荊の淵

宇津喜 十一

荊の淵

 目眩がして、平衡感覚を失う。

 ちかちかと瞬きながらも、暗く狭まる視界。血の気が引いていく顔。胃ごと吐き出してしまいたくなる程の不快な腹部。床に打ち据えた膝。力が入らない腕。

 虚脱した体は床に伏す。倒れ込んだ板間の冷たさを気に掛ける事も出来ない。それは少しずつ私の体から熱を奪って行く。

 誰かが叫んだ。

「荊だ。荊が伸びている。」

 乱れた足音が遠のいて行く。

 目線を動かす事も難儀する。しかし、足に食い込む棘のような痛みは感じた。それは這い寄るように上半身へと伸びて行く。血が出ていようか。何かが滴る感触がある。嗚呼、でも、それよりも、眩む脳の方が重要だ。痛覚よりも、この不快さの方がより深く苛む。

「荊が今年の生贄を選んだのだ。嗚呼、こいつは……。」

 老人の嗄れた声が最後に聞こえた気がした。



 ────────────────



 一番最初に覚醒したのは嗅覚だった。

 風が吹いて、私の鼻へ芳しい香を運んで来たのだ。嗅いだ事のない、甘ったるい濃厚な匂いに、束の間の安らぎを覚えた。

 目を開けると、白い床が目の前にあった。それは硬くはあったが、冷たくも温かくもない。手で撫でてみると、何の引っ掛かりもなく、滑らかであった。磨かれた石のように粗がないが、それにしては軽い質感で、どうにも石とは思えない。さりとて、何かと問われても答えに窮した。

 その床はどこまでも続いており、遥か向こう側に地平線が見えた。建物も木々もなく、上を見上げると、空さえも漂白されたように真っ白である。ずっと見つめていると眩しく、どうやら太陽も月もないが、空自体が光っており、視界に困らなかった。白色に支配された異様な光景に、私は暫し座り込んで呆然としていた。

 数分後に私は思い出したように、真っ白な床の上に立った。足元の影を見ると、光源は真上にあるはずだが、もう一度首を上に向けて確認しても、やはり太陽も火もなく、空全体が光っている。

 そこで、私は初めて、気を失う前にあった気持ちの悪さがすっかりなくなっている事に気付いた。

 吐き気も、目眩も、不快感は全て消え失せていて、寧ろいつもより体も気分も軽いとさえ思えた。

 周りを見渡す。白ばかりに塗り潰されたこの世界でも、地平と空との区別がつくのが不思議だ。しかし、それ以上に分かるものはなく、行く宛てもない。どこへ向かうべきなのかの判断がつかない。そもそも、此処がどこかなのかさえも知らない。

 その時、また風が頬を撫でた。また、あの匂いを運んで来る。これは、何かの花の匂いなのかも知れない。芳醇な香りの奥に青臭さがある。

 私は風上に向けて歩き出した。

 風は私が方向を見失う事を見越しているかのように、時折優しく吹いて、私を誘った。果てのない地平線を目指すのは、定期的に途方に暮れる行為ではあったが、此処に留まっても致し方ないという思いで、足を動かし続けた。

 二時間か、三時間か。太陽がない故、分かりづらいが、歩き続けてそれくらい経った頃であろうか。遠目に影が見えた。

 薄らと青を帯びたそれは、森のように見えた。人工的な形をしていない。

 私は歓喜した。漸く、目に見える目標地点が生まれたのだ。気が急いて、まだまだ遠くにあるというのに、自然と駆け足になっていた。

 不意に大地が揺らいだ。

 地震とは違う。縦や左右に揺れる動きではない。一方へ進む動きだ。地震と言うより、凍結した道を滑っている感覚だ。

 小さく遠くに見えていた森が、急速に近付いてくる。いや、近付いているのは森ではなく私である。私の意思に関わらず、私は前へと移動している。直ぐに森と私との間にあった物理的な距離が、不可解な地面の収縮によって、全くの零となった。

 森を見付けてから、ほんの数十秒で、私は森の入り口に辿り着いた。

 背の高い青黒い針葉樹が並ぶ森は暗く、人の境界の外の世界のようで、足を踏み入れるのを躊躇う。白色の平野は未知の領域故、何も分からないままに進めた。しかし、森の危険を私は知っている。そこに住まう妖精や獣の恐ろしさを知っている。丸腰で立ち入る場所ではない。

 すると、森の奥からまた、甘い香りが漂って来て、私の鼻腔を擽った。それを胸いっぱいに吸い込んで、吐き出すと、先程までの閊えるような怯えがいなくなっていた。緊張が緩まり、全身に血が通い、じんわりと暖まるのを感じた。

 森へと足を伸ばす。細い獣道が先まで続いているようだ。一人分程の幅しかないが、そこだけ草木は生えておらず、土が晒されている。

 周りを見ると、並ぶ木々は杉であろうかと思うが、周囲の草花はあまり見覚えがない。杉を除くと、草木は背が低いものが多く、ちらほらと咲く花は控えめな色合いをしていた。近くにあった倒木は苔むして、一面緑色になっており、味わいがある。苔は存在するようだ。

 私は少し痛み出した足を、絶えず前へと進める。裸足であるから、時折踏み折る枝にひやりとする。

 静かな森だ。獣の声も、虫の羽音も聞こえない。私が周囲の草木に触れてさざめかせてしまうばかりだ。上を見ると、刺々しい葉が伸びていて、陽を通さない。

「ねぇ、君。」

 突然、道に飛び出て来た少年が、私に話し掛ける。私はいきなりの事に驚いて、身構えた。

「怖がらないで欲しい。何もしないから。ただ、質問をしたいのだよ。」

 十歳程の、柔らかそうな金髪の少年が、笑顔で私に話し掛けている。

「質問とはどういうものですか?」

 怯えながらも私が聞き返すと、彼は更に嬉しそうに笑った。頬に出来る笑窪が印象的であった。

「嗚呼、やっとだ。漸く聞き返してくれる人に出会えた。僕が今まで話し掛けたのは865人。だが、僕の話を聞き返したのは君一人だけ。どうもありがとう。」

 少年はまるで巡礼者のように、私の足元はしゃがみ込んで、よく分からない礼の言葉を述べた。私は何に感謝されているのか分からず、固まってしまっていた。

「質問とは何ですか?」

 もう一度訊き直すと、彼はやおら立ち上がって、私の目を真っ直ぐに見た。湿った土で膝が汚れている。見ると、随分長い距離を歩いて来たのか、足元は酷く汚れていて、靴も擦り切れる直前であった。

「それが最も重要だ。よくお気付きで。その質問とは……、それが何かを知りたくて僕は此処に来たのだ。」

「どういう事でしょう。」

「どうもこうもない。僕は質問をしたいのだ。何故僕は質問をしようとしているのか。何の質問をしようとしているのか。僕はそれが知りたくて、通りすがる全員に訊いて回ってるのだよ。」

 私は胡乱な自分の頭を撫でた。この頓珍漢な謎々を解明しなければならないだろうか。難しい哲学のようでもあるし、子供が屁理屈を捏ねて揶揄っているとも受け取れる。

 質問したいという気持ちが急いているだけのように見える。だから、その質問の内容が伴っていないのだ。ならば、重要なのは、何故質問したいかという事だろうか。

「何故質問がしたいと思うのですか?」

「そうせねばならないからだ。」

「一度それを置いておきましょう。」

「置く?」

「静かな気持ちで考えてください。貴方が本当に知りたい事って何ですか?」

「……。」

 笑みを消す少年。私はどきどきと上がる心拍数で、胸が痛んだ。

 彼は少しの間、逡巡していたが、そう待たずに小さな口が開かれた。

「本当は何も知りたくない。だが、知らなくてはならないから質問はしたいのだ。それは駄目だろうか。」

「新しい情報を得たくないのなら、貴方はもしかしたら、知っている事を再確認して安心したいのではないでしょうか。」

「嗚呼、そうか。そうかも知れない。ありがとう。理解出来たから、これからはちゃんと質問が出来るだろう。」

 少年は嬉しそうに私を抱き締めた。私は突拍子もない出来事に、齷齪するばかりだった。

「君は変わった香りがする。此処にいる誰とも違う匂いだ。嗚呼そうだ、君はどこに向かってるんだい。」

「良い匂いのする方です。」

「なら、一緒について行っても良いだろうか。匂いの元に僕も用事があるのだ。そして、僕にはその匂いが分からないのだよ。」

「構いません。」

 香りがまた流れていく。風上は森の奥の方である。また、同じように歩き出す。

 足の裏は、小枝や小石で傷付いていた。不思議と痛みは薄く、私は構わず進み続ける事に決めた。

 深い深い森の中で、暗い暗い森の中で、命綱のような細い道を辿る。土に濡れた爪先が冷える。

 少年は私の後ろを静かに歩いている。

 私は歩いた。足の裏から血が滲んでも歩いた。すると、出口が見えて来た。そこは、光に満ちていて、救いを求めない私でさえ、思わず腕を伸ばした。

 空を切って、腕は元の位置に戻る。

 森の出口の先には、アーチ状になるよう組まれた荊があった。そこが入り口で、中は庭園のようであった。あの甘い匂いは、もっと奥から漂って来る。

 私は、おずおずと庭園へ入って行った。至る所に荊が棘を覗かせている。しかし、それが霞んで見えなくなる程に立派な大輪の花が咲き乱れていた。

 アーチ状の入り口を過ぎると、迷路のように細かくくねくねとした道が続いた。少しでもよろければ、左右の荊の棘が刺さるだろう。

 芳醇な香りの満ちる様に、私は恍惚とした。胸いっぱいに吸い込んで、吸い込んで、吐き出せない。永遠に自分の中に留めておきたかった。この香りに満ちたまま、終わらせられたら良いのにとさえ思った。

 私は花に囲まれた迷路の途中でしゃがみ込んだ。地面を芝生が隙間なく覆っていて、柔らかい。

「先を進まないのか?」

 金髪の少年が問いかける。

「先に何があるんです。ここで充分です。満足したのです。だから、此処にいます。いつまでも。」

「もっと凄い物があるかも知れないのに、庭園で止まってしまうのか。匂いの元に着かなくてよいのか?」

「凄い物、凄い物。少し興味が出て来ました。」

「荊の王の屋敷の庭になら、もっと立派な薔薇が咲いている。最も悪辣だが。」

「これ、薔薇という名前なんですね。」

「一番高い塔に上れば海が見える。青く美しい。晴れていれば水面がきらきらと光るのだ。」

「海なんて御伽噺の中にしかないかと。」

「実在するさ。君も見ればそれを実感出来る。」

「海を見てみたいです。庭の薔薇も。」

 私は体を起こした。風が吹く度に良い香りが私に纏わりつく。背後には少年が立っていた。こちらに手を差し伸ばしている。私はその手を掴んで、立ち上がった。

 絶えず、香りのする風を追った。

 庭園を抜けた先に、大きな屋敷が見えた。荊に囲まれた黒い建物だ。その壁にも荊は伝っている。

 庭園の出口から屋敷までは、石畳で繋がっている。平らなその石畳は、平野と同じく綺麗な白色をしていたが、此方は一目で石で出来ていると分かった。左右には荊の生垣があり、一本道である。

 風はその建物の中から吹いて来ているようであった。もしかしたら、私の嗅いでいた香りの大元はこの中にあるのかも知れない。

 建物の入り口までは遠く、その中間には白い服を着た背の高い男が立っていた。とても細く、針金細工の人形のようでもあった。手には木の棒がある。侵入者を防ぐ為の物だろう。

