ねこのおやつ外伝
本間舜久(ほんまシュンジ)
第1話 田島の手
「田島のこと、聞いたか?」
今年七十歳になるというのに、相変わらずキャバクラ通いに忙しい村山から誘われて、私は仕方なく(仕方なく、だ)ついていった。
若い女性に囲まれて酒を飲めば、それだけで楽しくなってしまうのは、若い頃から植え付けられた習性なのだろう。私たちは、大好きなおやつを手にしている飼い主に尻尾をふって喜ぶ飼い犬のようなものだった。
だから、こんな場所で田島の話を持ち出す村山の神経を疑った。
「宗教だっけ。なんだか遠いところに行ってしまったね」
昔は田島がリーダーで、村山、私、それに偉くなりすぎて疎遠になった岡崎の四人でこうした場所で楽しんだものだった。若い頃に仕事で知り合った仲間。年齢差はあるものの、友達付き合いのできる男たちだった。
「インドの方にある、なんとかっていう村に行って五年。ついにあいつは神になったんだよ。ほら、見ろ」
「神?」
村山の差し出すスマホには、太ってパンパンに膨らんだ醜い男が映っていた。
「これが田島?」
「そうだ」
「見る影もないな」
私はこうはなりたくない、と心底思った。どんな悪食をすればこうなるのだろう。どす黒い顔。髪は何カ月も洗っていないのだろう。毛量こそ記憶の半分ほどに減っているのだが、逆立っているので存在感は増していた。
「それだよ。その影だよ」
「影?」
「やつの後ろを見ろ」
「後ろ? なんだ、千手観音の絵か? あいつ仏教に鞍替えしたのか?」
黒っぽい手が後光のように突き出ている。
「絵じゃないんだ」
「じゃ、なんなんだ」
「こっちの写真を見ろ」
指先でさくっとスマホを撫でて別の写真を出す。
まん丸体形で、怒髪天を突く男を背後の、斜め上から見下したアングル。田島は座っていて、彼の周りをぐるっと机が囲み、そこに無数の手が……。
「ええっ、この手」
「そうだよ。田島の手だ」
神になった、という意味はそれなのか。田島の体から無数の手が出ている。肘もある。指もある。
「千手観音になったのか!」
「正確に千本あるか数えられないけどな、この写真じゃ」
確かに、千手観音の像を見て、手の本数を数えたこともなかった。本当に千本あるのかどうかも知らない。白髪三千丈的な表現なら「無数」とか「数え切れない」を「千」で現わしているのだと解釈できなくもない。
「すごいな。便利なんだろうな」
「それが、そうでもないらしい。これを撮って送ってくれたのは、やつを探しにその村へ行ったおれの知り合いなんだが、たくさんの腕を維持するためにめちゃくちゃメシを食わないといけないらしい」
「なるほど」
養う手が増えた。養い手は増えない。そんなことを私はアルコールの入った頭で連想した。手がいくら増えても、口は一つ。胃は一つ。心臓も一つ。そりゃ、大変だ。
「ぶくぶく太っているようだけど、栄養状態は極めて悪い。立って歩くことも簡単ではない。やつの足腰が上体の重さを支えることができない。一番近い長距離バスの来る町から山道を二時間四輪駆動車で移動して、三時間歩いて到達できる村なのだ。それも雨季はがけ崩れや橋が流されたりして命がけだ。やつを連れ出すことは不可能だ」
「そりゃあ……」
残念だ、と思いつつ、そうでもないような気もした。この横に手がそんなにある田島がいるなんて、ぞっとする。麻美ちゃんと奈美ちゃんの間に田島を座らせたくない。
「便利だろうな、それだけ手があれば、一度にいろんなことができるだろう」
もちろん私はいやらしいことを考えたのだが……。
「それがさ」
村山は悲しい目をして、美しく着飾った若い女性、いや、着飾った美しく若い女性、いや、私たちの年齢からすれば五十歳以下はみんな若く見えてしまうので、シンプルに美しい女性である奈美ちゃんが差し出したハイボールを受け取ってゴクリと飲み干した。
「やつの仕事はさ。こうやって、テーブルに色紙を並べて神様の印、サインみたいなものだな、それを直筆で書くことなんだ。それを日本円で一枚十円か二十円の手間賃で朝から晩まで書いているらしい」
「それだって、千本あれば大量生産、大金持ちじゃないか。ヘリでもチャーターして脱出できるんじゃないか?」
「そう思うだろう? ところがだ。悲しいことにやつの脳ミソは一個しかない」
「うん?」
「やつがなにかを書くことのできる手は、そのいっぱいある手のうちの一本だけ。一本に集中するとほかの九百九十九本にはまったく神経がいかない」
「なんと……」
「つまり、九百九十九本の手で色紙や机や自分の体を支え、一本の手で筆を持って一枚ずつ色紙を書く」
私は隣りに座った麻美ちゃんの胸元がしだいに気になってきた。そこになにがあるのか試すには、手は一本あればいいのだ。
「おまけに、すぐ腹が減るのでメシを食わなければならない。メシを食う手も……」
田島の手がどうなろうと、私にはもはやどうでもよかった。
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