第2話 猫の道
※2020年『猛チュールの惑星』
https://bccks.jp/bcck/165369/info
に書き下ろした作品をここにも掲載します。
猫の「ちゃ」が戻って来た。見放されてしまったのかと思ったのに。いまになって。
「ちゃ。あんたは自由でいいね。あんたになりたい」
ゴミ袋から拾った使い捨ての注射器を仕方なく再利用しよう。こういうことをしてはいけない。でも、ケンジがすべてを持って行ってしまったから……。
どうせ最後の注射になるし。
「それはダメ! 持って行かないで!」
せっかく手に入れた薬と三万円。
「うっせっ」
いつから穿きっぱなしかわからないカーキ色のカーゴパンツのポケットにねじ込む。
あれは恐ろしいことをして手に入れた三万円だから……。薬が欲しいから、がんばって手に入れたカネ。
いつも原付きバイクでやってくるマッコイって男。コンビニ前で目配せしてから防犯カメラの死角になっているゴミ屋敷の前でそいつから買うんだけど、「オネエサン、カネいるならバイト、オセワしますけど」と言われ、「うん」と返事したら、スマホに電話番号が送られてきてそこに電話したんだ。三日前のこと。
「いっぱい注射してるね」
裸になった私を、その痩せた中年男は隅から隅まで見た。触らない。見るだけ。安いラブホに訪ねていった。そこで中年男から何種類か注射を打たれた。
「中身は無害なビタミン剤だ。注射針の性能を試すだけだ」
直後から丸々二十四時間、記憶がない。五万円と部屋代の入った茶封筒。男の姿はなかった。なにを注射されたのかわからない。なにをされたのかもわからない。
ひたすら怠い。いままで経験したことのないタイプの頭痛が断続的に襲う。
やっとの思いでいつものように薬をマッコイから買った。
「オネエサン、ラクチンなバイトだったよね。あそこにデンワすれば、ツキイチぐらいであるよ。ヤスミヤスミじゃないとアブナイけどね」
二度とやるか。
部屋に帰ってきて、まだ三万円残っている。
ケンジがいきなり入って来て、「うっせ、うっせ、だまれ、くそ」と言いながら、すべてを持って行ってしまった。
打たないわけにはいかない。私はもうダメ。気持ちよく死にたい。ふいに殴られるような頭痛が酷くなる一方。全身にぶよぶよした気持ち悪い感触があって、このまま死ぬんじゃないかと思う。いや、死にたい。
買ったばかりの薬までケンジは持って行きやがった。
あれがなければ地獄。
だけど、追いすがったとき、私の白くガサついた爪で袋に小さな穴が開いたことに気付かなかったようだ。畳から板の間へ、玄関へと白い粉がキラキラと筋になって落ちていた。
カレーを食べるときのスプーンで慎重にすくい上げると、なんとか一回分になりそうだ。
別のスプーンに水を入れる。古いアパートの水道は、ボコボコと音を立てて、しばらくはゲロを吐き出すように出てくる。落ち着いたところで水をスプーンに溜める。その水を震える手で少しずつ結晶の入ったスプーンに垂らす。注射器の針でかき回す。溶かして、吸いあげていく。
何度もやってきたことだから、震えが全身に回ってきても、ガーンと頭痛がやってきても、なんとかやり遂げられる。ここでこぼしたら終わりだから。
じっと私のすることを見ている水色の目。
ちゃは、その名の通り、茶色い猫。茶色いのは耳と背と尻尾。あとは灰色っぽくて、白だったらよかったのにね、と思うけど、それほどきれいじゃないところが、気に入っていた。汚れ者。
瞳はとにかく美しい。透き通った水色は、テレビかなにかで見た生きている間に見ておきたい世界の絶景のよう。
何日もいたかと思うと、何日もいなくなる。
ケンジと同じ。
