エピローグ
騎士団に拘束されたレーイエは、幸いなことに神殿の異端審問にかけられることもなく、リオーテ西部の療養施設へ送られることになったらしい。ピアノをはじめとした楽器や工芸品の生産が盛んなその土地は、魔力持ちが少なく、よって「魔術排斥派」なんて言葉とも縁遠い場所で、傷つき歪んだ彼女の心を癒してくれるだろうということだった。
そんな話を聞きながら、エテンは月の塔の迎えの馬車が来るのを宿の部屋で待っていた。ユーエルも一緒だ。バエンが優秀な弟子を手放すまいと抗議を続けているのを知って彼はかなり揺れたが、最終的には奪い利用するばかりの師から離れ、月の塔で魔法使いに師事し、自分に合った勉強を始めることを選んだ。
「でも……師匠は僕に、すごく、失望してたな……」
ユーエルが小さな声で言った。地下室で出会った時の彼はとても勇敢で頼り甲斐のあるお兄さんに見えていたが、あれはどうも非常時仕様だったらしく、元々この少年はとても大人しい性格らしい。
「別にいいじゃない」
エテンが言った。ユーエルが不安そうに傍らの吟遊詩人を見下ろす。
「良くないよ……お世話になったのに」
「あの人が望む通りの人間になったところで、全然素敵な人にはなれないと思うよ」
「確かに!」
師匠が笑いながら窓の外を見下ろし、そして何か見つけた様子で「あっ」と言った後、「あれ?」と首を捻った。
「どうしたんですか」
「いや、迎えが来たんだけれど……馬車じゃなくて、馬をたくさん連れてるね。エテン、君、乗馬はできるかい?」
「できますけど……」
エテンは曖昧に頷きながら窓の外を覗いて、そして「わっ、モィエ!」と声を上げた。
「モィエ?」と師匠。
「はい! モィエに、ボーウンに、ヨィレンに、レウェン! 一座の馬達です! えっ、一人じゃ世話できないから売ったのに!」
行きましょう! と荷物を持って駆け出したエテンの後を、師匠が「ああ、なるほど……エテンの馬車があるから塔の馬車は持ってこなかったのか」と言いながら続いた。最後尾をユーエルがおずおずと追いかける。
「あの! こんにちは!」
逸る心を抑えながら声を掛ける。馬を連れていたのは、キラキラした豪華な金髪に目の覚めるような鮮やかな緑の瞳をした、とても小柄な男の人だった。ユーエルとあまり変わらないくらいの背丈しかない。
「こんにちは! もしかして君がエテン?」
ものすごく明るい声と、ものすごく楽しそうな満面の笑みが返ってきた。魔術師の塔の使いというくらいだから、もっと神秘的な人かと思っていたのに。
「はい」
「僕はファロル! あとこれ君の馬! 買い戻してきたよ!」
すごい元気な人だな、と思いながらエテンはあたふたと馬達を見た。
「え、はい……えっ、買い戻したって、あの、お金」
「お金は長老からもらってきてあるから大丈夫!」
「え、大丈夫って、その、僕」
「──君は塔の人間になるんだから、馬達も塔の馬になる。お金のことは気にしなくていいよ」
荷物を抱えてやってきた師匠が言った。ファロルが「あっ、アルラダ! 元気だった? その子がユーエル?」とにこにこする。
「うん、ユーエル」
「お初にお目にかかり──」
「ユーエル!」
ユーエルが丁寧に挨拶しようとしたのを遮って、ファロルがぱあっと笑顔を輝かせながら魔法使いの少年の手に何かキラキラしたものを握らせた。
「はいこれ、オーレンのおじいちゃんから。あっ、首に掛けてあげようか」
「え?」
ユーエルが戸惑っている間に、ファロルはさっと彼の手から銀色に光るそれを取り上げ、シャランと鎖を広げて首に掛けてやった。
「魔法使いオーレンが君の師匠になることになりました。いつだったか、学会の時に会ったことあるらしいね? 君の話をしたら、絶対に自分が弟子に取ると大騒ぎして、君が嫌がらない限りはもう正式決定でいいってことになっています。それからユーエル、君には魔法名『ツシ』が与えられました」
「いや、早くないかい? まだ月の塔へ着いてもいないのに」
師匠が苦笑いすると、ファロルは頷いた。
「だよね! でもおじいちゃんが、一秒でも早くユーエルをバエンの弟子から自分の弟子に変えてやりたいって言うから」
大人達があれこれ話しているのをユーエルが呆然と見ている。エテンはそんな彼にそっと近寄って、小声でこそこそと尋ねてみた。
