Dear K
泡沫 希生
For Rosetta
彼女は、窓際に腰掛けながら満月を見上げていた。明るい外に対して室内は暗く、月光に当てられて白いスカートと長い金髪が浮かび上がる。彼女の胸の上では、青い宝石のついたペンダントが小さく揺れている。
静寂で満たされた室内は時が止まっているようだったが、不意にトンッと音が響いて時が動いた。
女性は月から目を離し、音がした入口の方に首を向けた。
鍵をかけていた扉が、いつの間にか開け放たれている。思わず立ち上がったところで、彼女は扉の前にいる人影に気づいた。
その人物は、黒衣をまといフードを深く被っていて顔さえもわからない。
彼女は今までその人物を見たことはなかったが、彼女にはわかった。何者なのか。
「来てくれたのね」
彼女の声に応えるように、黒衣の人物は片腕を上げた。黒い手袋に覆われた指先に、手紙が挟まれている。
「挨拶もなしに申し訳ございませんが、まず一つ確認してもよろしいでしょうか」
低く艶のある男の声だった。
「あなたのご依頼は『あなたの命を奪う』。それで間違いありませんか?」
「
彼女は淡く微笑むと、彼の差し出した手紙を指差した。
「間違いないわ、私はその手紙にそう書いた。まさか、本当にあなたが来るとは思わなかったけれど」
「
「新月の夜、街の外れにある廃教会、そこの天使像の真下へ『Dear K』ではじまる手紙に奪ってほしいものを書いて、置いておく」
女性は、問いかけに対して真っ直ぐに答えなかった。
「そうすると満月の夜、奪ってほしいものを本当に奪ってきてくれる。……そんなの、単なる噂ではないかと、来るのを待ちながらずっと思っていた。でも、あなたはここに来た。
「戯れに依頼したわけではないのですね?」
「本気よ。あなたは必ず、どんなものでも奪ってくれるのでしょう?」
Kは手紙を懐にしまうと、深く頷いてみせた。
「ええ、
「なら、お願い。私の命を奪って」
「失礼ですが、なぜそれを
「死にたければ、自殺すればいい。そう言いたいのかしら」
「いえ。あなたほどの美しい方がなぜ死を望まれるのか、単なる興味で聞いているだけにすぎません。嫌なら、無理強いはいたしませんが」
「口が上手いのね。でも、私の容姿を褒めても何の意味もないわ」
女性はそこまで言うと、胸元のペンダントに触れた。その表情が心なしか憂いを帯びる。
「簡単に言えば、絶望したの」
「絶望?」
「ちょうどひと月前、夫は私を置いて出ていった」
女性の手の中で、月光を反射して青い宝石が輝いた。雫の形をしているせいか、宝石の光り方は涙を思わせる。
「あの女がどうやって、
それは半ば独り言のようで、彼女の声は段々と小さくなっていった。
「あの女が、夫に気を持っていたことには気づいていた。でも、彼に裏切られるとは思っていなかった。私は心から彼を愛していたし、彼もそうだと思っていた。どうやら違ったらしいわ。彼はもう私のそばにはいない」
「だから、絶望されたと?」
「それほどに、私は彼を愛していた。自死を選ばないのは、私が自殺したと知ったら、彼は悲しむのではないかと思ってしまうの。自分のせいで私が死んだと、自分を責めてしまうのではないかって。だから殺してくれる人を探して、民衆の間で密かに噂されていた『K』の話に行き着き、今に至る。ということよ」
女性は「ふふ」と自嘲気味に声を上げた。
「私、馬鹿な女でしょ? 今でも彼のことを気遣っているなんて」
「素敵なことだと
「え?」
Kは懐に手を入れると、ナイフを取り出した。そのまま鞘を抜き放つ。月の光のせいか、ナイフの刃はいっそう冷たく見える。
「いえ、こちらの話です。……あなたの意志はわかりました。依頼を遂行いたしましょう」
「それなら、あと一つ足りないものがあるはず」
女性は、ペンダントを首から外した。
「あなたへの依頼の対価として、依頼者は自らの大切なものを差し出さなければならないそうね」
「そうなっていますね」
「なら、これを。私にとって本当に大切なものはあの女に奪われてしまったから、せめてこれを。彼から貰った思い出の品。対価になり得るはず」