ケンジは顔を合わせれば「おまえ、死ね」と言って乱暴する。「死んでるな、おまえ」と乱暴してから言う。
さっき、ケンジの目に浮かんでいた滑稽なほどの焦り。私は殴られて畳に顔をつけていたけど、そうしていなかったら大笑いしていたところだった。二発目がイヤだから効いたフリをしていたけど、ケンジにしては軽かった。
なにもかも中途半端なやつ。お互い様か。
死のう。それがいい。
薬を打って死ねば天国。世界の絶景を見ながら死のう。
出来上がった薬の溶けた水を慎重に注射器で吸いあげる。けっこう濃い。舌なめずり。
最後までプランジャーを引いて、たくさんの空気も入れた。血管に空気が入ると、空気塞栓が起きて意識が低下する。誰も来ない間に、私は死んでいくだろう。ぜったいに気持ちいいに違いない。
注射は上手だ。適当に打つのは性分に合わない。最初の頃はゴムを腕に巻いて肘の内側の血管を浮き出させて打っていた。左右とも無数の注射痕となってから、新しく刺しやすいところを見つけなくてはならず、手首や太もももなどいろいろと試して、いまは足のくるぶし付近の血管を使っている。
そういえばカネをくれた中年の変態野郎は、最初は手の指の間に一本打って、次に足の指の間にも打った。そのあとは覚えていない。
なにを何本打たれたか、わからない。
打たれたところに、なんの痕もない。不思議だった。いまの注射器はきっと性能がいいのだろう。
再利用の安物の使い捨て注射器。プスッとくるぶし近くの血管に刺して、じわっとプランジャーを押してやる。
薬はすぐ効く。
水色の瞳。
「ちゃ、あんたみたいなキレイな目で生まれたかったな。あんたはなにを見てきたの? なにを見るの?」
目の前が暗くなり、なにもかもどうでもよくなっていった。これで死ねる。
ぼんやりと濁った目をした痩せた女が正面にいた。土色の肌の質感。どこか懐かしいニオイ。そして音。浅く早い呼吸音。死にそうだ。目は開いているけどなにも見ていない。ゆっくりと呼吸が止まる。
死んでいる。
この女にはそれ以上の興味がわかない。第一、この場所には食べ物もない。
一瞬で窓枠に乗ると、生ぬるい風を感じながら外に飛び出す。これほど視野が広く、いろいろなものを感じている自分が怖い。
軽い。自由。生きている……。
天国を探さなくちゃ。
遠くはぼんやりと霞んでいるのだが、動いているもの、動いていないものを瞬間的に察知でき、距離感もわかる。
しなやかな筋肉は体重がゼロになったように軽く感じさせ、アスファルトを踏みつける肉球も快適だ。
天国へ行く前に、やるべきことがあった。
場所はわかっている。空間を立体的に把握できて、音やニオイや勘によって地図が描けている。
自転車が通り過ぎるのを待ってから道路を横断し、ブロック塀を駆け上がり、その上を足早に進む。知っているルートだ。塀から塀へ。曲がって曲がって。
ときどき真っ白な猫に出くわす場所だが、今日はいないようだ。挨拶をする手間が省ける。
いったん地面に降りて、家の庭を横切っていくと、インコが鳴いている。この家からは嫌われている。さっさと通り過ぎる。
塀から塀へ。庭から庭へ。道はできるだけ使わないようにして移動する。犬が吠えているので、別のルートに変更。
途中、おいしそうなニオイを感じるけど、いまは空腹ではない。
町の景色は驚くほど変わっていない。コンビニがあって通学路があって、ガードレールも歩道もない狭い道をたくさんのクルマが通る道があって、自転車が急ブレーキをかけ、赤ん坊をバギーにのせた主婦はスマホを眺めながら気だるく歩く。
住宅。マンション、アパート、工場。下水溝。空き地。駐車場。
すべてが夕日とともに、色を失い闇に包まれていく。それでも、鮮明に見える。
目指す二階建てのアパート。ここも古い。家賃をまともに払っている住人はいない。暴力団が占有していて、ケンジはその仲間。
ケンジはいま、アパートの横の闇に隠されつつある空き地にいた。空き地と駐車場。アパートとその裏の住宅を壊せば、きれいな四角い区画になる。いずれそこにマンションが建つのだろう。
ケンジは地面でダンゴムシのように丸くなっている。頭をかばっている。何人もの屈強な男たちが、ケンジを蹴り飛ばしている。
男たちもケンジも、無言だ。
蹴る者の息。蹴られる者の息。
逃げようとして失敗したバカ。連れ戻され、すべて奪われ、命は消えようとしている。
肉にめり込む靴の音。ゲホゲホと自分の血にむせるケンジ。
ぜんぜん、かわいそうじゃなかった。
「どうしますか」
蹴っている若い男が、一人離れたところでスマホをいじっている中年の痩せた男に尋ねている。
「ん? いま連中を呼んだ。消えてもらう」
「マジッすか? だけどケンジは……」
「ヤス。おまえこいつをかばうの? ま、こいつを連れてきたのはおまえだ。連帯責任負う? 一緒に山の中に埋まる? そのうちおまえらの骨の上に松茸が生えるかもな」
ハハハと仲間たちが、そこで笑わなければ殺されると思っているかのように、必死に声を上げる。
「いいっすねえ。その松茸ですき焼きでもどうです?」
ヤスと呼ばれた男は、ケンジを諦め、みんなに同調した。
「よおっし、まだ心臓動いてるよな。ここで死んじゃうと面倒だから。このあと来る連中に任せる。おれたちはなにも知らない。いいな」
「へいっ!」
輪が解かれ、動かなくなったケンジを置いて大半の者がクルマに乗り込んで消えた。ヤスだけは、万が一のためと、少し離れた場所で見張る役目を押しつけられていた。連帯責任というやつだろう。
ヤスはケンジを助けるだろうか。助けるならいまだ。このあとに来る連中は、人間を消す専門家らしいから。
ケンジは組織にどんなマズイことをしたのだろう。ケンジがマズイことをするのは珍しくはない。マズイことのかたまり。
ヤスは、捨てられているらしい錆びついた茶色の軽ワゴンの横に隠れている。彼らが来る前にケンジが動いたり、誰かが来たときのために見張っている。
しばらく途絶えていたクルマの走行音が、遠くに響く。
来たのだ。
ケンジを近くで見よう。これで見納めになるのだし。
なんだ、猫か。
ヤスは暗がりに動く物に脅え身構えたが、茶色っぽい猫がケンジの近くにやってきただけだった。尻尾を高く上げ、物珍しそうに気を失っているケンジを眺めている。
街灯の光に照らされると、その猫の目は冷たい水色に光った。
あっち行け、とヤスは小声で追い払おうとしたが、猫は堂々としている。ケンジを舐めたりして、あいつが目を開けたらマズイ。ヤスは手元にある小石を、猫にぶつけようとした。放物線を描いた石は、猫ではなく、手前のケンジの頭に当たった。
「んん?」と低い声。
ヤスは焦った。ケンジが動いた。
ヘッドライトが空き地を照らした。
ホッとする。始末屋の到着だ。大型のワゴン車。窓には黒いフィルム。土木作業や水道工事のクルマにしか見えない。砂利をタイヤで弾きながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
彼らがクルマを降りて、ケンジを抱え上げるのを見届ければ、ヤスの仕事は終わる。アリバイ作りのために、いつもの焼き肉屋にいる兄貴たちのところへ走っていき、報告するだけだ。
「あっ、あの野郎」
始末屋のワゴンに見とれていたヤスは、愕然となった。いつの間にか中腰になったケンジが、空き地の反対側へ移動していく。
いま出て行き、タックルすればいい。
だが、足がすくんで動けない。
始末屋が怖い。始末屋を見てはいけないと兄貴から厳しく言われている。
