二本の電車を遣り過ごした…。

僕が"其れ"を見掛けたのは、ほんの偶然だった。


午後四時過ぎ。六時からのアルバイト迄の時間を僕は、一周一時間程の環状線に乗り、不足気味の睡眠時間を補いつつ時間を潰そうとしていた。ホームの自動販売機へと硬貨を放り込み、無造作に落ちて来た缶コーヒーを拾い上げプルトップを引く。ゴクリと甘いコーヒーをひと口啜ってから、ホームの端のベンチへと歩いて行く。アルバイト先の駅改札は進行方向最後尾に在り、其処で乗るのが好都合だった。ベンチに腰を下ろし電車を待つ。再度、天を仰ぎコーヒーを喉の奥へと流し込む。空には雲が立ち込め、午後四時にしてはかなり薄暗かった。其う言えば、朝の天気予報で「本日は曇り時々雨。傘をお忘れなく」と言っていたのを思い出す。正面へと向き直ると、対面式のホームには大学生と思しきカップルが言い争って居るのが目に入った。

恐らく僕と同じ大学の学生だろう。

学生が多い駅のホームで、其のカップルが僕の目を引いたのは、其の二人が、妙に不釣り合いに見えたからだった。全く以て、大きなお世話な話だ。


男はスタッズの幾つも付いた黒い革のライダースを羽織っている。背中には殴り書きの白い文字。其の下は襟ぐりの広い白Tシャツ。首には南京錠を模した形のネックレス。膝に穴の開いた細く黒いデニムの裾は折り返され、足元は其の手の人達にお決まりの、白い靴紐を編み上げた黒いドクターマーチン。髪の毛は勿論、ヘアスプレーでツンツンに固めている。教科書に出て来る様なパンクス・スタイルだが、最近では寧ろあまり見掛けない。


其れならば、女の方も彼と釣り合う、其れなりの恰好だろうと思いきや、此方は随分と大人しいコーディネートだった。濃紺の半袖ワンピース。全体に花柄が、淡い色合いで散りばめられている。赤いトートバッグを肩に掛け、手にしている傘も赤だ。足元は黒地に白い靴紐、爪先は白い。コンバースだろう。髪は、染められる事も無く真っ黒でサラサラと長かった。大きく目立つ事も無いが地味過ぎて存在感が無い訳ではない…其んなスタイルだった。


もう一度言う。全く以て大きなお世話ではあるのだが、ちぐはぐな二人。だが、だからこそ妙に気になって、僕はホームへと入って来た電車を一本遣り過ごした。悪趣味も甚だしい。"出歯亀"とは正に此の事を謂うのだと自分自身に嫌気が差しながらも僕は、ベンチから腰を上げようとはしなかった。


電車がホームを離れ、再び向かいのホームが見えると、二人はまだ言い争っていた。勿論、二人の会話が聞こえて来る訳ではないが、彼女は結構な剣幕だった。二人の居るホームに電車到着のアナウンスが響く。言い合いは続く。あの調子では彼等は其の電車に乗ることはないだろう。続いて僕側のホームにもアナウンスが響く。僕はまたしても立ち上がらなかった。彼等側の電車に続き、僕側のホームへも電車が進入し、僕等の間を遮った。互いの電車に乗客が乗り込み、ホームの学生たちの姿がまばらとなる。環状線は八分間隔でやって来る。次の電車が到着する頃には、またすぐに学生たちで埋まることだろう。


ポツポツと音がして、ホームの端にまだら模様を作って行く。いよいよ降り出した雨。其の音は速度を増し、ホームの色を変えて行く。雨足は強くなり、瞬く間に本降りとなった。


ホームを挟む二組の線路が顔を見せた時、彼女は俯いて居た。彼が彼女の肩に手を遣ろうとするのを、力無く払いのける。次の瞬間、彼女は踵を巡らすとホーム中央の階段へと歩こうとする。去ろうとする彼女の手にしていた赤い傘を、彼は引っ張って足取りを止める。彼女も引っ張り返すが、男の力に負け奪い返すことは叶わない。無理に引っ張られ、傘は歪んだ様だった。其れでも傘を、彼は放さなかった。


「放してっ!」


彼女の叫び声は、線路越しの僕の処迄ハッキリと聞こえて来た。余りの声の大きさに怯んだ彼は手を放し、反動で彼女は尻餅を搗いた。しゃがみ込み彼女に手を遣ろうとして彼は、其の手を再び払われる。彼女は起き上がり、振り返ることもなく階段へと早足で去って行った。

立ち尽くす彼。ただただ茫然としている彼を眺めながら、僕は缶コーヒーを口にした。


二人の間に何が起きたのか、其んなことは分からない。分かりようも無い。分かったとしても僕にはどうしようもない。抑々が出歯亀だ。関心を持つ事すら、大きなお世話な訳だ。其れでも僕は言い争う二人の様子をただぼんやりと眺めていたのだ。わざわざ二本の電車を遣り過ごしてまで。


「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」


其んな台詞がふと頭に浮かぶ。言ったのは誰だっただろうか…。優しさが何なのか、強いとは何なのか、何故其の言葉が今浮かんだのか、全てよく分かりはしなかったけれど、其んな誰かの台詞を思いながら、僕は漸く重い腰を上げ、ホームへと滑り込んで来た三本目の電車に乗り込んだ。


欠伸を一つして、走り出す電車の中から向かいのホームに再び目を遣る。本降りの向こうには、彼女の消えて行った階段を茫然と眺め、まだ彼は立ち尽くしていた。缶コーヒーの残りを全て飲み込んで僕は、左手の腕時計を確認する。針は四時半過ぎを差していた。

「あぁ…、寝る時間はもう無さそうだ」

寝不足は解消されることもなく、僕はアルバイト先へと向かう。まだ此の時刻なら遅刻することもない。ポケットからスマートフォンを取り出すと、僕は彼女へとメッセージを送った。

「今晩バイトの後に会える?」

メッセージはすぐに"既読"となり返信が届く。

「いいよ♪」

四文字の短いメッセージの後、親指を立てウインクするキャラクターのスタンプが届いた。



-了-

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