「……オーレンさんって知ってる?」
「うん……師匠の学会の手伝いをしていた時に、会ったことがあるお方だと思う。気難しそうだけれど……荷物を運んでいる僕を見て、師、ええと、バエン様を殴ってた」
「えっ、殴った? ユーエルはその人が師匠でいいの?」
「うん……オーレン様はバエン様を昏倒させた後に、僕を抱きしめて『いつでもわしのところへ逃げてきなさい』って言ってくださったんだ。バエン様には恩があるからそんなことできなかったけど、でも僕、その時の記憶をずっと宝物にしていて」
「そうなんだ。じゃあおめでとう、ツシ。可愛い名前になったね」
「うん、ありがとう……」
二人の少年の会話は、いつの間にか大人達に聞かれていたらしい。ファロルが「良かった! オーレンおじいちゃん変人だから、ツシが嫌がるんじゃないかって心配してたんだ」と言って、師匠が「『エテン』の名前も正式に認められたよ。これで君は月の塔公認の弟子だ」とにこにこした。エテンも嬉しくなって微笑み返し、鼻を寄せてきたモィエを撫でてやる。
「……もう二度と会えないと思ってたよ、みんな。良かった……ごめんね、手放したりして」
馬達はエテンの周りに群がってじっくり匂いを嗅ぎ、寄ってたかって少年の髪を喰んだ。良く見るとファロルは綱無しに馬達を連れてきていたようで、誰もどこにも繋がれていない。一体あの人は何者なんだろう。
「じゃあ、馬車のところへ案内しようか」
そう言った師匠が先導して歩き始め、頷いて後ろに続いたファロルがポケットから取り出した黒い布で目を覆ったのを見て、エテンは飛び上がった。
「ファロルさん! もしかして『目』の人ですか? 鷲族の!」
「え? うん」
頷くファロルに飛びついて、思わずその場でぴょんぴょん跳ねる。
「すごい! 千里眼の人だ! すごい! 目隠しかっこいい!」
「え、照れるなあ」
「僕も修行したらできるようになりますか!」
「えっ、いやこれは生まれつきだから、どうだろう……」
「やってみる価値はありますよね!」
そうやって飛び跳ねていると、後ろでツシがくすくす笑っているのに気づいて、エテンは顔を真っ赤にして大人しく師匠の隣に戻った。「ラゥガ一座」と真紅の飾り文字で書かれた黒い馬車が見えてきて、自由に歩き回っていた馬達がそこに繋がれる。
「僕が御者でいいかな?」
ファロルが言うのに頷いた。兄と違って、エテンはまだ馬車の御し方を教わっていなかった。
「じゃあみんな、乗って。……宿の手続きはもう全部済んでるんだよね?」
「うん、大丈夫。部屋を破壊した料金もちゃんと払ったよ」
「……部屋を、破壊した?」
ファロルが眉を寄せて師匠をじっと見たが、師匠は全く臆することなくにこにこした。エテンが馬車の扉の鍵を開けて、皆で乗り込む。ユーエルが「凄い、ここで暮らせるようになってる」と興味津々で中を見回した。
「ここが僕の席だから、ユーエルはそこ、兄さんのとこ使うといいよ。師匠は父さんのところが一番大きいから──あ、この席、留め金を外して広げると寝台になるんです」
座る場所を教えていると、師匠が「……いいのかい?」と訊いてくる。
「もちろん。使う人がいた方が家具も長持ちしますから」
「うん……じゃあ、使わせてもらうよ」
「ええ」
その時までは本当に平気だった。むしろ師匠を馬車に招くことができて嬉しかった。馬車が走り出すまでは。
「じゃあ、行こう!」
御者台から声が聞こえた。鞭の音はしない。何やら変わったやり方のようだが、馬はごく普通に走り出した。車輪の軋む音、ガタゴトという慣れ親しんだ揺れ。
一座の馬車が、家族を乗せずに走り出した。
本当に突然だった、その時本当に突然、エテンの心はパリンと砕けて粉々になってしまった。何の前触れもなく、いきなり両目から涙がどばどばと出た。耳鳴りがして、息ができない。視界の端がすうっと暗くなってゆく。
「エテン!」
師匠は前を向いていたので、はじめに気づいたのはツシだった。彼は揺れによろめきながらエテンの隣に座って、しっかり肩を抱いた。
「馬車を止めてください!」
「大丈夫! 行って!」
振り絞るようにエテンが言うと、窓からこちらを覗き込んでいたファロルが迷うような顔をして、そのまま前に視線を戻した。馬車は走り続ける。
「エテン。無理しないで……君のご家族のこと、聞いたよ。こういう時は、無理しない方がいい」
「……ううん」
「おいで、エテン」
師匠の膝に抱き上げられると、少しだけ息苦しさがなくなった。「違う馬車で行こうか」と師匠が囁く。
「ううん……いい。乗ってあげないと、馬車がかわいそうだから。僕だけでも、乗り続けてあげないと」
「本当に?」
「うん」
「無理だと思ったら言うんだよ」
「うん」
それから港に向かい、馬車ごと船に乗って海を越え、東の大陸に渡ってヴェルトルートまで、なかなかの長い旅だったはずなのだが、エテンはその旅路をぼんやりとしか思い出せなかった。ただ毎日ルェイダで別れの曲ばかり爪弾いて、師匠に抱えられて眠った。それを全部ツシに見られていたかと思うと恥ずかしくて仕方がないが、その時はそうすることしかできなかった。
そしてついに、美しい鍾乳洞の国の奥、月の塔が見える場所まで馬車は辿り着いた。けれどあれだけ待ち望んだ光景にも、今は心が動かない。エテンは窓からぼんやりと青白い巨大な塔を眺めて、今日はどんな鎮魂歌を練習しようかと考えていた。
「エテン、塔だよ」
「うん」
「エテン……」
ツシがエテンの寝癖の部分をそっと撫でて、心配そうに名を呼んだ。彼も辛いことがたくさんあるだろうに、申し訳ないなと思うが、どうにもできない。
「エテン……前を向いて生きてさえいれば、きっといつか、失った以上の幸福を得る時が来るよ。君にはアルラダ様がいるし、僕もいる。悲しい時は側にいるから」
「……ツシ」
「うん」
「ありがとう」
口元を歪めて笑ってみせると、ツシは「うん」とにっこりした。エテンが気づかない間に、どこかいつも縮こまっている様子だった彼は、少しだけ自然に笑うようになっていた。
◇
月の塔は、綺麗な銀色の湖の真ん中の島に建っていた。馬車を降りて美しい景色の中で深呼吸すると、少しずつ落ち込んでいた気分がなだらかになってくる。
「じゃあ僕は、裏に馬車を置いてくるから」
ファロルが軽やかに言って、一座の馬車が走り去る。巨大な塔に向き直ると、入り口から人が出てくるのが見えた。白髭の老人と──
「あ、ツシ。オーレンが出てきたよ」
「はい。ご挨拶してきます」
ツシが緊張したように背筋を伸ばして、小走りに老魔法使いの方へ駆けてゆく。師匠は「お父さん、おかえりなさい!」と大きく手を振った小さい人影に「ただいま!」と手を振り返している。
「エテン、紹介するよ。あの子が──」
「あの子が、ファロットですか」
「うん。いい子だから、君もきっと仲良く──」
「かわいい……」
「──できると思う、んだけど」
「すごいかわいい……」
「ん?」
軽やかに走ってきた少女は、師匠の自慢話によるとエテンの一つ下の七歳らしい。薄紅がかったやわらかな金髪、夏の湖のように鮮やかに潤む水色の瞳、雪のように真っ白な肌。
「はじめまして、エテン」
目の前まで寄ってきた少女は少し照れたように顎を引いて、小さな声でエテンに挨拶した。エテンは片膝をついて左手を胸に当て、右手を差し伸べて言った。
「あなたのような方に名を呼んでいただけるとは、なんとさいわいなことでしょう。ファロット、あなたが人間であると、私はにわかには信じられません。水辺に咲く花の妖精にしかみえない」
「エテン!」
突然師匠に腕を引っ張られて、エテンはきょとんとしながら立ち上がった。師匠が耳元でこそこそと言う。
「エテン、ファロットにそれはなしだ」
「それ、って?」
「女の子とみると誰でも口説いて回るそれだよ」
「師匠……誰でもじゃありません」
真面目な顔で諭してくる師匠を真っ直ぐ見つめ、エテンは真剣に言った。
「師匠。僕、今ならあの曲がちゃんと歌える気がします」
「え?」
「僕は、恋のなんたるかを知った……」
「へ?」
師匠はしばらくぽかんとした顔のまま硬直し、うっとりと夢見るような瞳で自分の娘を見つめる弟子を見た。そしてがっしりと弟子の両肩を掴むと、顔を近づけて押し殺した声ではっきり言った。
「君には、まだ早い……!」
〈了〉
魔法陣恐怖症 綿野 明 @aki_wata
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