 針金細工の人形がこちらに気付いて、無機質な声で言った。

「質問したいか。質問に答えられたら、私も質問に答えよう。では、私は何をお前達に問うだろうか?」

 少年が難しい顔で答えた。

「武器を持っているかどうか。」

「不正解。」

 私は特に考えずに答えた。

「では、問いかけたら答えるかどうか。」

「正解。」

 針金細工の人形は道を開けた。その先には屋敷の扉がある。彼が退くと、中から吹く風が私の体を打った。

「この香りの元は屋敷の中にあるのですか?」

「如何にも。屋敷の中庭にある薔薇の香りだとも。」

 私の問いに答えると、針金細工の人形は少年の前に立ち塞がった。

「少年は入れない。問いに答えられなかった者は、答えられるまで此処に留まったままだ。」

「気にしてないさ。何度だって、気の済むまで質問を繰り返そう。君はそのまま、屋敷へ行ってしまえ。でも、中で待っててくれたら嬉しい。」

「中で待ってます。」

 私は血だらけの足裏で、綺麗な石畳を踏んだ。踏む度に、判子のように、床に血が残る。ぎこちない歩みで、遠い扉へと向かう。

 扉は重厚で、私の背丈二つ分程の高さがあった。建物の中は薄暗く、針葉樹の森を思わせた。明かりはなく、入り口より奥は暗くて見えない。

 大理石の冷たい床に、皮膚がくっつく。ひたひたと音を鳴らしながら、私は道も分からず歩いていた。案内もなく、地図もない。壁を伝いながら、広い屋敷を探索する。実態としては迷子であった。

 しかし、疲労も痛みも限界を迎えた私の足は、歩むのをやめた。腰を下ろすと、脹脛が脱力した。疲労と、刺すような痛みに思わず脛を摩る。度重なる摩擦で皮が剥けて、木々のささくれに抉られて、私の足はすっかり血と土とで汚れていた。

 不意に、薔薇の香りがした。誰かが私の横に立っている。見上げると、流れるような清廉とした衣、静謐な眼差し、大輪の如き豊かな髪、華奢な肩、嫋やかな仕草を携えた人がいた。暗闇にくっきりと浮かぶ艶麗なその人は甘い声で動けない私に囁いた。

「嗚呼、美しい人。私の内に住まう人。私を暴く人。どうか、怯えないで。どうか、逃げ出さないで。そして、貴方を愛してやまない、溢れんばかりの私の真心を受け取って。」

「真心……?」

「そう、真心よ。それは貴方の傷を癒すでしょう。」

 気が付くと、私のぐちゃぐちゃな足元は風呂に入ったかのように綺麗になっていて、沢山の傷も消えていた。刺すような痛みもなく、疲労感もなくなっている。

「これは……。」

「不思議な事はないの。此処がどこなのか知っているのならばね。でも、貴方は知らないのね。知らないまま来てしまった。でも、それでも良いのです。同じ事です。だから、心配なさらないで。」

 その人に手を取られ、屋敷の奥へと連れて行かれる。優しい手をしていた。男性とも女性とも見える。でも、その手に触れていられるなら、そんなものは些細な違いでしかない。

 暗い屋内に灯りはなく、私は繋いだ手以外に何も持たなかった。温かい手。滑らかで優しい婉艶な手。包み込むような手。この手に誘われるなら、どこにだって行って良いと思えた。

 内側からドアノブを捻る音がして、扉が開く。私達は部屋の中へと入って行った。中には、幾つか蝋燭が灯っていて明るかった。窓の外は暗い。外にいた時には空自体が発光し、それが降り注いでいた筈だから、おかしな事である。

 部屋の中には大きなベッドと、お風呂の二つしかない。私は連れられて、お風呂の方へと向かう。わらわらと奥から現れた小さな誰か達が、私の汚れた衣服を剥ぎ取って、泥に塗れた体を磨き上げていく。温かい手の人は飛沫で濡れながら、私が洗われていく様を艶やかな笑みを浮かべて眺めていた。裸を見られている事への羞恥はなかった。

 それが終わると、今度は体中を柔らかなタオルで拭き上げられて、服を着せられた。清潔そうな綺麗な衣だ。着替えが終わると、彼らは私を担いで、ベッドの上に置いた。掛け布団が掛けられる。直ぐにでも眠れる状態である。

 彼らは終始無言のまま、どこかへと散って、姿が見えなくなってしまった。

 すかさずやって来た手の人が、ベットの傍らの椅子に座って、私の胸元をぽんぽんと撫でた。優しく、緩やかなテンポだ。

「此処はどこですか?」

 眠気に押される私が訊いた。

「どこだといいの?どこだと嫌だ?」

 優しい声が私に問いかける。

「私の知る場所はみんな嫌いです。私を知る人がいない所へ行きたいのです。」

 子供のように駄々をこねた。

「じゃあ、そうしましょう。」

 美しい人が答えた。

「ここは貴方の知らない場所です。貴方を知らない人しかいません。どうか、安心なさってね。」

「入り口の少年はどうなりましたか。」

「知らない人しかいないの。貴方が知る人も貴方を知る人もはいないわ。」

 私は瞼を開け続けられなくなっていた。豪奢な薔薇の香りと、暖かく柔らかい寝台、優しい声と典麗なる温かな手。多くの望みの物が此処にはあった。そのせいか、酷く心も平らかで、乾いてささくれ出す木の皮のようであったのが、真綿のようにほわほわと柔らかくなったような心地がした。

「さあ、貴方の全てを愛しましょう。貴方の全てを憐れみましょう。揺り籠の如く、貴方を甘く蕩けるような微睡みへと誘って差し上げましょう。」

 私は、頬を撫でる手に何もかもを捧げてしまって、永遠に撫でて欲しいと思った。

 瞼はもう上がらない。片手で、その離し難い手を掴む。相手は拒まず、握り返してくれた。

 そのまま、穏やかに眠りについた。


   …………


 起きたら、一人だった。

 差し込む光は相変わらずなく、眠る前と同じ位置に火が灯っている。暗闇に目が慣れていたのか、随分と明るく感じた。

 片手が何かを掴んでいた。見るとそれは千切れた人の手で、私は思わず取り落とした。しかし、それには血が一滴も通っておらず、よくよく見れば、実によく出来た作り物だった。あの温かい滑らかな手と寸分も違わない出来であったから、私は拾い上げて、それで自分の頬を撫でた。

 温かみはもうないが、一瞬の内にざわめいた胸の中の色々な物が落ち着いた心地がした。焦りも不安もない。恐怖もなかった。ただ、心地の良い安心感があった。

「庭の薔薇は見れたのか?」

 いつの間にか部屋に入って来ていた少年が、私に問い掛ける。入り口の問答は終わったらしい。その手には大きな鋏があった。剪定用の物だろう。

「まだ、見ていませんが、それよりも素敵な人を見付けました。」

「そうか。君はそれで満足したのか?」

「しました。」

「海は見たか?」

「いいえ。でも、きっと海より綺麗な人を見つけました。」

「まだ、見てもいないのにか?」

「あれ以上はありません。」

「君は一緒に来ないんだな。それならば、もう問い掛ける事はない。さようならだ。」

 少年はそう言うと、くるりとこちらに背を向けて、部屋を出て行こうとした。右足を引き摺るように歩く彼は、酷く疲れていそうだった。

「貴方は庭の薔薇を目指すのですか?」

「そうだ。君も一緒だと思っていた。」

「海も見るのですか?」

「君となら潮騒を聞きに、旅に出ても良かった。」

「貴方はあの人に会ったのですか?」

 返事はない。微睡む闇の中へと溶けるように去って行った。

 入れ替わるように、あの人が入って来た。艶やかな髪は、肩から下へと長く垂れている。今日は清潔そうな薄緑の薄い衣を身に纏っていた。

 その人は、今、出て行った彼の事に気付いていないのか、特に何も言わずに部屋の扉を閉めた。

「眠れたの?」

「ええ、たっぷり。」

「それは良いわね。とても良いわ。」

 温かい手の人は、ベッドの傍にしゃがみ込む。ベッドに座る私を見上げている。裾が床にくしゃくしゃと溜まる。

「ねえ、美しい人。昨日貸してあげた私の手は、どこに行ったのかしら。」

「それなら。」

 私は手に持っていたそれを手渡した。笑顔で受け取ると、温かい手の人はそれを丈の足りない右手首に押し当てた。すると、最初からそうであったかのように、切れ目もなく、両手が揃った。

