カッパ入院中 下
明日の透析を終えたら、明後日は退院だ。少しずつ、菜々実は荷物をまとめて準備している。帰りの服は来たときと同じ、Tシャツにパンツ、ロングのコート。今が冬で良かったと思う。これからはいかに暑くても、左腕を隠す長袖が必要になるらしい。動脈血を流し続けると、静脈は変形する。柔らかい皮膚の下をうねる、長虫のような静脈に。
もともと太い腕だからなあ。わざわざ見せたいわけでもなし。
ノースリーブやキャミソールより、菜々実に似合うのは着ぐるみだろう。昨日の夫との電話を思い出し、ちょっと笑った。
「着ぐるみ、お子様たちにうけてたよ。でもさ、どうせなら外に着ていける服が欲しかったなあ」
「着ていけばいいじゃない、着ぐるみ」
あんたがそういう男だってことは、よくわかってたよ。
諦めとおかしさをかみ殺して、菜々実は会話を終わらせた。
午前中、キンちゃんはリハビリでいない。暇をもてあました菜々実には、散歩くらいしかすることがない。
テントウムシ。いや、危険防止のためにはカッパか。
どんな迂闊な人でも、カッパならば避けてくれる。菜々実の心は決まった。
蛍光黄緑のカッパに変身して、長い廊下を手すり伝いに一往復したところで、小さな声がカッパを呼び止めた。
「カッパしゃん」
「コーちゃん?」
返事の代わりに、パタパタと小さな足音が駆け寄ってきて、温かな重みが菜々実の腰に飛びついた。
「どしたの。美咲ちゃんは一緒じゃなかと」
「けんさ」
美咲よりちょっと小さい体は、抱きついたまま離れない。なんとか宥めてしゃがみこんだ菜々実に、コーちゃんはさらにしがみついた。
傍らを散歩する誰かの足音。検査の順番が来たと告げる声。車いすのきしむ音。何かのアラーム。
いつもの病棟の朝だ。
その片隅で、小さな男の子と蛍光黄緑のカッパが、動きを止めて抱き合っている。傍から見れば、さぞや非現実的な光景だろう。
「ぼくも、あさってけんさ」
「そうか」
「しんぞーのかてーてる」
「うん」
「ぼく、がんばりますっちゆうたけど、ほんとはやだ」
小さな声はかすれている。
「ほんとは、くすりも、ちゅうしゃも、てんてきもいや。だけどっ」
カッパの腕の中で、小さな子が、声を殺して泣いていた。
「がまんしないと、ママがなきそうなかおすると」
だから母親には言えない。言わない。
この子が胸の中で押し殺しているものは、菜々実と同じものだ。
ああ、カッパになら弱音を吐いてもいいよね。ママには言えない泣き言を言ってもいいよね。
なにせ、カッパだから。本当は、いないはずの生き物だから。
それから菜々実は、しばらくの間、小さな勇者の涙を隠していた。
コーちゃんが落ち着いてから、二人で手を繋いで散歩した。
「カッパもねえ、明日は透析なんよ」
「とーせき、いたい?」
「痛いよぉ。ふっとい針をぶすっとね」
「うわあ、とーせきいたくても、カッパしゃんないたらだめばい」
「コーちゃんもね」
小児病室の前まで来ると、「ありがとうございました」と声を掛ける人がいた。声は潤んでいた。
「ママ」
振りほどかれる小さな手。手のひらに小さな空白ができたようだった。
「カッパしゃん、バイバイ」
すぐに母子の声は離れていき、菜々実はまたも手を振り損なった。
退院の日には、早朝から夫がやって来て、様々な手続きと書類書きに勤しんだ。こういうとき、菜々実はまったくの無力だ。
キンちゃんが寄ってきて、「やっとダーリンのもとにおかえりですな」と、中年男のようなぐふぐふ笑いをもらしながら、肘で菜々実の脇腹をぐりぐり突いた。
「じゃあ、僕は荷物を先に運んどくから」
「あ、待って」
立ち上がる夫を制止して、菜々実は大きなゴミ袋の中から、カッパの着ぐるみを取りだした。
「着るの」
「うん」
外出着の上から着ると、カッパは、少しごわごわした。
夫が改めて立ち上がると、「すぐ来る」と言い残して出て行った。
「カッパさん、うちも来週退院ばい」
「そりゃ良かった」
「うん。右手の中指と人差し指が、ちょびっと動くようになったけん、リハビリしながら、左手一本でできる仕事探す」
「うん、いいね」
お互い、「がんばって」は言わない。そんなこと、当たり前だ。がんばらないと生きていけない。
戻ってきた夫と、ナース・ステーションに挨拶に行った。クリステルさんをはじめとする看護師たちは、カッパとの別れを惜しみつつ、喜んでくれた。
透析室には昨日、挨拶を済ませた。トムは、これから菜々実が透析を受けるクリニックの心配をしていたが、レオ様は「職場の潤いがなくなりますねえ」とぼやいていた。蔵之介には会えなかった。
エレベーター・ホールにキンちゃんと子どもたちが来ていると、夫が耳打ちした。
「みんなで、お見送りに来たばい」
「カッパしゃん、お家帰ると」
「カッパしゃんのお家、どこあると」
口々に問う美咲ちゃんコーちゃんに合わせて、菜々実はその場にしゃがみこんだ。そっと抱きついて、小さな手がぺたぺたと、皿や甲羅を触る。
この病棟ではもう、日常風景だ。
「カッパだからね、川に帰るんよ」
「カッパしゃんのお家、川にあると」
「そうだよ」
少し大きな手が、そっと甲羅を押して、菜々実を立たせた。
「うちら、カッパさんと一緒で楽しかったばい」
「カッパも楽しかったよ」
患者同士の別れでは、「またね」と言わない。
キンちゃんも子どもたちも、言わなかった。
「カッパしゃん、バイバイ」
「カッパさん、バイバイ」
エレベーターの中で振り返り、菜々実は両手を振った。
「ばいばい」
扉が閉まった。今回は間に合ったらしい。両手を下げると、菜々実は俯いた。
「カッパさん、大人気じゃないか」
こういうときは、カッパの顔が、菜々実の顔を隠してくれる。
菜々実自身がもう、見ることのない顔を。
かすかな振動と共にエレベーターは止まり、菜々実は夫に背中を押されてホールに出た。
いつものように大きな手が皿を撫でる。
「さあ、帰るよ。カッパさん、手ぇ出せ」
「はい」
差し出した左手を、大きくて硬い、しかし温かい手が、包み込むように握った。
今の菜々実には、この手が世界のすべてだ。
この人は、菜々実がカッパになってもこの手を放さず歩いてくれる。だから、菜々実もこの人と並んで歩き続ける。
そしてカッパはその手に引かれて、外の世界に出た。
カッパ入院中 津野 栄 @lefty6829
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