歪んだ赤い傘…。
宇佐美真里
歪んだ赤い傘…。
雨に濡れたアスファルトに反射して、街のイルミネーションがいつもの倍に増えて見える。交差点に敷かれた横断歩道の上を、車のヘッドライトが右に左に横切って行く。横断歩道の白に滲む信号の青が、黄へと色を替え更に赤を滲ませると、車の行き来に代わり、急ぎ足の人々が其の上を渡って行く。其してまた、チカチカと青は点滅を始め、最後の駆け足人を待ちきれない様子で、車のヘッドライトが行き交いを再開する。
交差点沿いのカフェ。窓際の席にオトコが座って居る。オトコは、ぼんやりと雨の止むのを待って居た。其の手元には既に冷えてしまった珈琲が、残りふた口ほど、カップの底に色を付けていた。
オトコは交差点をずっと眺めている。いや、正確に言えば、横断歩道の向こう側、其処に佇んでいる赤い傘をずっと眺めていた。もう彼是三度、青信号を遣り過ごしたまま佇む其の赤い傘。傘は骨が一二本折れていて拉げた姿をしている。佇んだまま交差点を進もうとせずに居る其の傘から、オトコは目を離すことが出来ずに居た。
傘の持ち主は黒っぽい、いや紺かもしれない長めのワンピースを纏い、足元には黒と白のコンビのスニーカーを穿いていた。傘と逆の手には、傘同様の赤い手提げ鞄。ワンピースには全体に白く何か柄が描かれているが、其の柄が何なのか、其処迄はカフェの中のオトコには判別がつかなかった。
歩行者用信号が繰り返し青を表示させても、赤い傘は其の場所を動く気配を見せなかった。四度目の青。色の替わるのを待っていた人々が、一斉にカフェの方に向かって歩いて来る。勿論、カフェを背に遠ざかる人も多い。其の合間に見え隠れする赤。点灯する青。其の青の下に佇む赤。
オトコは残りふた口の冷えきった珈琲を喉の奥へと流し込むと立ち上がった。カフェの扉を押し開けて一度、空を仰ぐ。オトコは歩道の人波の最後尾、其して交差点向こうに佇む赤い傘の正面に立って、信号が青に替わるのを待った。
赤い傘に気付いてから五度目の青に、オトコは横断歩道を渡った。人波に見え隠れする赤い傘に近づく。やはり赤い傘は動くこともなく佇んだまま。オトコは横断歩道を渡り切る。オトコの後ろで車が行き交いを始めた。
佇む赤にオトコは近づいた。赤い傘の下のワンピースは濃紺で、一面の柄は浅紅や白藍で描かれた花であるのが、ようやく分かった。
オトコはゆっくりと傘の主へと声を掛ける。
「大丈夫………ですか?」
驚かせない様に…との気遣いか?一語ずつゆっくりと語り掛けた。
「えっ?」
僅かに赤い拉げた傘が角度を変える。ほんの僅かに胸元から顎の辺りまで、オトコは傘の主を垣間見ることが出来た。歪んだ傘に、未だ顔の半ばほどが隠れてはいたけれど、"其れ"は明らかだった。
オトコはジーンズの後ろポケットから、ハンカチ代りのバンダナを取り出して、オンナへと差し出した。
もう一度、オンナは繰り返す。
「えっ?」
「信号の遣り過ごし…もう五度目ですよ?」
「えっ?」
「すみません…。雨宿りしていて気になったものですから…つい」
オトコは其う言って笑うと、再度オンナへとバンダナを差し出した。
「あ…大丈夫です。傘の差し方が下手なんで…私。いつも濡れちゃって…」
オンナは濡れた頬を隠すように、素早く傘を持つ手で拭った。同時に歪んだ傘が大きく傾いて、ようやくオトコは赤い傘の下のオンナの表情を目にすることが出来た。無理して笑う、きごちない表情が其処にあった。
オトコは、オンナへと差し出したバンダナを其のままに、言った。
「少し前に…、もう雨は、止んでます…」
「えっ?」
降っていた雨は、オトコがカフェを出る直前に止んでいた。
四度目の青以降、横断歩道を渡る人波に傘を差す者は居なかった。
「もう雨は止んでます………ほら?」
オトコは胸元で小さく空を指差した。オンナも空を仰ぎ見る。
「ねっ?」
其れだけ言うとオトコは再度、バンダナをオンナの方へと差し出した。
「はは…。そうですね………。もう、止んでいるんですね…」
濡れた頬を手で拭った時の其れからは少しだけ、ぎこちなさの抜けた笑みを浮かべながら、オンナは傘を閉じ、バンダナを受け取った。
「ありがとうございます…」
オトコは何も言わずに頷いた。
-了-
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます