思い出す香り…。
アルバイトを終える彼を迎えに行く。彼のアルバイトが終わるのは午後九時過ぎ。アルバイト先から電車に乗って三つ目の駅で降り、其処から徒歩で私の部屋まで…となると遅くなる。どうせまた「あぁ、腹減った…」となるのだろうと、夕食がすぐに食べられる様、私は彼のアルバイト先の駅まで向かった。其うすれば三十分程度早く、彼も夕食にありつくことが出来る筈だ。アルバイト先の駅で降り、改札を出た処で彼を待つ。程なくして彼が現れた。
「ごめんごめん…。待った?」手を振りながら近寄って来て、彼が訊く。
「五分くらい…」時計を見ながら私は答えた。
時計は九時十五分を指していた。
「あぁ、腹減った…」案の定、彼が言う。
「何、食べよっか?」彼が続けるのを遮って私は訊いた。
「ねぇ?何かあった?」
私は、左手で彼の右手を少し引っ張りながら手を繋ぐ。
「何かって?」
私の手を握ったまま、彼は自分の上着のポケットに二人の手を入れて、訊き返した。
「突然『会える?』って…」
夕方、突然彼から届いたメッセージには『今晩バイトの後に会える?』と書かれていた。今日は受けるべき大学の講義も一切なく、アルバイトもなかった私は、独り暮らしのワンルームでゴロゴロとしていた。彼のメッセージに即座に返信した。『いいよ♪』と。
「あぁ…。急にごめん。いや、今日さ…駅のホームでカップルの喧嘩を目にしてさ、何となく会いたくなっちゃったんだよね…」
「ふぅん…。其うなんだ…。何か私に後ろめたいことがあるとか?」
「ないよっ!何で其ういうことを言うのかなぁ~?」
「ハハ。ごめん」
私は、自分よりも少し背の高い彼の横顔を見上げて笑った。
「喧嘩を見て私を思い出しちゃった?」
「うん…。何となくね。見るからにちぐはぐな見た目のカップルでさ。女の子はワンピースなんだけど、男の方は上から下までパンクなんだよね。それが妙に気になっちゃって、電車を二本乗り過ごして迄喧嘩を見てた…。あれは多分終わったな…」
「何やってんだか…」
「ハハハ。全くね…。大きなお世話だ…」彼は笑う。
クンクンと鼻をならし左右をキョロキョロとしながら彼は続けて言った。
「で、何、食べよっか?」
其処は比較的大きな駅。乗り換え駅と云うこともあり夜九時を過ぎても、駅前の広場にはある程度の人数が見られる。駅下はショッピングモールとなっており、幾つかの飲食店が軒を並べている。どの店もまだ混んでいそうだった。
「昼はピザを食べたんだ…。君は?」
駅下の飲食店から離れ、駅前広場を抜け大通りへと抜けるやや細くなった道を入っていく。細くなっているとはいえ、向かいから駅に向けて歩く人も多い。九時半近く。商店街とは言えない程度の道は営業している店もまばらだ。
「私も昼はイタリアンだった。パスタ…」
「じゃあ、其れ以外の店を探そう………」
其うなると、和食なら蕎麦屋か?洋食屋も良いけれど、二人のランチはパスタにピザだ。
「やっぱり中華じゃない?」「中華かなぁ…」と二人同時に口にする。
食べることが好きな二人なだけに、食べ物のこととなると息が合う。私たちは顔を見合わせてハモったことを笑った。
「中華ね…。中華…中華…」と言いながら相変わらずクンクンと左右をキョロキョロしていた彼が、ふと立ち止まり後ろを振り返った。
「どしたの?」彼の顔を見上げる私。
「いや、知り合いかと思って…」と彼。
私も振り返り、駅に向かっていく人々に視線を送った。すぐ傍を駅へと向かって歩いていたのは髪の長い女性だった。
「知ってるヒト?」「んな訳ないんだよね…」
「昔の彼女に似てたとか?」「うん…」「え?」
「いや、顔はよくは見えなかったけど、においが…」
「ニオイ?」「シャンプー?覚えのある感じだったから…」
「彼女と歩いているのに、昔のカノジョを思い出すって?!」
「いや、カノジョの訳ないし…」「其ういう問題じゃない…」
私は拗ねてみせた。
香りは記憶を呼び覚ます。視覚、味覚、聴覚、触覚、其して嗅覚…五感の中で、最も記憶に残りやすいのが"ニオイ"…。「五感の中で匂いを感じる嗅覚は、特に長く記憶に残る」らしい。前に何かで読んだことがある。
「会いたいって言うから、迎えに来てあげたのに此の仕打ちって…」
「だから、ふと記憶が甦っただけだって…」焦る彼。
「ニオイって、記憶に一番植えつけられる感覚なんだよ…」捲し立てる彼。
「知ってる…」「だから仕方ない…」「仕方なくない!」
悔しいけれど、仕方ない…。記憶を呼び覚ます香り…。流石に其れには太刀打ち出来ない…。でも、其れを口にするのはNGだ…。
「思い出しても…普通は言わないけどね…昔の彼女のことなんて…」
彼はしょげた顔をして頭を掻いた…。もう此の辺で許してあげよう…。でないと、彼が昼間見たと云うカップルの様に本当の喧嘩になってしまう。
私は繋いでいた左手を解き彼のポケットから抜いた。代わりに彼の腕にしがみつき、お道化てみせる。
「じゃあ、私はどんな香り?」
「ど、どんな香りって………」
「ねぇ?どんな香り?」
腕を組んだ私たちは再び歩き出す。
「う~ん…。何だろう…」「何?」
「う~ん…。餃子の香りかな?」彼はニヤっと悪い顔で笑った。
「何それっ?!何だか私…凄い"食いしん坊"みたいじゃない?」
「え?違うの?僕の中で、"餃子"と謂えば君なんだけど…」
彼は笑いながら言う。
「酷いっ!」剥れてみせる私。
すると「あ…ほらっ?ちょうど中華料理!」と誤魔化す様にして、彼が指差す先には『中華定食』と書かれた赤い暖簾があった。
「此処に入ってみよう!初めての店!」
其う言って彼は暖簾を潜り、引き戸を開けた。
-了-
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