亡き王女のために……
しろ茶とら
第1話
森の中の国の、湖のほとりにて。
「もし、もうし。お具合でも悪うございますか?」
老人は、うずくまる黒髪の女に声をかける。
「いえ……少し、めまいがして……」
女はゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。
腰まで流れる清流のような黒髪。穢れ一つない白磁の肌。ふわりと漂う薔薇の香り。そして、憂いで濡れる翡翠の瞳……。
雷に打たれたかのような衝撃を、老人は受ける。呆然としたまま、彼女につぶやく。
「わたくしは……あなた様を知っております」
「はい?」
「あなた様は……姫様であらせられますね?」
―*―*―*―
森に囲まれた小国に務める大勢の兵士の中に、ヘローベという青年がいた。
ヘローベはただ、親が兵士だったという理由で城へ入った。流れに身を任せ、安定した生活を営む最短の道を歩いていた。
その日、彼女を一目見るまでは。
(異常なし、異常なしっと)
この日も、自身の持ち場である離れの庭園を見回っていた。ここは城の奥深くにありどこにも続かない、離れ自体も朽ちて誰も入れない――要は不審者さえ近付かないどん詰まりであった。
庭師や見回り兵などは来るも、気を抜いた仕事を咎める者はいなかった。
(今日も平和、何もなし――ん?)
離れの外れた窓から、普段は見えない“影”が見えた。同じ時間、同じ場所を見回るため、見つけた違いには敏感に反応できた。
影の高さは自分と同じくらい。誰かがいる。
「誰だ?」
影が揺れ、ヘローベは窓から覗き込む。
憂いの様相の女が、こちらを見た。
その
王国の宝、姫君アウラ。
近年の暴政がちょうどアウラ姫が生まれた頃から始まったことから、市井では『傾国の美姫』と囁かれている。
朽ちた離れで佇んでいた女は、道に迷ったのだと言った。ヘローベが王城本殿まで送り届けると、彼女こそが姫君だと知った。
なぜ、あんなところにいたのか、聞けずじまいだった。
それから数日後。
いつしか彼女の姿を求めるようになったヘローベの願いが、届いた。
「アウラ様……でございますか?」
「……。ええ」
鈴の音のような、澄んだ美しい声。
「ここは危のうございます。いつ崩れるやも分かりません」
離れた方がいいと声をかけるも、視線を寄せもせず、ただ一点を見つめていた。
朽ちて、修繕されず、そのまま時に身を委ねている廃屋だ。取り壊されもしないのは、それを命令するお偉方の記憶からも抹消されているからだろう。
そんな場所に、なぜ二度も彼女は来たのだろう。
「なにを見ておいでですか?」
離れようとも答えようともしない彼女の視線をたどる。
その先には――
「花?」
壁を這う茨と、小さく咲かせる白い薔薇。
「この薔薇を……」
姫はそうつぶやき、白薔薇を一輪手折った。怪我をしていないか手元を覗くヘローベを無視し、また黙り込んだ。何時間も、憂いの表情のまま。
彼女は、数日おきにやってきた。
何故茨の花を見つめ続けるのか。何をそんなに憂いているのか。ヘローベは訊ねるが、質問は彼女がまとう虚無に吸い込まれていった。
ヘローベは彼女と共に過ごすため、この時を壊さないため、踏み込まないことを選んだ。姫君を守る騎士として、静寂を守り、いつ崩れるやもしれない廃屋の変化に気を張った。
姫君と出会って、一年が経った。
轟音。遠くに聞こえる怒声。重い地鳴り。
城は攻撃を受けていた。長きにわたる暴政への不満が爆発し、大規模な攻勢が始まった。
「姫様ッ!」
ヘローベは、今日来ているかもしれない彼女を探した。
「ヘローベ……!」
姫は、地鳴りによって敢え無く崩れた離れの前で、いつか名乗ったやもしれぬヘローベの名を呼んだ。
「ご無事で! ああ、よかった。今日はまだ、入っていなかったのですね!」
「ええ……たった今、来たところで……。もし、あの中にいたなら……」
重い石造りの建物、命は無かっただろう。
「この音は……」
「反乱でございましょう。姫様、あなたも危ない。どうにかして、お逃がしいたします!」
『傾国の美姫』として、税制に胡坐をかき贅沢三昧を送っているということになっている姫だ。反乱軍に見つかれば、まず命は無いだろう。
「お願いいたします。ヘローベ、あなただけが頼りです……!」
姫が手を伸ばし、ヘローベは迷わずその手を取った。
戦闘音から逃げつつ、質素なローブや走りやすい靴を拝借したり、戦闘に加われと叫ぶ上官を見捨てたり、壁から落ちる花瓶から姫をかばったり。ヘローベは姫と共に走った。
やがて反乱軍が城内になだれ込んできたが、戦意の無い一般兵と女という組み合わせが功を奏したのか、見て見ぬふりをされた。
崩れた城門をよじ登り、路地裏で息をつく頃には、日が暮れていた。
「ああ……助かりました。あなたのお陰です」
彼女の表情は、闇に紛れてよく見えなかったが、不思議とほほ笑んでいると分かった。
「もう少しご辛抱を。城の近くにいては、いつ反乱軍に見つかるやもしれません」
ヘローベが普段寝泊まりしているのは、兵士宿舎。生家も城の敷地内にあるので、彼女を匿うのは不可能。
旅人向けの宿もだめだ。旅人なら旅券を、国内に住むなら身分証を提示せねばならない。
(身分証、か……)
身分証は、名前と生まれた年と日、性別くらいしか記されていない。偽造こそ不可能だが、他人の物を自分の物として偽ることなら可能だ。
(どうする……?)
