ」
肩から肘の関節まではいままで通り。そこから先がふさふさの毛。尻尾も手足もない猫の胴体。そして猫の頭。
文子の表情は、ホラー映画というよりも、蓋を開けたら料理が黒焦げになっていたのを発見したときのようだった。
「どうしたの、それ?」
「ふみふみがやったんだろう? 特殊メイクかなにか」
「違うわよ。そんなことするわけないじゃない。たっくんこそ、私を脅かそうとして」
「見てよ、これ、ぴったりくっついてるんだよ」
右腕が猫になって三日──。
連休は暗くなってしまった。文子とぼくはいろいろなところで情報を得ようとして必死になっていた。出掛ける予定はすべてキャンセル。子作りもできなかった。
どんなつまらないネタでも、たちまち拡散するいまの時代だったが、腕猫とか猫化現象現象についての発言は見当たらない。もっともどっちもぼくが作ったばかりの言葉だけど。
これだけ情報がないということは、ぼくだけに起きたことなのか、さもなければ、情報操作されているのでは?
政府の陰謀だ。信じようと信じまいと。
システム系の技術者の右手を猫にする極秘プロジェクト? あり得ない。
最終的に、ぼくたちが気付いたことは一つしかなかった。
「これじゃないか」
ベッドのシーツをめくった。
ベッドパッドがある。
高性能のヘルス・ベッドパッド(通称・ヘルペ君)だ。
ゴルゴンゾーラ社の開発した画期的なヘルペ君は、寝ている間にその上にいる人間の健康状態をチェックする。さらに、医療法人と組んで肉体の最適化をしてくれる。治療については当然、ぼくたちの許諾も必要になるので、メッセージが届いてから受診を決める。指定するクリニックを選べば予約され、あとは行くだけ。
「赤ちゃんもできやすくなるし、夜の営みもより楽しくなるし……」といった話も聞かされていた。少子化対策、医療費削減策として厚労省も推奨していた。
なにが素晴らしいといって、このシステムを住宅ローンと組み合わせると、ローン金利が減額され、生命保険料も半額になるのだ。死亡リスクが減るだけではなく、病気で仕事を中断するリスクも減るので、それだけ確実にローン返済ができる、はずなのだ。
なにより、健康でいられる。
ぼくも文子もとても健康だった。体重は適正値に向かい、ホルモンは活発で、モチベーションも高く、メシもうまい。快食快便。ぼくは視力も改善し、文子の腰痛もほとんどなくなった。
ヘルペ君がなにかをしでかしたのではないか。腕猫はバグではないか。
すぐにコールセンターに電話したのだが、連休中は休みだった。ネット、チャットなども試すが、いずれも意味がなかった。「よくある質問」には、もちろん腕猫のケースはない。
「ミルクとかご飯とか、いらないのよね?」
「だって、これはぼくの手だ」
「そっか」
文子はキャットフードの心配をしていたのだ。
「それにしても、かわいいわよね」
「いや、それどころじゃないよ」
ぼくは右利きだった。左手でフリック入力するのは難しく、猫の口でトイレのドアノブを操作するのは良心が咎める。テレビやエアコンはAIスピーカーで音声による操作ができるけど。
試しにテレビのリモコンをいじってみる。自分の指の感覚はない。猫をそれなりに操作できるものの、確実ではない。なんだか、腕猫にも意思があるような気もする。
「かわいい」
文子に撫でられると、これまで感じたことのないほどの気持ち良さだ。猫は、飼い主に撫でられるとき、これほどの快楽に浸っていたのだろうか。
ゴロゴロと喉を鳴らしている。
もっとも、ホンモノの猫が腕になってしまうはずはないから、これはニセモノだ。なにか仕掛けがある。ぼくにはわからないシステムだ。
