猫カフェ

寿 丸

猫カフェ

 先日、猫カフェなる場所に行く機会があった。


 これは私が行きたいからではなく、猫を飼う機会を得られない娘を思いやってのことだった。誕生日も近かったし、少しでも猫を飼いたいという気持ちが和らぐならばそれもいいだろうと思っていたためである。


 事実、娘は喜んでくれた。朝から鼻歌を鳴らしているのが、自室からでも聞こえてくる。そして部屋から出てきた時には、毛のつきにくい服装をしていた。どうやら私のように手で撫でるだけでなく抱っこしたりするつもりなのだろう。私はいつも通りジーンズにジャケットという服装で、娘から目を細められてしまった。


「お父さん、そんな恰好でいいの?」

「そんな恰好って。猫カフェに行くのにそんなに改まった服装が必要なのか?」

「別に」

「じゃあ、いいじゃないか」


 娘は口をへの字に曲げた。なおも不満があるらしいが、「ま、いっか」と肩から下げたポーチの中身を確認していた。私は中にパッケージに包まれた消毒液があるのを発見し、この日のために買ってきたのかと多少は呆れた。


 おりしも今は感染症の時期だった。


 街を歩けば誰もがマスクをしている。電車内で席についている人たちが一列で、マスクをつけているのはなんとも異様な光景だ。ひと昔前はスマホをいじって並んでいるのが、今度はマスクに切り替わった。私も娘もマスクをつけている。これで猫もマスクをし出したらそれこそ笑い話になるだろう。


「お父さん、何を考えてるの?」

「何をって。何も」

「突然猫カフェに連れていこうかなんて。裏があるんじゃない?」


 ひどい言い草である。私は娘を気遣って一緒に行こうと思っただけだ。それは夏休みに親が子供を海に連れていくような感覚に近い。やたらにフラストレーションを溜め込まれるよりはその方がストレス解消になるだろうと思っていたのに。


 裏なんかない、と私は言ったが、娘は信用してくれなかった。


 猫カフェのある駅につくと、娘は早速スマホを取り出した。地図アプリで検索を始め、「こっちこっち!」と私の袖を引っ張る。なんだかんだ言いながらも結局行きたかったのではないかと、私は再び呆れた。


 大通りからわき道にそれ、それから歩いて五分ほど。「あ!」と真っ先に娘が声を上げ、いきなり駆け出した。見ると、道の脇に看板がある。猫の写真がでかでかと掲載されてあり、その下には店の名前があった。


「お父さん、ここ、ここ!」

「わかっているよ」


 娘はすっかり興奮していた。きょろきょろと周囲を見回し、手近なビルに入り込んでいく。仕方なく私も後を追った。


 娘と私はエレベーターに乗り、店のある階まで上っていく。しかし、辿り着いた先は無機質なフロアがただ広がっていた。左右に首を振っても、猫カフェなるものがあるようには見えない。


「あれ……?」

「んん?」


 私と娘は顔を見合わせ、それから娘のスマホに目を落とした。店の場所と現在地とが食い違っている。どうやらひとつ隣のビルだったらしい。すると娘は顔を真っ赤にし、「もー!」と声を荒げた。


「なんでお父さん、気づかなかったの! とんだ赤っ恥じゃない!」

「お前が気づかなかっただけだろうが」


 気を取り直し、私と娘はひとつ隣のビルに入った。今度は看板とビルの名前をしっかり確認し、エレベーターにも店のパネルがあるのを見つけた。先ほどのぷりぷりした表情はどこへやら、娘は今度はうきうきしている。こういう風に感情をさっと切り替えられるのは、十代の特権だろう。


 エレベーターを上がって右側に、猫カフェがあった。白い壁でしつらえた受付の後ろに、ガラス張りの空間が見える。当然のことながら数匹の猫も見かけた。すると「わぁ」と娘が声を漏らした。


「猫が、猫がいっぱいいる……!」


 娘はすぐに飛び出そうとして――私は肩を掴んで引き留めた。むっと振り返る娘に、私は足元を指さした。私と娘は当然のことながら土足だ。そしてここは土足厳禁という札がエレベーターのすぐ目の前に貼ってある。あ、と娘は目を丸くし、ばつが悪そうに靴を脱いだ。私もそれに倣った。