「いいか、やつらを見て生きて帰ってきたやつはいねえんだ」
自分の頭蓋骨から松茸が生える。
思わず頭を撫でるが、足に力が入らない。
あの野郎、どこへ行くんだ。
ケンジは暗がりへ這い進む。完全に腹ばいになった。
やった。やっぱりボコボコにされたダメージで動けなくなった。これで問題なし。焼き肉の香りが漂ってきたような気がした。
ヘッドライトがケンジの足を照らし、ワゴン車が止まった。スライドドアの開く音。
くそっ、ウソだろ……。
ケンジはフェンスの下にあるらしい穴から、向こう側へ這い出そうとしていた。
「やめろ、ケンジ!」
ヤスはついに足に力が入り、飛び出していくと、その足首を掴んだ。
「あっ」
手元には片方の靴だけが残っていた。
「くせっ!」
ゴミ箱で拾ったような踵の潰れたスニーカー。
ケンジはフェンスの向こうだ。ギラッと光る目。あの猫だ。
猫は、ケンジを逃がそうとしているのか? そんなバカな。
「おい、どうなってんだ」
背後に始末屋の野太い声。ちらっと振り返るが、ヘッドライトがまぶしくてそこにいる連中の顔は見えない。
見てはいけないのだ。慌てて目を逸らし「あっちに逃げた」と擦れた声で叫んだ。
「ふざけるな。連れ戻せ。おれたちはここを動かない」
「は、はい!」
連れ戻さなければ、頭に松茸だ。
ヤスは、フェンスの下の穴に飛び込み、向こう側へ出た。そこまでヘッドライトは届かない。暗くてなにも見えない。
だが、塀の上に這い上がる影が見えた。
「おい、戻れ。おれだ、ヤスだ」
ケンジは振り向きもしない。
あれだけ殴られ蹴られ、血反吐を吐き半殺しになっているにしては元気すぎる。
ヤスも塀に飛びついた。
綱渡りでもするように、両手を水平に広げて、靴幅より細い塀の上を歩くケンジ。
ヤスは「ふざけんなよ」と怒鳴ってはみたものの、危うく落下しそうになって両手を振り回す。
平地なら数歩で追いつける距離。それが塀の上ではムリ。右は資材置き場なのか障害物が多く、塀に沿って走ることはできない。左は水路。こっちも人が歩けるスペースは、あったりなかったり。とても下から先回りはできない。
しょうがなくヤスはそろそろと塀の上を追う。追いつけるか追いつけないか。際どい距離が開いた。
なんだってこんなところを逃げるのか。
この先はどうなっていただろう。
何度か運転手もやっていたヤスは、必死で思い出そうとする。占有しているアパートから空き地の向こうへ行くと、金属加工の工場、自動車修理工場があり、さらに先には電気設備メーカーの大きな工場兼倉庫があった。そこから右へ曲がっていくと最寄り駅。まっすぐ行くと大きな川で、橋を渡れば隣町だ。
工場に逃げ込むのだろうか。警備員に見つかるだろう。そうすれば捕まる。警察に突き出されたほうがケンジにとってはいいのだ。
もしそんなことをされたら、山に埋められるのはヤス自身だ……。
橋へは行かないだろう。橋に出れば広い歩道がある。ヤスが全速力で追えば逃げ切れない。ケンジはボコボコにされているのだから。骨の二、三本は折れて、内臓も損傷しているはずだ。
スマホで兄貴に相談したいが、塀の上ではケンジを追うだけで精一杯。
「ちくしょう」
涙が出て仕方がない。怖い。情けない。
闇が濃い。塀を照らす街灯はない。工場の建物からの灯りぐらいで、あとは水路の向こう側の細い道に点在する街灯だ。
塀は水路に沿ってゆったりと左に曲がっていく。
ケンジの前を、尻尾をピンと立てた猫が歩いている。
ケンジが動物好きだなどと聞いたことはない。恨まれていることはあったとしても、恩返しのように助けて貰うなど、あり得ない。ケンジは根っからの悪党で、心のない人間だ。親兄弟、友達、彼女、誰でも容赦なく自分のために切り捨ててきた。そのあげく、掟を破り、組織を危険に晒してこの始末だ。
