カッパ入院中

津野 栄

カッパ入院中 上

 刺しますよ、と柔らかい声が言った。続いてビリビリした痛みが露わにした左腕に走る。

 うおう、今日のレオ様、いつにもまして容赦ない。

 菜々実はぎっちりと両の拳を握りしめる。口には出さないが、心の中は悪口雑言罵詈讒謗の嵐である。何しろ、あと一本、針刺しは残っているのだ。ふとん針のような太さと長さの針が、左腕の内側の柔らかいところにぶっつり刺さるのを思い浮かべげんなりする。

 ちなみに「レオ様」はレオナルド・ディカプリオではなく、森本レオの方だ。柔らかい声がそっくりで、菜々実は初日に命名した。

 しかし、レオ様は意外にサディスティックで、いつも狙ったように痛点を刺してくる。ただでさえ憂鬱な透析の始まりには、あまりありがたくない相手だった。

 顔を見たら、声の印象も違ったものになるのかもしれないが、生憎と菜々実には顔はおろか、背格好すら見えない。かろうじて声で男女の区別ができるくらいだ。だいたいの年齢も分かるからまあいいか、と思う。

 失明したその日から、菜々実にとっての他人は、手と声だけの存在になってしまった。

 透析中は五時間まったく身動きができない。だから見えないのをいいことに、自分の世話をしてくれる看護師や技師は、菜々実の脳内で勝手に美男美女に設定されている。そうすると長い透析も、色々と妄想して楽しむことができる。

 たとえば、菜々実の透析導入を決定した若い医師は、明朗な調子で話すさわやか青年で、脳内命名はトム・クルーズになった。その上司のむっつり部長は佐々木蔵之介だ。そうすると、少々痛いことをされても、「いいの、それがトムの愛なら耐える」となる。これは声に多少の違和感があっても、妄想力で思い込めた。

 だが、レオ様だけはどうやっても森本レオの顔しか思い浮かばなかった。

 もう一本の穿刺を耐え、ほっと一息ついていると、レオ様がやはり柔らかい声で確認してくる。

「畑野さん、今日はカッパなので八百グラムですね」

 そうだ、と告げると、レオ様の声が少し近づいた。トーンを落としたささやき。

「じゃけんど、なんでそげな格好しとんしゃると」

 それは夫に訊いてくれ。菜々実は苦笑いした。


 失明してから、何度か両眼を手術した。その度に入退院を繰り返し、菜々実はすっかり入院生活のプロになっている。日頃から、入院生活に必要なものの準備も怠りない。

 パジャマは三枚。タオル五枚にバスタオルは二枚。下着は多めに十枚ずつ。湯飲み、カーディガン、クロックス、全身シャンプー、歯磨きセット、液体洗剤、洗濯ネット、ペーパータオルにウェットティッシュ、あとビニール袋ゴミ袋も忘れてはならない。それから、テレビカードのための千円札が何枚か。

 これをパッキングから取り出して、ベッドサイドのロッカーやオーバーテーブルに自分で配置するところから菜々実の入院生活は始まる。

 あとは担当看護師との面接で、「物の位置を変えてくれるな」「身の回りのことは自分でするが、声は掛けてくれるとありがたい」などと菜々実自身の取り扱い説明をするだけである。

 今回の入院は慣れた眼科病棟ではなく、腎臓やら肝臓やら、たまには溢れてきた整形等々。雑居房のようなバラエティで、同室の人の入れ替わりも激しいものだった。

 その中で、「特別な配慮」をしてもらっている菜々実は、牢名主のような存在になっている。

「カッパさん、さっきコーちゃんと美咲ちゃんが探しとったばい」

 疲労困憊して透析から帰ってきたら、さっそく向かいのベッドのキンちゃんが元気に話しかけてきた。

 キンちゃんは整形の患者で、右肩の開放骨折という、なんとも痛そうな状態で救急に運び込まれたという。菜々実の知る限り、隣の小児病室の子どもたちを除けば、最年少だと思う。

 「カレシと二ケツしとったら事故ったんよ」「右手は元通り動くかわからんち言われた」「カレシかすり傷やったけど逃げた」と、マシンガントークであけすけに事情説明してくれた、なかなかの豪傑だ。

 名字が遠山だからキンちゃん。ありがちである。

「遊びに来たんかな」

「んー、あんま楽しそうな顔やなかったと。コーちゃん、ちょびっと泣いとった」

 いつも菜々実にまとわりついている二人は、たぶん小学校低学年か年長さんくらい。カッパの皿や甲羅、カバの尻尾、テントウムシの触角や星をぺたぺた触りまくっては、きゃっきゃと何が楽しいのか笑い転げる。

 抱きついてくる小さな体を抱き留めると、高い体温がじんわり染みる。菜々実にとっては、数少ない「手」と「声」に「実態」のある相手だった。

「あ、カッパしゃん帰ったと」

 高い声。ベッドに座った菜々実の膝に飛びついてくる小さな体。頭を撫でてやると、ツインテールがぐりぐりと腹に押し当てられた。

「美咲ちゃん、コーちゃんはどしたの」

 相棒のことを尋ねられた少女は、「内緒よ」と声をひそめた。

「あのね、あの、コーちゃんのお母さんがおばあちゃんになっちゃって、そんでね、コーちゃんがね」

 要領を得ない美咲の話を総合し、足りないところを補足推察すると、コーちゃんの母親はコーちゃんの下の妹のPTAのために、一日だけ祖母と交代したらしい。口うるさい祖母が苦手なコーちゃんは、半べそをかきながら膝を抱えているのだという。

 踏み込めないところだなあ。

 小さな体を丸めて涙をこらえている少年の姿を思い浮かべると、菜々実はなんともたまらない気持ちになった。しかし、病気の子どもを支えながら、他の子どもの世話もしなければならない家族に、かける言葉があるだろうか。

 菜々実に子どもはいない。夫と二人、心配するのが自分自身の病気ではなく、幼い子どもの病気だったら、と考えるだけで首筋の毛がぞわりと逆立つ。

 膝の上でうごうごとうごめく温かい体。その中にも病魔は巣くっている。

 小さな頭を撫でながら、なるべくゆっくりと問いかける。

「美咲ちゃんはどうしてあげたいの」

 んー、と少女はひとしきり唸り、

「絵本読んであげる。『おばけのてんぷら』」

 小さな拳が、ぎゅっと握られた。

「いい考えだね」

 褒めると、膝から体温が消え、「カッパしゃんバイバイ」と声が遠ざかっていった。

 少し寒くなった。

「手ぇふりよったばい」

「振り返すタイミングがわかんないねえ」

 ポリポリと皿をかく菜々実に、キンちゃんはふと改まった調子で言った。

「ところでカッパさん。なんで着ぐるみ着とうと。最初見たとき、びっくりしたばい」

 またも菜々実は苦笑する。さて、どう説明したものか。

「うちの父ちゃんの仕業なんよね」

「ほうほう、それでそれで。全部ゲロりんしゃい」

 こりゃ満足するまで放してくれそうもないな。

 菜々実のベッド脇に陣取ったキンちゃんのわくわくが、ぐいぐいこちらを圧迫してくる。息苦しさを感じながら、菜々実は話し始めた。

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