多くのシステムは知らないどこかの誰かの手によるもので、マニュアルにすべてが記載されているとは限らない。通常時はなんにもしないプログラムが隠れているかもしれないし、システムの組み合わせによって想定外の動きを見せることもある。すべては誤作動とかバグと呼ばれるものの、その中身は千差万別だ。
ぼくの体にもなにかバグや知らないプログラムが潜んでいたのかもしれない。なにかのきっかけでそれが、たとえば右腕を猫にしてしまった……。
引き金はベッドの下のヘルペ君。
「文子はなんともないの?」
「私? ぜんぜん平気だけど」
いつまでも猫可愛がりする。
それはぼくの腕なのだ。いや、腕ではないのか。じゃあ、なにだ。猫としか言い様がないけど、猫のはずがない。猫に極めて似た形状ではあるけど、一般的に知られている猫ではない。手足も尻尾もないのだ。口はあるけど内臓はないはずだ。こいつがなにかを食ったら、どう消化するのか。
一瞬、ゾッとしたのだが、ぼくが死んだあとも猫は生き続ける、なんてことはあるのだろうか。寄生だ。寄生猫だ。
とんでもない能力を持っていたりしないだろうか。
「猫ビーム!」
窓に向けて、いきんでみたが、とくになにも発しない。
「どうしよう。会社に行けない」
「え、どうして?」
「だって右手がこれなんだよ! キーボードが使えないじゃないか」
「でも、マウスは使えそうよ!」
猫だけに。
右手を失うことはかなりの痛手だ。ブラインドタッチができない。だいたいぼくの使うキーボードのリターンキーは右側にしかない。「、。」などの記号もBackSpaceキーも右手で操作する。テンキーも右側だ。
左手だけでキーボードを操作すると、とんでもなく時間がかかる。途中で、なにをしたかったのか忘れてしまう。
家にある一番小さなマウスは猫の口にぴったりなのだが、噛ませてしまうとクリックができない……。つまりドラッグができない。
上司にメールを打つだけでも大変だった。
すぐに返事が来た。上司は普通に働いている。多くのクライアントが休んでいる日のほうが、仕事になるのだから当然なのだが。
「ふざけるな。電話しろ」
メールで「休みたい」は逆鱗に触れる。わかってはいたが、電話したくなかったのだ。仕方なくかけた。
「なんかニャーニャー言っているな。ふざけてるのか?」
「違います」
焦れば焦るほど、腕猫は鳴く。
「なんで来れないんだ。明日、おまえがいないとマズイんだ。わかってんだろ?」
「右手が使えないんです」
「ふん。診断書、持ってこい」
ガチャ切り。
診断書なんて持っているわけがない。だいたい医者になんて言えばいい。
「お客様よ」と文子。
電話していたので気付かなかった。
「ヘルペ君のことだって」
来た。来たぞ。そうか、当然そうだろう。異常を検知していたはずだ。
「誠に申し上げにくいのですが……」
疲れ切った技術者二人が、玄関先で軽く頭を下げる。謝罪ではない。挨拶だ。
「原因はいま調べているところです。当社のヘルペ君の問題なのか、または別の問題なのかもはっきりしておりません。とりあえず使用を中止していただき……」
「ふざけるなよ!」
いつもはクライアントから喰らうことの多い罵倒を、ぼくがしていた。
同じような立場の彼らに同情を感じたのは、彼らが帰ってしばらくしてからだった。彼らだってこの現象は未知なのだ。
ただはっきりしたのは、ぼくだけではなかったということ。
数日でニュースもワイドショーもネットも、腕猫一色になった。SNSで自分の腕猫を見せ合っている人たちもいて、さまざまなバリエーションがあることも知った。目や毛の色、柄だけではない。前脚らしきものがある人もいれば、肘近くに尻尾みたいなものが出ている人もいた。どちらも骨はないという。
