カッパ入院中 中

 透析導入は手術から始まる。

 手首を切開して、静脈と動脈を吻合する「シャント手術」だ。体表面に走る静脈に動脈血を流し、浅く刺しても十分な血液量が得られるようにする。動脈に直接穿刺するのは、場所が限られるし深いのでとてつもなく痛い。

 菜々実がその手術を終えて部屋に帰ると、待っていた夫が、今から仕事に戻ると言った。

「何か必要な物あったら電話して。来るのは週末になるけど」

「うん、ありがと」

 研究職の夫はいつも忙しい。時間が何より惜しい男が、菜々実のためにこうして半日潰してくれた。だから引き留めない。

 いつものように頭をひと撫でして、夫は去っていった。

 さて、と手術着のままベッドに腰を落ち着けてから、菜々実はしばしぼんやりとしていた。

 手術はトムが担当だった。内科医も手術するんだなあと、変なところに感心した。

 大過なく手術も終わり、明日からは透析の日々だ。針刺しが痛いの事後が苦しいのと、様々な脅しを受けている。おまけに昨日連れて行かれた透析室では、どうやっても森本レオとロッテンマイヤー夫人の顔しか思い浮かばない声の二人が待ち構えていて、菜々実は勝手にがっかりした。

 とりあえず寝よ。

 手術跡の傷口は五センチくらい。縫い目の上から透明フィルムが貼られている。よほど捻りでもしない限り、たいして痛まない。

 いつもの慣れた調子でパジャマに着替えるべくロッカーを開ける。

 そこで菜々実は固まった。

 目の代わりに手を触角のように使うことを覚えて久しいが、残念ながら菜々実の手には、今自分が触っているものが何なのか、まったくわからなかったのだ。

 パジャマよりはるかにかさばる滑らかな表面。引き出してみたいのは山々だが、物体の全容がわからない以上、うっかり落としでもしたら使用不能になってしまう。菜々実の手は、眼球の保護のために常に清潔にしておかなければならないから、なるべく不潔なものは触りたくない。

 こういう時はお助けコール。ナースコールを押すと、「畑野さんどうしました」と担当看護師がやってきた。

 あ、クリステルさんだ。知的で滑舌のよい喋りをする彼女は、菜々実のお気に入りである。きっとこの事態をすっきり収めてくれることだろう。

「着替えようと思ったんやけど、パジャマがなくて」

 出しますよ、とクリステルさんはロッカーをごそごそと探った。

「ベッドの上に広げてもいいですか」

「あ、どうぞ」

 どうやらかなり面積があるらしい。無理をして取り出さなかった自分を褒めたい。

 やがて、クリステルさんは結論を告げた。

「これはパジャマです。三枚あります」

「え、でも、私の用意したのと違(ちご)うとります」

「たぶんご主人でしょう。段ボール箱持ち込んどりしゃったけん」

 そこでクリステルさんはひとつ息をついた。少し声が震えている。

「着ぐるみです。蛍光黄緑のカッパと水色のカバと頭にお花のついたテントウムシ。どれにしますか」

 それじゃあカッパで、と菜々実は着替えを手伝って貰い、蛍光黄緑のカッパに変身して寝た。

 ああ、クリステルさんは笑うの我慢してたんだな、とか、洗濯するときかさばるなあ、とか、色々なことをつらつらと考えたが、なぜカッパで、なぜ着ぐるみなのかという根源的な問題は、頭が考えることを拒否した。



 げはははは。キンちゃんは遠慮なく笑い、菜々実も付き合って笑った。

「それでおとなしく、今でも着ぐるみ着とんしゃると」

「他に着るものないもんね」

「週末に来た旦那さんに文句ば言わんかったん」

「あの『どう? どう? 楽しかった?』って耳立てて尻尾ぶんぶん振っとるわんこに抵抗できると思うん」

 思わん、とキンちゃんはまた爆笑した。

 その後、看護師たちによる朝の巡回にて「畑野さん、本日はカバです」「はい、『畑野さんカバ』」と申し送りされる話や、廊下の手すりを伝って散歩していると、前日にまったく悪気無く行く手を阻んでいたおじさん連中が、「うおっ」とか「うわっ」とか叫んで道を開けてくれた話、透析室で体重管理のために、毎度毎度着ぐるみの重量を実測される話など、キンちゃんの喜びそうなことを、話術の限りを尽くして語り、彼女をひきつるほど笑わせた。ささやかな娯楽提供である。

「透析室はねえ、ベッドがずらっと並んじょるんやけど、そこにおじさん、おばあさん、おばあさん、おじいさん、カッパ、おばさん、おばあさん、て並んどるんがおかしいっちトム先生が笑い転げて…」

「あひゃひゃひゃひゃ」

 よし、とどめだ。

「週末に来た父ちゃんは、一眼レフで着ぐるみの撮影会を…」

「うひい」

「『いいねえ、あ、皿と甲羅いっしょに撮りたい。体捻ってこっち見て』って、見えんっちゅうに」

 キンちゃんは変な息をしながら悶絶していた。菜々実は満足した。

 長い入院生活において、病気や怪我の人間が心の底から笑うことなどない。みんな不安を隠したまま何とか波風立てまいと、当たり障りのない話をしながら生きている。

 難しい症例や救急患者ばかりの、総合病院なら尚更だ。

 夫が着ぐるみを仕込んでいったのは、案外そういう生活の妻を思いやってのことだったのかな、と菜々実は彼を見直しかけた。

 いや、きっと新しいパジャマを買いに行って、蛍光黄緑に飛びついたのだ。それでも、楽しいことには変わりないからいいか。

 理知的な見かけに似合わずお茶目な夫の顔を思い浮かべ、菜々実はこっそり彼に感謝した。

「うちなあ、右手が動かんち聞いたとき、こう見えて結構落ち込んどったんばい」

「初日からパワフルやったけど」

 あっはっはぁ、とキンちゃんは笑い飛ばした。

「そりゃ、空元気たい。ほんとはもう、どうしていいかわからんで、どうなるんか不安で、泣きそうやったと」

 視力を失ったときの菜々実と同じだ。周囲にその不安を悟られまいとするところまで似ている。

「だけど、カッパがおったんよ。病院の中に、ありえん色のカッパがおった。おまけに、カッパは目も見えん、一生続く透析にひいひい言いよるのに、生きとるのが楽しそうやった」

 そうだったかな。菜々実には覚えがない。とにかく毎日が必死で、生きてるだけというより、死なないだけで精一杯だったのだ。

「私も空元気だよ。昨日までできてたことが、なぁんにもできんごとなると。毎日毎日、役立たずの自分と向き合わんとならんとよ。流れの速い川で流れに逆らって真ん中に立って、拳を握りしめて必死にがんばっちゃってる感じ?」

「うんうん」

「前のめりになってないと、どこかに流されていっちゃう。どっか遠い、怖いとこに沈んでいくんよ」

「カッパの川流れ」

 それだ。二人は声を揃えて笑った。ひとしきり笑ってから、菜々実はキンちゃんの方を見た。見えないけれども、キンちゃんが真面目な顔をしているのはわかっていた。

「流された先に、父ちゃんがおらんこともわかっちょったけんねえ。それがどうにも耐えがたかったんよ」

「あーあ、ごちそうさま」

 キンちゃんは勢いよく立ち上がると、あたしもいい男捜すぞーっと、病院に不似合いな気炎を上げた。

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