「あのバカ、泣きながら家の権利書、持って来てさ。笑ったぜ」とケンジは得意げに話したこともあった。博打の借金を親に払わせたときのことだ。彼がバカにしたのは、先祖から伝わる家と土地を売り払った両親なのだ。
いまカネヅルとして三人ほど彼女がいたはずだが、三人とも人間扱いすらされていない。
「だってさ、バカなんだもん。薬やっちゃったら抜けられないじゃん。買わせるための友達を作れって言ったのにさ、そいつらと一緒にやっちゃうんだもん。救いようがねえ」
だが、女を縛るために、最初に薬の味を覚えさせたのはケンジなのだ。自分だってやめられないクセに。ほかになんにも楽しみのない彼女たちが、薬に溺れることをバカにできるのだろうか。
イカレたやつらはいっぱい知っているので、ヤスはいまのいままで、ケンジをそれほど嫌なやつだとは思っていなかったのだが……。
「おい、逃げるなよ。こっちに来い」
ヤスの声は闇に虚しく吸い込まれる。ケンジは足を止めようとしない。優雅に歩く猫を真似て、しなやかに歩く。大して早くはないのだが、どうしても距離を縮められない。
刻一刻と、ヤスは自身の破滅に近づいている気がしてならなかった。
このまま逃げてしまおうか。いま、工場側に飛び降りて、警備員に捕まって警察に突き出されたら……。
いや、だめだ。
拘置所で殺されたやつがいた。組織を裏切ると、弁護士と称する人間が面会に来て、その後、誰かに殺されるのだ。組織は裁判まで生かしてはくれない。
「逃げたってダメなんだぞ」
ケンジもそのことは知っているはずだ。
猫のあとをついて行けば、逃げ切れるのだろうか。
だったら、このままついて行くしかない。うまく追いついてケンジを捕まえて、始末屋に引き渡して焼き肉だ。
捕まえられなかったら、自分も飛ぶ。なんの準備もしていないので、すぐ見つかるかもしれないが、とりあえず逃げる。
気がつくと、左側の水路はどんどん深くなっていき、しかも水はあまりなさそう。そこに飛び降りるのは自殺行為だ。
橋に近づいている。この先、塀がどうなっていたのか、まったく思い出せない。クルマで移動しているので、道路に面したところしか見ていない。それは工場の正面側であって、こっち側ではない。
ヤスでさえ足が疲れてきた。かなりの距離を歩いている。
始末屋はどうしただろう。もしかして、兄貴に報告しているのではないか。二人とも逃げたまま帰らないと聞かされたら、兄貴は……。
ズボンのポケットでスマホが振動している気がしてならない。
もし逃げていないのなら、真っ先に兄貴に報告すべきだ。そのためのスマホだ。それがないまま、すでに何分経ったのか。何十分経ったのか。
柔らかな風に吹かれ、汗が冷たい。
スマホを取るか。もし取るなら足を止めるしかない。
ヤスはいったん、スマホを取る決断をした。
「ああっ」
静止したとたん、バランスを崩しそうになって、しゃがみ込む。汗で濡れたズボンのポケットに手を突っ込んで取り出す勇気は消え失せた。しゃがんでいたらポケットに手が入らない。立ってポケットに手を突っ込めば、落下してしまいそうだ。
その間に、猫とケンジは着実に先へ進んでいく。
右側の工場兼倉庫の建物が終わる。
敷地内の広い駐車場が見える。そこなら右側に飛び降りて、駐車場を全力で走れば追いつける。このあと塀は、駐車場のハズレで直角に右へ折れる。その先はよく知った道路だ。その片道二車線の道は、橋につながっている。
「やった!」
首の皮一枚、つながった。焼き肉の匂いが漂ってきたような気がした。
「バカだなあ、ヤス。だけど、よかったよ。ケンジのやつをしっかり捕まえて、始末屋に引き渡したんだからな。まあ、よしとするか」