ゴルゴンゾーラ社指定のクリニックや、そのほかの医療施設で数回、検査した。
「完全に猫に見えますね」
医者も驚く出来映え。CTでも手の構造が上腕の骨、指の骨などを残しながらも筋肉はまったく変わってしまっている。
遺伝子検査もした。かなりの日数を使い、「遺伝子に異常あり」と言われた。
「どうなるんですか?」と医者に詰め寄っても「わかりません」の一点張り。
「未知の現象です。これから世界の叡智を集めて研究しなければ解明できませんよ」と。
その間にぼくはクビになっていた。
「大丈夫。私、働くから」
ヘルペ君が使えなくなり、腰痛の再発した文子だったが、中華屋で日夜働き続けた。とてもローンを返せないので(ヘルペ君の使用も止めたので)、ステキな家を追い出されて、中華屋の二階に住むことになった。
腕猫症候群被害者の会では、積極的に活動をしていたものの、一年経ち二年経ち。なかなか解明されず責任の所在がはっきりせず、ゴルゴンゾーラ社は倒産し、同様の被害が出た八ヵ国の政府による救済措置に頼るしかなかった。
世界にぼくのような被害者は、二万人ほどいた。
文子がぼくを捨てなかったのは、腕猫のおかげだった。彼女はぼくと寝ていたのではなく、腕猫と寝ていたのだ。
「すっごく、癒やされる。かわいい」
魅了されてしまっていた。
こうした奇妙な愛着は、世界的にも広がっていて、毎月のようにネットや会場を借りて、腕猫サミットも開かれていた。
「腕が猫化してよかった!」といった例が多数発表され、「モテた」「彼女ができた」「夫婦の仲が改善」「子供の人気者になった」「嗅覚が鋭くなった」といった声があった。
一方、ぼくのように「仕事を失った」「家庭崩壊」といった悲劇もあり、「家の猫と不仲になった」「近隣の猫に襲われた」「猫アレルギーになった」といった被害例もあった。
腕猫の健康は、当人の健康に左右される。当たり前のことだけど、「毛艶が悪くなったら受診すべし」と言われ、「鳴き声が変わったときも気をつけよう」などとも言われ、ぼくも何度か病院へ行った。そのたびに、ぼくの病気が発見され、早期発見早期治療につながってはいた。
「猫の恩返しね」と文子は言うのだが、猫の祟りもあるかもしれないし……。
いずれにせよ、腕猫によって生かされているのではないか。寄生ってそういうもんじゃないのか。
一方、腕猫の人たちを調べた結果、一般の人の三倍ほども脳内の幸福物質が増加しているという研究もニューヨークの腕猫サミットで、自身でも腕猫となった医学博士から報告されていた。
「まさに、ニャンダフルですね」と取り上げたニュース番組のキャスターがシレッと締めた。
実際、ぼくは幸福だった。文子も腕猫と生活することで幸せだった。
ぼくは大した仕事はしない。左手と猫にマウスを噛ませながらの作業でも、やり遂げられる仕事を細々と自宅で受けて、なんとか貯金ぐらいできる程度に稼いでいた。
朝昼晩と中華料理やその材料を応用した料理で賄い、贅沢はしない。注目されるので外食も旅行もしない。
あっという間に五年経っていた。
ニュースで「腕猫症候群の原因が明らかになり、イギリスの科学誌に論文が掲載されました」と言われたとき、思わず口の中の残り物のシュウマイが飛び出した。「早ければ我が国でも来月から治療を受けることができます」と言うのだ。
イギリスとインドではすでに十数人が完治しており、医学的にも安全性は確保されているという。
原因はヘルペ君のシステムと人間の肉体との共鳴的な現象によって、遺伝子の暴走が起こり、腕の組織に変化が起きてしまうことにあったとかなんとか、言っていた。ニュースを読む側もよくわかっていないので、見ているこっちはさっぱりわからない。
文子に変化がなかったのは個体差なのだろう。ぼくは共鳴しやすい体質だったのだろう、などなど勝手に納得するしかない。
「よかったねえ!」
文子とその両親と雇われているシューさんやテイさんとみんなで抱き合って喜んで、腕猫もいつも以上のテンションで「にゃーにゃー」鳴いていた。
元の体に戻れる──。
その夜は五年ぶりにぐっすり眠った。夢も見なかった。
翌朝、文子はぼくの腕の中に顔を埋めて泣いていた。
「どうしたの」
「だって」
泣きながら腕猫を撫でている。
そう。これがなくなり、前のようにキーボードを自在に操れる指が戻る。仕事に戻れる。自由に生きられる。人に笑われることもなく、腕を隠して生きる必要もない。妙な同情もなく、ごく自然に町を歩き、旅行もできる。なにより、この腕がこれからさらに悪化するのでは、と恐れることがなくなる。
突然、変異したのだから、このままで終わるはずがないのだ。猫人間になってしまうかもしれないではないか。いや、それはもう人間ではなく、猫そのもだ。
しかもニセの猫だ。ホンモノにはなれない。
これがなくなると……。
ぼくと文子の幸福度は、確実に落ちる。
これまでの五年間のように、妙に気分よく過ごすことはできなくなる。脳内の幸福物質は三分の一に減る。文子は腕猫を撫でることができなくなり、あの「にゃー」を聞くこともできなくなる。
「どうしよう」
「治療、して」と文子は言う。「だって、それが当たり前でしょ?」
ぼくだけではなかった。
世界各地にいる腕猫症候群被害者の会の人たちが、ネットなどで治療拒否を言い出したのだ。
「腕猫と生きる決断をしました」と表明するアメリカ人の有名女性歌手が、賛同者を募りはじめた。たちまち百万人ほどが「いいね」した。その中に同じ症状の人たちが何人いたのだろう。
そのうち、被害者の会からも賛同する人たちが声を上げはじめた。
世界から見ればマイノリティーだが、同じ症状の者たちからすれば四分の一ほど、五千人を超える人たちが治療拒否を表明しはじめたのだ。
数日で、社会問題となった。
「政府は、治療拒否をする場合の対応について専門家による検討会を開催しました」とニュースが伝える。専門家と呼ばれる眼鏡をかけた背の高いおじさんが「えー、このまま治療をしない場合は、遺伝子などにさらなる悪影響が生じる可能性もあり、ぜひ治療を受けていただきたい。全員が治療することを政府としても強力に後押しすべきです」と言い切る。
確かに、いまの段階ではこのまま治療しなかったら、誰も責任は負えないのだ。しかも、五年もかかったとはいえ、原因は究明され安全な治療法が確立されたのである。
町の声として「治療しないなんてあり得ない」とか「なにか悪影響があるかもしれないので、強制的に治療させろ」といった声ばかりが流された。
ネットでも同様だ。
「治療しないやつは死ね!」
「治療しないやつは会社に来るな!」
「治療しないやつは電車に乗るな!」
大合唱となった。
政府も「特別措置法」を検討しはじめた。治療費をすべて公費で持つことを約束し、治療後の風評被害、雇い止めなどへの補償を明確にしている。
「五年間も大変な思いをされたことに、一律二百万円を支給します」などと言う。
一方で、治療しないまま放置した場合は、強制入院による治療を実施し、同時に罰金二百万円または十年以下の懲役という罰則まで作ったのだ。
「お客さんよ」と文子が言う。
ぼくは「にゃー」と返事し、玄関へ行く。
口を開くのが面倒なとき、腕猫で返事をするのが習慣になってしまっていた。
ドアを開けると、若い男二人と女一人が立っていた。
「にゃー」
三人は右腕を軽く上げて鳴いた。全員、同じ症状なのだ。被害者の会で知り合った連中だった。
「これから、特別措置法に反対する集会があります。ぜひ、来てください」
「このままだと、この腕猫を切断されるようなものですよ」
「治療はしたい者がすればいい。しない者への罰則は不要です。許せません」
確かに。その気持ちはぼくも同じだった。文子を見ると、大きくうなずいてくれた。彼女も腕猫を失いたくないのだ。
「できれば、集会後、安全な場所に逃げた方がいいので、身の回りのものを持って来てください」とも言われて、ぼくたちはデイパックを背負って彼らについて行った。
この夜を境として、ぼくと文子の人生はさらに大きく変わってしまったのだった。
「もうこれ以上はムリよ」
文子もさすがに弱音を吐いた。
ぼくたちは追い詰められていた。日本では特別措置法に反対する腕猫もの(などとネットで呼ばれている)は、わずか八百人ほど。そのほとんどが、全国から逃げに逃げ、小さな南の島に集まっていた。
定期便はなく、港が小さいので波風の穏やかなときしか着岸できない。住民は二百人ほどで、彼らにしかわからない言葉でしゃべっているものの、友好的だった。
「あの芸人が自殺したよ」
そんなニュースが毎日のように流れた。地デジ五チャンネル、そしてネットは光回線が完備していたのだ。
腕猫によって人気の出た人たちが少なからずいた。治療に反対し、抗議の自殺をする者が何人も出てきた。また、強行な治療派に襲われた者もいた。
「治療されるぐらいなら」と追い詰められて死を選ぶのである。
「マズイな。まるで殉教者だ」
「なにしろ、幸福度が高いからね。幸せの中で死を選んでしまう……」
残された仲間たちも、ニュースを聞いたときは不安を口にする。
だが、それも三十分ともたない。みんなで「にゃー」「にゃー」と笑い合ってしまう。
なにしろ、ぼくたちは幸福だったから。おまけにこの南の島の素晴らしさといったら、「天国に一番近い島だよね」なのだ。「いや、これはもう天国でしょ」と。
文子は残念ながら脳内物質がそれほど大量には出ないので、けっこう冷静だったから、「このままここにずっといるわけにはいかないでしょ」とぼくの腕猫を撫でながら言う。
文子には中華屋の両親が心配だったのだ。ぼくのせいで風評被害に遭っただけではない。健常者である文子を連れて反対活動を続けているぼくへの嫌がらせもあり、店は潰れそうになっているのだ。
いや、のんびりしている間にも、すでに潰れてしまったかもしれない。
「わかった。今度、船が来たら帰ろう。ぼくは治療を受ける」
笑いながら約束した。治療を受けることも、いまは幸福な決断に思えた。
そして船が来ないまま数週間が過ぎた。
「君たち、ちょっと見てごらん」
いつもは理解できない方言でしゃべっている島の人たちが、普通に標準語で声をかけてきたので、ぼくと数人が島で一番高い場所へ行った。全方向に水平線が見える。いまは、全方向に、艦船が浮かんでいる。
「見てみ」と、住人から双眼鏡を借りると、隣国の赤っぽい旗をなびかせている艦船が西側にずらり。東側には日本の旗。
いずれにせよ、どっちの艦船も通常のフェリーではなく、灰色で重装備。
「な、なにが!」
いきなり青空に白い煙がたなびいた。かなり近い。
「発煙弾だ!」
「東の浜!」
東側に小さいながらもステキな砂浜があったのだ。朝日を見ると幸せになれる、朝日を浴びてキスをすると幸せになれる、などなどの伝説があって、おかげでみんな幸せだった。
ついに皆殺しになるのか。それともここが戦場になるのか?