 靴を脱いだ後は専用のロッカーに入れ、スリッパに履き替える。それから受付に赴き、手続きを済ませる。もちろん消毒液を手に吹きかけるのも忘れない。


 私が感心したのは、スリッパも抗菌仕様になっていることだ。使用済みのスリッパは専用のケースに入れ、そこで消毒する。スリッパひとつにもここまで気を遣っているのは単純に感染症対策というだけではなく、猫に病気が移らないことへの配慮だろう。猫カフェというだけあって、徹底している。ここでは猫が王様らしい。ここに勤めている人々はさしずめ家来で、私たちは良くて賓客、せいぜい来客といった具合か。


「猫ちゃんたちが怯えないように、扉は静かに開けて下さいね」


 はい、と娘は受付の人に元気よく答えた。カラオケボックスでもらうような小ぶりのファイルを受け取り、私と娘はいよいよ本城(例えがおかしいかもしれないが、なぜかしっくりくる)へと赴いた。


 娘はガラス張りの引き戸をそうっと開けた。「うわっ」「ほう」と二人で感嘆の声を上げたのは親子所以なのかもしれない。


 空調のきいた空間の中、十数匹は超える猫がそこかしこに寝転がっては気ままに歩いている。壁には本棚やゲームが設置されており、猫が遊びやすいように柱に足場もつけてある。クッションつきの椅子のみならず、ハンモックさえある始末だ。客人たちは猫じゃらしを手に、王様と一緒に戯れているといった具合だ。中には本を読みながら、猫の背を撫でている、優雅なひと時を楽しんでいる女性の姿もある。


「猫がいっぱい……」


 娘はすっかり我を忘れて目を輝かせていた。「飛びついたりするなよ」と一応注意をしてみたが、耳に入らない様子だ。すると一匹の細身の黒猫がたたたっと歩いてきて、娘の足の間を通り過ぎていく。はぁあ、とそれだけで娘はご満悦だ。その黒猫の後を追いかけていくと、彼(彼女?)は机の下の小さな穴に潜り込んでいった。なるほど、この先は猫専用のスペースということらしい。


 娘は一瞬落胆しかけたが、すぐに別の猫に目移りした。今度は柱の足場で座り込んでいる猫だ。ふわっとした毛並みで、遠目からだとまるで毛玉である。娘はためらいなくその猫に近づき、おそるおそる手を伸ばしてみた。猫は逃げる様子もなく、娘の手に触れられることを許可した。わぁ、と娘は今度こそ悲喜こもごもの吐息をつき、毛並みの感触を堪能している。その猫はしばらくされるがままになっていたが、次第に飽きてきたのか、立ち上がって足場からさっと降りていった。


 娘は手を震わせ、「あったかい……」とつぶやいた。

「いいなぁ、猫。私、こういう場所で暮らしたい」

「世話が大変だろうがな」


 きっと娘が睨みつけてきたので、私は素知らぬ顔をした。こういう場所で現実的なことを言うのはナンセンスだと言わんばかりだった。ふん、とわかりやすく鼻息を立て、娘は次に小さな筐体を発見した。いわゆるガチャガチャというやつで、猫の餌が一回百円で入っている。


「へぇ、猫の餌……」

 言いながら娘はポーチから財布を取り出した。迷いなくガチャガチャを回し、カプセルから猫の餌を取り出す。ビニールのパッケージに包まれていたそれは明るい茶色で、クッキーと言われても通じそうなものだった。


 娘は試しにその猫の餌を手にして、足元に寄ってきた(これもまた明るい茶色の)猫に差し出してみた。すると猫は娘の手から餌をもぐもぐと食み、食い尽くしたところでその場に座り込む。もっとくれ、ということなのだろう。すっかり気を好くした娘は残りの餌を全部、その猫に与えた。


「可愛いなぁ……」


 すっかり気に入った様子の娘を見、私はひとまず胸をなで下ろした。娘に喜んでもらうのが第一の目的だったから、果たせてよかった。


 さて、ただぼんやりと立ち尽くしているだけでは時間と金がもったいない。私はそれとなく店内を歩き回り、色々な猫がいるなと当たり前のことを考えた。細い猫、太い猫、よく動く猫、じっとしたまま動かない猫、人によくなつく猫、あまりつれない猫……ひと口に猫といっても様々なタイプがいる。人間もそうなのだから猫だってそうだろう、と私はこれまた当たり前の感想を抱いた。しかし、こうして多くの猫を一斉に見るのはほとんど初めてに近い経験だから、そういった感想を日常で抱くのはなかなか難しいかもしれない。


 他の猫も見たくなったのか、娘もうろうろと行動を始めた。私と同じように適当にぶらついて、目に入った猫をじっと眺めてみる。娘は積極的に写真や動画を撮り、私はそれとなく椅子に座ってみた。すると机の上——目の前を猫が通り過ぎていく。賃貸ではまずお目にかかれないだろう。