上機嫌の兄貴がヤスのグラスに、瓶の底にちょっと残っていたビールを泡多めに注ぐ。
「すごいっすね、ヤスさん。おれなんてあんな塀の上、歩けねっすよ」
仲間も残り物のビールを足してくれる。
「執念ですね」
「根性が違いますね」
ゴクッと飲み干す温いビールがうまい。そしてロースターの上で焦げているニンジンやカボチャに手を出す──。
そんな妄想に笑みを浮かべながら、ヤスは必死に歩く。もうすぐ駐車場だ。
「よーしっ」
声を上げて、右側に飛び降りた。
闇のせいで高さを誤ったのか、滞空時間が妙に長く感じられ、ヤバイと思ったとたん激しい衝撃が足から腰、背中、頭へと突き抜けていった。
体が痺れてしばらく動けない。仰向けに倒れていた。
そこは堅いコンクリートと鉄が組み合わさった、なにかの部品を置くための頑丈な台だった。右足をその鉄に激しくぶつけてしまったようだ。
「ちくしょう」
動き出せるまでに、しばらく時間を浪費した。
目を開けると、工場の駐車場を照らすライトに、猫とケンジが照らし出されていた。
「スター気取りかよ! くそったれ」
鉄のレールのようなものに寄りかかって、立ち上がった。右足首に力が入らない。右膝がまっすぐ伸びない。体が裂けるような激痛が走る。吐き気。
「うげえー」
左足で跳ねるようにし、塀に手を添えながら追う。ヤスのイメージではいっきに駆けて先回りし、ケンジの足に飛びかかり引きずり下ろすはずだった……
現実は、片足でチョンチョンと跳ねて前進するヤスは遅い。もどかしい。距離は縮まらない。
「なんでだよお。げぼげぼ。おれ、なんにも悪いことしてねえじゃん」
それは明らかなウソだが……。
とうとう猫は塀の角に差し掛かっていた。もしそこを右に曲がってくるのなら、ヤスは駐車場を斜めに横切れば先回りできるはず。
「ワープしてやる」
左側へ落ちる選択肢はケンジにはない。その向こうは水路だ。自殺コースだ。右へ曲がれば、橋へ続く道に出られる。ヤスが待ち構えているこの駐車場に降りてくる可能性もゼロではない。
頼れるものがないので、右足に右手をあてて、少しでも痛みを感じないようにと祈りながら、駐車場を横切るコースを選んだ。
「くそ、いてっ、くそ、いてええ、げぼげぼ。くそ。ちくしょう。いて、うげえー、くそ。くそケンジ。おれは生き残るぞ。おまえはもう死んでいる。死人のくせに偉そうに歩きやがって」
わけのわからないことを叫びながら、ひたすら斜めに横切っていく。
「へへへ。ほらな。ざまあみろ。おれ、完全に追いつく」
左手に塀とケンジを見ながら、いったん遠ざかるように進むのだが、思った通り、猫は塀の上をそのまま右に折れて来た。ケンジもそれに続く。
「完全勝利!」
足は痛い。腰も痛い。吐き気は止まった。このまま動き回っていたら骨や傷口がさらに悪化しそうだった。それでもやるしかない。ズボンは血だろうか、ぐっしょりと濡れている。漏らしたのかもしれない。恥ずかしいが、着地の衝撃で膀胱からビュッと。いや、血か。もし血だとすれば、こんなに流れ出して大丈夫なのか。
どの道、死ぬかも。
「うげえええ」
吐き気がぶり返す。
ヤスはなんとか先回りに成功する。
塀に両手をついた。
あとはここにやってくるケンジの足首に飛びついて引きずり下ろせばいい。
近づいてくる。
猫の目。
水色に光っている。なんとも言えない冷たい色だ。
「来い、ケンジ。来い!」
一歩、また一歩。着実にやってくる。
猫がすぐ手前でヤスに気付いた。
尻尾が手招きでもするようにくねる。
「さっさと来い。地獄に引きずり落としてやる。おまえの頭から松茸、生やさせてやる。その松茸をすき焼きで食ってやる」