道は一つ。
「姫様。休む場所――拠点を得るには、身分証が必要です。どうか、こそ泥となるわたくしめをお許しいただきたい」
「私のために罪を犯すのは、さぞ心苦しいでしょう……。ですが、それしか方法が無いのなら……」
姫は頷き、炎に揺れる夜空から少しでも離れるため、再び手を取った。
火事場泥棒、とはこのことだろう。人がいる家には明かりがつき、反乱の趨勢が決するのを待っていた。逆に明かりが無い家にはまるで気配がなかった。
戦音がよく聞こえる家を狙って、裏に姫を待たせた。扉の鍵を壊し、家を乱暴にまさぐっていく。
金貨を見つけ、それも袋に捻じ込む。ヘローベも姫も、無一文だ。
やがて……目当ての身分証を見つけた。姓はイデーア、自分たちより少し年上の夫婦だ。これならごまかせるだろう。
「姫、上手く行きました。しばらくはこの名で過ごすこととなりましょう」
「いつか……この証も、金貨も、返せる日が来るように……」
姫がイデーア夫妻の家に祈りをささげた。
城からなるべく離れた宿屋を訪ね、疑われることなく部屋へ通された。万が一のために一晩中見張りについておくつもりだったが、ベッドに腰かけた瞬間、闇に襲われた。
反乱は、成功したそうだ。反乱ではなく革命と名前が付き、暴君であった王の首は刎ねられた。
家を失い、職を失い、名を失い、居場所が失われ――それでも、ヘローベにとっては夢のような日々だった。
ヘローベは姫を得たのだ。亡国の姫を守る騎士という身分を得たのだ。
城下町もお祭り騒ぎだった。理不尽な税は廃され、人々は好きに集まって好きなことを話し、笑顔と開放感に溢れていた。
一刻も早く職や家を探さねばならないが、イデーア夫婦として姫と過ごすという誘惑に打ち勝てなかった。
「あなた、この大きな果実は?」
「それはカボチャです。きっと一口大に切った物だけしか見ていないのでしょう」
「まあ、カボチャとはこれほどまでに大きな果実でしたのね」
姫はもの知らずだった。姫がヘローベにとっては当たり前の物について質問して、ヘローベは姫に当たり前のことを答える。それだけがどんなに幸せか――。
この時がいつまでも、何年も何十年も、死ぬまで続けばいいのに――。毎夜願い、次の朝日を迎え姫の顔を見るたび感謝した。
この幸せは、あっけなく、壊れた。
宿を取って五日目。女将に声をかけられたので、部屋の扉を開けると。
「姫様逃げてくださいッ!」
新しくなった王国の紋章をつけた、兵士が詰め掛けてきた。
「旧王軍のヘローベ二等兵だな。王国要人を匿った疑いで捕らえる」
ヘローベは抵抗した。少しでも姫が逃げる時間を稼ぐために。ちらりと振り返ると、姫の姿は無い。上手く脱出できたのだろう。駄々をこねる子供のように暴れ、やがて大きな衝撃と共に意識が飛んだ。
冷水をばしゃりと浴びせられ、意識が覚醒する。
後ろ手に縛られ、椅子に括りつけられていた。
「貴様。アウラ姫と懇意にしていただろう」
「……」
嘘は苦手だ。下手に嘘をつくと真実の影を見せかねない。ヘローベは黙秘する。
「アウラ姫はどこにいる?」
「……」
まだ見つかっていないのか。心の中だけで安堵のため息を吐いた。
「こう訊ねた方がいいか。アウラ姫とはどこで会っていた?」
「……」
この尋問官は何を聞きたいのだろう。
「種は割れている。貴様はあの日、我が軍に所属する夫妻の家に盗みに入った。金と夫妻の身分証を取り、それを使い宿暮らしだ。いい身分だな」
イデーア夫妻が革命当日に留守だったのは、夫婦ともに反乱軍に所属していたからだったらしい。
尋問官は意味不明なことを宣いだし、ヘローベは無表情で聞き流す。
「――から、姫はそこから動いていないはず、動けないはずだ。さあ、どこにいたのだ?」
「……」
姫が危機に陥っているのか。どこかで、ヘローベの助けを待っているのか。
だとするなら、少しでも時間を稼がねば。決意を胸に、口を引き結んだ。
窓の無い密室で、時おり意味不明な質問を交えながら、尋問は続く。次第に時間の感覚は麻痺していった。
やがて――どれくらいかは分からない――誰かが入ってきて、尋問官に耳打ちする。
「やっと見つけたそうだ。すぐばれるものを、手間をかけさせるな」
「姫が……!?」
「ああ、その通りだ」
「どうか、命だけは、姫様の命だけはお助けください!」
「それを俺たちが聞くかは、お前が一番知っているのではないか?」
にやにやと笑いながら、席を立つ。
「こいつは?」
「釈放だ。この程度の小物にかまっている余裕など、我々には無い」
ヘローベの必死の助命嘆願をうるさそうに払い、枷を外され城から放り出された。
―*―*―*―
それからの日々は、虚ろだった。姫の死亡が発表されたものの、首をさらされはしなかった。それだけがヘローベにとって救いだった。
ただ、姫のことを考え、姫と過ごした幸せな五日間を想った。暇があればなぞり、姫の声を頭に響かせ、姫の体温を握りしめた。
たった一つ、姫の表情は憂いたままだった。何度も何度も、その微笑む口、驚く目、幸せに笑う頬を何度も何度も思い出そうとしたが、憂い顔の彼女に塗りつぶされる。
「いつになれば、憂いは晴れるのでしょう?」
憂い顔の彼女に問いかけて、問いは、己の心は、彼女が纏う虚ろに飲み込まれた。
虚ろへと問い続けて、そして、今――
「姫様……ああ、ご無事でよかった」
すっかり老人となったヘローベの前に、その時のままの姫が振り返った。
「ええ、あなたのお陰です。ヘローベ」
数十年の間渇望し続けた声、しぐさ、香り、ぬくもりが。
彼女の微笑みが、そこに在る。
「あなたをずっとお待ちしていました。さあ、早く――」
ヘローベは、手を、取った。
―*―*―*―
「例の老人、死にましたよ」
「最期くらい迷惑はかけなかったか?」
「いえ、通報した女性が、訳の分からないことを言われたそうです。そして、ブツブツ何事か言った後、湖にぼちゃん」
「なるほどな。騎士ごっこは最期まで、か」
ヘローベの名前が記された書類に大きく、死亡、と役人は書いた。
「あの老人、結局なんだったんですか?」
「それは私も聞きたいくらいだ。事実としては、旧王国アウラ王女の最期を目撃したこと。その後錯乱して逃げたこと。錯乱は現在までどうやら続いていたこと」
「捕まえた時のことは、噂で聞いてます。腐った腕を後生大事に抱えてて……宿の女将が異臭で通報して居場所が分かったんですよね」
「らしいな。人間とは分からん」
報告した兵士が大げさに嘔吐き、役人は深くため息を吐いた。
「王女さまの最期も、謎ですよね。なんであんな場所にいたのかって」
「当時の兵によると、足しげく通っていたそうだ。そこの見回りが、あの老人だった」
「もしかして……お姫様は、あの老人に会いに……!?」
「さてな。そんな結末ならあのじいさんは喜ぶな」
役人は棒読みで答え、ヘローベの書類をまとめて棚の奥深くに仕舞った。
亡き王女のために…… しろ茶とら @hazuki_sirochatora
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