 不意に私は背中の辺りがむずむずしてきた。いかんな、と反射的に首筋を掻いていた。ここにずっといると、猫を飼いたいという気持ちが強まってしまう。猫カフェに娘を連れていけば満足するかと思ったが、その反対になってしまった。娘よりも私の方が猫を飼いたくなってしまっては意味がない。


 ふと、腕時計を見てみた。入店からいつの間にか二十分も経っている。あっという間だ。十分おきに料金がかさんでいくから、一時間も経つと馬鹿にならなくなってくる。


 私は娘に近づき、「あと十分ぐらいで出るぞ」と言った。屈んでいる娘は肩越しに振り返り、ええ、と言いたげな顔をしている。私は腕時計を見せてやり、娘はそれに気づいた様子で自分の腕時計を見た。


「え、まだ五分しか経ってないと思ってたのに」


 それは時間の感覚が狂いすぎだろう。そう思ったが、私も娘のことを言えない。体感的にはまだ十分しかいていないような気がしていたのだ。


「好みの猫を探したらどうだ」

「でも、他のお客さんに取られてるし……」


 恨めしげに猫と戯れている他のお客さんを見つめている。それはしょうがない。


 娘もそれはわかっているらしく、残された時間を楽しむようにあちこちの猫に触れては写真を撮っていった。私も適当な猫をつかまえて、触ったり撫でたりしてみた。ネコスケと違って、つれないところがない。気取っているところもない。愛くるしい、とはこういうのを言うのだろう。


 やがて時間が来た。私も娘も名残惜しく、その場を離れた。受付で清算すると、なかなかの金額になった。使用済みのスリッパをケースに入れ、ロッカーから靴と荷物を取り出し、私たちは猫カフェから退店した。


 ビルから出ると娘はぐいっと背伸びした。


「はぁ、満足満足」

「そうか。それは良かった」

「ありがとうね、お父さん。連れてきてくれて」

「いや、俺も楽しめたから良かった」

「そうなの? お父さん終始しかめっ面していたから、あんまり楽しくないんじゃないかって思っていた」


 それはいくらなんでも穿ちすぎだろう。顔が固かったとすれば、猫を触っていて頬がほころぶのを堪えていたからに過ぎない。


 帰りの電車では娘は写真や動画に夢中だった。「これなんかどう!?」と娘なりのベストショットを見せつけてくるので、「いいんじゃないか」「可愛いな」と返す。実際、その通りだった。娘は十代の少女らしく、撮り方に異様にこだわっていた。ただ猫の顔や全身を映すだけでなく、アングルにも光彩にも気を遣っている。私にはできない芸当だ。


「後でアップしとかないと。やっぱり、これかなぁ。でもこれも捨てがたい。いやぁ、迷っちゃうなぁ」


 むふふ、と気持ち悪い笑い声を漏らす。この声が他の乗客に聞こえないことを、私は内心で祈っていた。


 帰り道――ててて、と歩いているネコスケの姿を発見した。「あ、マロン!」ととっさに娘が走り寄っていったが、マロン――もといネコスケは当然のことながら、さっと逃げ出してしまった。「あ、待ってマロン!」と追いかけるも、ネコスケの姿はもうどこにもない。どうやら娘はまだ猫カフェモードから戻れていないようだ。


「ああ、マロン……」

 ため息をついている娘の肩を、ぽんと叩く。


「やっぱ、猫カフェのようにはいかないよね」

「まぁ、そうだろう。あそこにいる猫は人間に慣れている様子だったからな」

「赤ん坊の頃から世話しているのかな?」

「たぶんな。ああいうところがペットショップから取り寄せてくるとは考えにくい。実際、里親募集の貼り紙もあったし」

「え、そうだったの? 気づかなかった」

「お前はもう少し、周りを見るといい」


 ぷう、と娘は頬を膨らませた。お父さんに言われたくない、と肩を怒らせながら家へと戻っていく。


 やれやれ、と私はため息をついた。すると、細い路地からネコスケが不意打ちといわんばかりに現れた。基本的に猫は同じルートを通らないものだと思っていたのだが、今回は違うのだろうか。


「元気か、お前」

 屈みこんで尋ねてみる。ネコスケは動かない。どこか眉間にしわを寄せているようにも見える。ふらっと手を伸ばしてみるが、ネコスケは器用にその手をすり抜け、私の膝に頭突きを食らわせた。その一発で気が済んだのか、ネコスケは私の横を通り過ぎて行ってしまう。


 どうやら浮気をしていたことがバレたらしい。


 私はつい、苦笑してしまった。

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