ヤスは自分から迎えに行こうと思ったが、あまりの痛さに動けなかった。それよりも、最後の力を振り絞って飛びつくことだ。
チャンスは一度きり。
猫、さっさと行け。あっちへ行け。
ヤスの声が届いたのだろうか。
猫は背中を丸めて、なんと塀の向こう側へ飛んだ。
「え、なんだ、そんなのありかよ」
向こう側がどうなっているのか、わからない。
「ケンジ、やめろ、こっちに来い!」
だが、ケンジも止まり、塀の上で横を向く。両手を大きくふって、膝を深く曲げ、猫に続いて飛んだ。
「うあ、ちくしょう! なんだ、ウソだろ」
ヤスはあたりを見る。
駐車場には数台のクルマがある。一台のトラックが右手にあった。
痛みどころではない。ヤスは必死になってトラックまで行くと、その後部から閉じた観音開きの戸を這い上がり、荷台のステップまで辿り着くと、そこから塀へ体を倒すように飛び移った。
痛みに気を失いそうになりながら、塀の上へ体を引き上げた。
向こう側へそのまま降りようとした。
「あっ」
水色に光る二つの目。驚くほど近い。
真下には三メートルほど下に細い水路があった。大股でまたげてしまうほどの幅しかないが、勢いのある水流。かなりの傾斜で先ほどの広い水路へ向かっている。
猫は水路に誰かが誤って落ちないようにと作られた頑丈な柵の上にいた。塀よりは少し低い位置にある。手を伸ばしても届かない。
柵の上には、鋭く尖った鉄の棒が槍のように上を向いて、乗り越えようとする者を威嚇していた。十センチぐらいは突き出ている。そのすぐ下に有刺鉄線が張られていて、槍の先を掴んで柵を越えようとする者に、諦めろと訴えていた。
いまのヤスには、いっきに飛び越えることはできそうにない。猫のようにいったん、柵の上に飛び移り、それから向こう側へ行くしかないだろう。左足だけで、できるだろうか。
ケンジはどうしたのだ。
猫は優雅な足取りで、汚れた洗濯物のような物体に向かって行く。柵の上に薄気味悪く垂れ下がっている。
やがてそれが橋や道路からの灯りの中で、カーゴパンツだとわかる。パンツだけではない。裾から足が出ている。靴は片方だけ。汚れた足の裏。脱力し、まったく動かない。
ヤスはしばらく唖然としていた。
なにが起きたのか推測し、痛みを忘れた。腹の底からなにかがこみ上げてきた。
「ふふふふ」
やがて笑い声は大きくなっていった。
「ハハハハ」
ピーッと無線機から出る音がし、「不審者を発見、応援求む」と声がした。
足音がパタパタと響く。
別の方向からも足音がしている。二人以上の警備員が、いまヤスに向かって駆けつけてきていた。懐中電灯を浴びる。
ヤスは塀の上でしばらく笑っていた。
「あいつ、バカだな。猫みたいにやれるわけねえだろ。バカだ、バカだ……」
あの猫は、最初からケンジを逃がしてやる気などなかったのかもしれない。
猫はケンジの尻の上にのり、ピンと尻尾を立て、くねらせた。艶めかしい。
ヤスに冷たい水色の視線を投げかけると、笑うように少し口を開き、次の瞬間、体をひるがえし向こう側へ降りていった。
ほどなくして橋へ向かう歩道を優雅に歩いて行く猫の後ろ姿が見えた。
猫の道。
「猫になるしかねえ」
ヤスは涙を拭き、塀の上に足を引き上げてしゃがむ。右足は痛すぎて役に立たない。左足と手でバランスを取りながら、できるだけケンジのケツに近づく。
「こんなもの、簡単だぜ」
そこだけは、突き出た槍先を気にしなくていい。汚いケツにしがみつくことができれば、向こう側へ行ける、かもしれない。逃げられるかもしれない。
警備員はすぐ近くに来ていた。
ヤスは飛んだ。
「にゃー」
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