紫が表すもの…。
其の日、何もかもに私は苛ついていた。
予備校の授業を終え帰宅すると、玄関に姉の靴があった。珍しく家に居る。「お姉ちゃん、帰って来てるの?」憮然とした顔で私は母に訊いた。
「ごはん食べ終わって部屋に居るわよ」私の表情に気付かぬふりをして母は答えた。
姉の部屋の前を過ぎ、自分の部屋の扉を開ける。壁越しにいつも何かしら音楽が流れていた筈の姉の部屋からは、物音ひとつしない。少し前に私が「うるさい!」と文句を言ったからだろう…。其れがまた私を苛つかせる。私は姉の部屋のドアを勢いよく開け、苛々を爆発させた…。
「今日はアンタと言い合いする気分じゃないの…。そっとしておいてくれる…」「ナニ其の言い方っ!?ムカつくっ!」
「ムカつくのはコッチよ…」何かあったのか、姉は力なく呟いた…。
私はいつもと違う姉の態度で我に返り、捨て台詞を口にして姉の部屋を後にした…。
「姉の髪が紫だなンて彼方此方で言われるのっ!いい迷惑なのヨ!」
***
いつもと違う姉の様子に我に返ったものの、苛立ちは其うすぐには消えなかった。キッチンに向かい私は、冷蔵庫から麦茶を取り出すとグラスに注いで一息に飲み干す。其れを見ていた母が言った。
「お母さんにも一杯頂戴?」「うん…」
キッチンボードから新たにグラスを出して麦茶を入れると、ダイニングテーブルに座る母の前に置いた。
「また、お姉ちゃんと喧嘩?」母が言った。
「だって…」「いいから、其処に座りなさい…」言い訳しようとする私を遮って、母が言った。いつになく有無を言わせぬ雰囲気に、私は大人しく従った。
「何が面白くないの?」母が訊く。
「あんなチャラチャラしたカッコで居られたら、妹として迷惑なのっ!」
「アナタ、お姉ちゃんの何を知ってるの?」
いつも姉と私が喧嘩をしても、取り立てて何も言わずに居るのだが、今日の母はいつもと様子が違う。
「だって非常識でしょ?!あの髪…」其う言う私の言葉に、母は溜息をつきながら言った。
「ねぇ、常識って何?アナタに取って常識ってどういうこと」
「常識は常識よ…」
「お母さんが、此んなことを言うのは変かもしれないけど、アナタ…"常識"と云う言葉に囚われ過ぎよ?」
「常識の何がいけないの?」私は食い下がる。
母は続けた。
「お姉ちゃんの好きなミュージシャンの言葉って、アナタ聞いたことある?」
「其んなの知らない…」
「『どんな場所どんな時でも、自分のスタイルを自信を持ってやるべきだ。其れがパンクだ』だって。前にお姉ちゃんが教えてくれたわ。お母さんにはパンクがどんなものなのかはよく分からないけどね。あの子、泣きながらお母さんに説明したの…。高校入学して髪を染めたときに…」
母は六年前の"其の日"のことを語り始めた。
***
比較的自由な校風の高校に入学した姉は、一年生の夏に髪を紫に染めた。
髪を染めて帰宅した姉に驚いた母は、当時まだ中学生だった私が眠った後に、姉から事情を聞いたのだそうだ。
高校一年の姉には既にやりたいことがあったのだそうだ。其れの実現の為のアルバイトをしたいと言ったそうだ。姉が家にあまり居なかったのは、其のアルバイトのせいだった。
私は何も知らなかった。
姉の紫の髪を見て勝手に判断し、悪い仲間と遊びまわっているのだとばかり思っていた。姉曰く、紫の髪は姉の"覚悟"の表れだったそうだ。周りから何を言われても揺ぎ無く、自分の信じる道を進む為の覚悟…。アルバイト先で将来の夢を学び、稼いだ金の一部は使うこともなく貯金しておいてくれ…と、母に渡していたというのだ。
私は何も知らなかった。
ただただ遊ぶ金欲しさにアルバイトをし、チャラチャラした恰好で遊びまわっている…其う姉のことを思っていた。高校を卒業し浪人した姉は、通っていた予備校の費用も自分で払うと言ってきかなかったそうだ。
私はどうだ?
アルバイト代はどう使った?稼いだ金は全て自分が遊ぶ為の金として使っていた。将来の夢もなく、ただ漫然と大学に行こうとしている。"常識"と云う言葉に囚われ、親友にすら「常識って何?」と笑われる。自分から離れて行ってしまうのではないかと、自由に生きる親友を羨み不安に思うだけで、自らの意志もあやふやに、姉の…親友の…後をついて歩くだけ。
***
「お姉ちゃんは言ったのよ…。『髪を黒くした時は、やりたいことを諦めた時だと思ってくれ』ってね。『私は挑み続ける。挑み続けようと思う。いつ挫けてしまうか分からないけれど…。だから、お母さん…見ていてね』って、其うあの子は言ったのよ…。泣きながらね…。其う、泣きながら…」
其う話す母の目には何時しか涙が浮かんでいた。気付けば私も泣いている。
「別にお姉ちゃんを見倣いなさいだなんて言わないわ。アナタはアナタだもの。だけど…"常識"と云う言葉について、もう一度考えてみたらどう?アナタ…"常識"と云う言葉に囚われ過ぎだと、お母さん思うわ…」
"常識"って何だろう。
社会に於いて"当たり前"だと、"普通"だとされていること。"一般的"だとされる"価値観"…。では"普通"とは何だろう。実体のある物なのだろうか?
"常識"と口にするけれど私は、実体のない何かに身を任せるだけで、自分の意志で…自分の足で立つことを放棄していただけだ…。姉に親友に寄り添うだけの私は、口癖の様に、其の得体の知れない言葉の後ろに隠れることを止め、怖がらず、自分の頭で判断し、自分の足で立たなければならないのだ。
私は怖ず怖ずと母の言葉に頷いた。
「私…お姉ちゃんに謝って来る…」
母も頷く。
「そうね…。お母さんから色々と聞いたって言わないでね…。あの子に、お母さん…怒られちゃうから」
「うん」
母の言葉に二度目は力強く頷いて、私は立ち上がった。
-了-
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます