丘と太陽

紫鳥コウ

丘と太陽

 この東欧の一国に流れる風は、うら寂しいほど冷たくもあれば、かすかに、ぽかぽかとして気持ちがいいこともないことはない。


 今春から留学生としてこの地にきた鹿原しかはらは、丘のふもとにある、赤煉瓦あかれんがとクリーム色があたたかい街並みの一角の、パン屋で働いていた。その小さな個人経営の店からは、甘くて温もりのある香りがする。店先にいれば、焼き立てのパンの幸福な味が、口いっぱいに広がってくる。


 丘へとびていく、いくつもの店が立ち並ぶ一直線の道には、真っ青な空から、んだ空気が、落ちてくる。往来は、陽気な笑い声であふれている。


 鹿原は、バイトを終えると、学生寮へ帰ることなく、店主から分けてもらった大小長短さまざまなパンを、バスケットに入れて、赤色の布をかけて、丘の方へと歩いていった。いつのまにか、空はオレンジ色に染めあげられてきていた。丘の向こうには、あかね色がかった雲がわきたっていた。


 緑色の丘は、うっすらと赤く照っていた。鹿原は、つづらおりのなだらかな道を登っていった。ときおり立ち止まり、夕焼けのたもとで賑わいをみせる街並みを見下ろすこともあった。言い知れない感傷が、鹿原の胸をつめたくさせた。


 しかし、その感傷は、すぐに、あたたかい興奮へと変わっていった。その心情が目に見えるように顔に表現されるのは、恥ずかしかったので、鹿原は、心持ち、悠然ゆうぜんとかまえながら、あえて、のんびりと、丘の上を目指していった。


 丘の上には、数軒の家が散在している。どの家も、暖かみのある色と、それを引き立たせる白色を、織り交ぜている。


 冬が近づいてきても、夕陽は、鹿原の顔を、ほてらせていた。その両眼は、てらてらと光っていた。


 鹿原は、丘の斜面のすれすれに建つ、一軒の家の日陰に入り、呼吸を整えてから、ドアをノックした。返事がなかった。家を空けているのだろうか。だとしたら、このパンの行き先は、どこになるのだろうか。


 鹿原があきらめて帰ろうとすると、それを止めようと、せっかちなリズムを細やかに刻む音がきこえてきた。そして、ようやく、ドアが開かれた。


 そこには、あどけない微笑があった。かがやきが満ちあふれる、女性の顔があった。彼女は、ベージュ色のセーターを着ていた。そして、黄金のさらさらとした髪を光らせていた。夕方だからよりえている。腰あたりまでのびたその髪には、あまりにもすこやかなぬくもりが宿っていた。


 彼女は、バスケットを、満面にはじける笑顔で受けとった。


「ありがとう」


 バスケットを玄関の靴箱の上においた彼女は、鹿原をぎゅっと抱きしめた。


「入ってください」


 そして彼女は、鹿原を、家の中へと招いた。


 学生寮には門限があり、夜の九時までには、そこにいなければならない。しかし今日は、鹿原には、こらえきれない、焦げついた気持ちがあったので、念のために外泊届けを出してきていた。


「いつも助かっているわ」

「残りものなのは、ごめんね」

「ううん」


 彼女は首を振った。


「パンもそうだけれど、シカハラさんが来てくれたことも嬉しいの。すごく嬉しいの……」


 街並みへ面した窓を見やると、空はどんどん紺色に変わりはじめていた。星空が、静かにひろがろうとしていた。


 彼女は寒がりだから、夜が深まると、暖炉にまきをくべた。鹿原は、身体が熱くなってきたものだから、そっと上着を脱いだ。


 ひとり暮らしにはぴったりの、狭い借家には、家具は少ししか置かれていない。段違いの棚には、絵画のレプリカの写真が、三つ飾ってある。


 夜は、さらに深まっていった。


 鹿原が、シャワールームから出ると、洗面台の横に、彼女に預けておいた服と、赤色のタオルが用意されていた。とても良い匂いがした。こそばゆい、あまったるい香り。


 暖炉にくべる薪がなくなったと、彼女は言った。


 火はどんどん小さくなり、奥の方へと沈んでいった。この暖炉は、鹿原たちより先に、眠ってしまおうとしていた。


 心底から寒い季節ではない。しかし、彼女はこれでは眠れないと言いだした。


 彼女は、黙ってベッドにもぐりこんだ。


 この家で、鹿原の寝る場所といえば、彼女のベッドしかなかった。彼女が、家に泊まることを許したということは、同じベッドで寝ることを求められたということなのだ。


 鹿原は、電気を消した。



   ――――――



 丘の上空から、月が消えようとしていた。彼女は、すやすやと寝息をたてて、黄金のいとを散らばらせていた。


 鹿原は、なんだか寒くなってきた。まだ、くぐもった温もりが漂っているだろうと思って、暖炉の前に腰をすえてみたが、まったく冷えているだけだった。


 ふと、暖炉の横にある薪入れ見やると、ほのかな明かりに透けて、まっさらの薪が、身を隠して、眠っているのが見えた。鹿原は、もっと彼女を愛していこうと思った。



   ――――――



 窓から、朝にしかない穏やかな光がさしてきた。街は、やさしく抱かれていた。


 彼女は、厚い毛布にくるまれて、すやすやと眠っていた。鹿原は、暖炉のそばの椅子を抱きかかえるようにして、目を閉ざしていた。


 丘の向こうから昇ってきた太陽のことを、彼らはまだ知らない。

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丘と太陽 紫鳥コウ @Smilitary

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