差し出されたペンダントを、Kは黙って眺めた。ほんの少し考えるように、頭を傾ける。
「愛しい人が奪われたというなら、
「そうね、それも考えたわ。でも、今の彼が彼女を愛しているというのなら、それを無理に奪い返したとしても、それは本当の愛とは言えない。私はそう思うから」
「それは……いえ。
Kの声にほんの少し、躊躇いのようなものが入り交じる。
「それは、あなたにとって本当に大切な品でしょう。せめて、死ぬ間際まで着けていればよろしいかと」
「
「醜いですよ、今からあなたを殺す酷い存在なのですから」
「あなた、どうしてこんなことをしているのかしら」
ペンダントを着け直しながら、女性が問うと、
「こんなことをすることでしか、生きることができないから。かもしれませんね」
淡々とKは答えを返した。それから、ゆっくりと女性に近づきはじめる。彼の足音が静かに鳴り響く。
彼はナイフが届く距離で足を止めた。こうして並ぶと、女性よりずっと背が高くそれでいて細いことがわかる。
ナイフを静かに構えると、Kは囁いた。
「用意はよろしいですか?」
「覚悟はすでに決めている。ただそうね。あの世への土産として、一つだけ教えてくださらない」
「なんでしょうか」
「あなたはなぜKと名乗るの? 嫌でなければ教えて」
それを聞いて、Kは小さく笑い声を上げた。
「大した意味などございません。最期に尋ねることがそんなことでよろしいのですか?」
「あなたが最期に会う人だからこそ、名前を知っておきたい」
「……本当に大した意味ではないのです。
Kの答えに女性は目を閉じた。ゆっくりと口角を上げる。柔らかな優しい笑い方だった。
「なら覚えておいて。私からすれば、あなたは
女性は目を開けると、Kに眼差しを向けた。その目には今から死のうとしている人物とは思えないほど、強い光がたたえられている。彼女はそのまま彼に向かって強く頷いた。それが合図だった。
「
Kがナイフを握る手を強める。
「
Kに名前を呼ばれて、彼女はいっそう笑みを深めた。それは夜空に浮かぶ月よりも、ずっと美しかった。
静かに、Kは彼女の左胸にナイフを突き立てた。その瞬間、彼女は目を見開き、その体が崩れ落ちた。床に倒れる前に、Kが優しく支える。
彼女の体の力が抜けたことを確かめると、Kはその体をそっと床に横たわらせた。彼女の開いた目に手を置いて、閉じらせる。
彼女は口元に笑みをたたえたままだった。胸に突き立てられたナイフと血の染みがなければ、眠っているようにも見える。
Kは彼女のそばにかがむと、ペンダントに触れた。ついてしまった血を優しく手袋で拭う。
「
Kの低い声が部屋に響く。
「このペンダントはあなたが持っていて下さい。
ペンダントが綺麗になったのを見届けると、Kは彼女に向かって頭を垂れ目を閉じた。
目を開けて立ち上がり、Kは彼女をもう一度見てから、窓の鍵に手をかけた。小さな音を立てて、窓が開かれる。
室内に風が入り、Kの黒い服をたなびかせた。Kは懐から真白な便箋を取り出すと、一緒に取り出した万年筆で何かを書き付けた。そのまま、その手紙を彼女の横に置く。
「
Kが言い終えた途端、彼の姿は一瞬でそこから消えた。同時に、一際強い風が室内に入り込み、カーテンを大きく舞い上がらせた。不思議なことに、女性の体とその横の手紙は風で動くことなく、そこだけ時が止まっているかのようだった。
明くる日。丘の上の屋敷に住む女性が、殺されているのが発見された。会う約束をしていた友人が発見したという。
彼女の倒れていた部屋は、室内で強い風が吹いたかのように荒れ、物取りの犯行と思われた。
ただ、彼女には胸のナイフ以外目立った外傷はなく、胸のペンダントもそのままで、何より彼女が微笑んでいることが事件の謎を深めた。凶気が何の特徴もないシンプルなナイフだったこともあり、ついに犯人は見つからなかった。
現場には手紙が残されており、そこには印刷された文字と見間違うほど綺麗な字で「
Dear K 泡沫 希生 @uta-hope
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