「くそ、ネットが遮断された! スマホもダメだ」
「なんか、来てるぞ!」
合図の発煙弾は、沖に待機する艦船に知らせたのだろう。
小さな島だ。東の浜に上げったら、数分で中心部に到達できる。
ガーッと激しいエンジン音が響く中、ぼくたちは高台から居住している小さな集落に降りた。ほどなく、ぼくたちを四台の軍用ホバークラフトが囲んだ。
完全武装の兵士たち。
「こ、殺されるんだ!」
パニックになる。
しかし、先頭のホバークラフトから、白い旗が掲げられた。
「みなさん、慌てないでください!」
兵士たちは降りず、ネズミ色のスーツを着た若い男が二人、降りた。
「すみませーん。私は腕猫対策タスクフォースの者でーす。特別措置法、本日、改正されましたー。みなさん、治療の強制はなくなりました。いまの姿のまま安全に暮らせますよー」
最初はやつらがなにを言っているのかわからない。
「騙されちゃいけない。捕まえる気だ」
「だけど、二人しかいないぜ。ひょろっとした青白いやつらだぞ」
そこでぼくたちは一斉に役人を囲んで、いっきに捕まえてしまった。兵士たちは動かない。銃を構える者さえいない。
奇妙な沈黙。
「お願いです。話を聞いてください。実は、みなさんに戻ってきて欲しいのです。腕猫のみなさんが必要なんです! どうか助けると思って!」
役人たちはどう見ても具合が悪そうだ。船酔いだろうか。
「なんで突然、改正されたんだよ。どう改正されたんだ」
「この半月、報道管制によって伏せられていたのですが、みなさん、あれから日本は、いや世界は大変なことになっているんです」
「報道管制? ネットだって使えたんだぞ、さっきまで」
「ネットも統制していました。政府はこれから正式に発表します。その前に、どうしてもみなさんにお会いしなければなりませんでした。隣国が動いたもので……。船は苦手なんですけど、こうして来たんです。とりあえずトイレを貸してください!」
二人の役人たちはその後、トイレに入ったきり出て来なかった。
午後になって、ようやくその発表をぼくたちは見ることができた。
検討委員会のあの眼鏡のおやじが登場した。検討委員会はいつの間にかタスクフォースになっていた。
「えー、本日、政府によって発表されました新型腸炎の蔓延ですが、腕猫症候群の人だけが持つ腸内細菌が有効だと判明しました。このため、まだ治療をしていない腕猫症候群のみなさまには、なんとしてでも、ぜひ協力していただきたい! このままでは日本全土がロックダウンせざるを得なくなります。これを回避するためには、みなさんの力が必要です! 特別措置法は改正され本日から、腕猫症候群に対する強制治療は行わない旨、決定されました」
世界中の都市部で奇妙な腸炎が流行し、多くの人たちがトイレから出られないで都市部で大混乱が起きていたのだ。トイレにカギをかけて出て来ないことを、多くの人たちが「ロックダウン」と呼んでいた。
これだけの混乱を、政府は二週間も公表しなかったのだ。報道管制を敷き、ネット検閲をして封じ込めた。
WHOが強く働きかけ、国際的な協力体制が生まれ、アメリカで激しく抵抗していた腕猫症候群の人たちに、まったく症状が出ていないことが判明。研究者たちが「腕猫症候群の人だけが特殊な腸内細菌を保有」と発表。それを移植すれば治癒するという。
いっきに形勢逆転。
世界中で強制的に腕猫症候群の治療をしてしまったために、わずかに残された反対派は、いまや絶滅危惧種。日本政府は、近隣の大国がこの島を占領しようとしているとの情報で、急遽、保護に向かったのだった……。
貴重な腸内細菌欲しさの猫なで声。
「猫の手を借りたい」と。
おあとがよろしいようで……。
ぼくはまぶしい南国の太陽を見上げた。爆撃機が数機、奇妙な形をしたステルス戦闘機も数機。おかしな飛び方をしていた。
彼らはぼくたちを殲滅しようというのか。それとも保護しようというのか。
どっちでもよかった。ぼくと文子はなんだか幸せだった。周りのみんなもニコニコしていた。
最後に、美しい世界に挨拶をしておこう。青空に腕猫を高く掲げよう。
「にゃー」
ただただ、持て余すほどの幸福感に浸っていた。
猫に小判、なんて言葉を思い出しながら。
ねこのおやつ外伝 本間舜久(ほんまシュンジ) @honmashunji
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