 驚く私に温かい手の人は微笑んだ。

「そういう物なの。不思議な事は何もないのよ。さあ、そろそろ始めましょう。」

「何をですか?」

「問い掛けは不要なの。そういう物ですもの。貴方は知らないで来てしまったのね。でも、問題はないわ。怖がらないでね、逃げ出さないでね。愛しい人。どうか、私の側にいてね。」

 温かい手の人は私の上に馬乗りになった。その後、私の首へと腕を回して抱き締めた。細い体は体重は感じられない程に軽く、重なる他人の肌の暖かさは蕩けるようだった。白く肌理の細かい柔らかい肌が、私の硬い皮膚の表面をやわやわと溶かしていく。

 包み込まれるようで、酷く安らぎを覚えた。

「ねえ、芳しい人。貴方はどこでもない場所で、知らない誰かといるわ。これで安心なさったかしら。」

「ええ、とても穏やかな気持ちです。」

「溶けてしまいたいとは思わないかしら。」

「もう、溶けているようなものです。」

「チョコレートを知ってらして?」

「知りません。何でしょう。」

「美味しいお菓子よ。良い香りがするの。甘くて、苦くて。私は少し溶けた物を食べるのが好きなのよ。」

「そらまはおやはあしわそなうだらはなあ。」

「貴方はチョコレートのようね。」

「にゎなわ。」

「貴方を食べて差し上げる。貴方の爪先から、髪の先まで、ええ、一片も残したりしませんとも。嗚呼、満たして、満たして、それでも満ち足りぬこの飢えを、どうか、和らげてみせて。」

 首へと触れた指先から熱が伝う。冷えた表皮を、言葉通り、じんわりと溶かしていく。

 私の体はその指先と溶けて、一体化していく。表面から、より深くへ。それは微睡むように心地良く、同時に心の芯から恐ろしい。

「愛しい人、綺麗に咲いてみせてね。」

 甘い麻薬のような言葉。薔薇の香りが胸を満たし、脳を満たし、私は私を喪っていく。

 手の人の足元から荊が伸びて来て、私達を包み込む。食い込む棘の痛みも感じられない。

 少しずつ、私が私と認識出来る体は減っていく。不思議な事に相手の体積が増える事はない。水を吸い上げる茎のように、それは緩やかに、されど確実に、温かい手の人は私を自分の物にしてみせた。

 私の体が無くなった後、私はどこにでもない所にいた。そして、同時にどこにでも行けた。温かい手の人の荊は至る所に張り巡らされていたからだ。私はそこに咲く薔薇の一つになっていた。

 茎を通して、私は様々な場所へ移動出来た。一つの花が散ると、好きな場所へ行き、また花を咲かす。その繰り返しであった。

 私は見知らぬ庭に咲いてみた。とても、美しい庭だった。荊の囲む敷地は要塞のようで、庭の中心に咲く見事な赤い薔薇を守っているようだ。

 風が吹いた。敷地の片隅に咲く私は、よく知った香りを嗅いだ。甘く芳醇で、奥に青臭さがある夢のような香り。ずっと追い掛けていた香り。風上は此処だったのだ。私はずっと、この赤い薔薇の香りを求めていたのだ。

 私は思わず手を伸ばそうとした。だが、花になった私には腕がなかった。

 ふと思い立って、枯れた私は彼を探した。様々な場所で咲いては枯れてを繰り返す。何回目の繰り返しだったか、以前訪れた庭園に彼はいた。輝く金髪が、さらさらと風にそよいでいる。その手には剪定用の錆びた鋏がある。

 私はそこに咲いたはいいものの、声も出せぬし、駆け寄る事も出来ない。ただ、有り得ざる視界でもって、彼を眺めていた。

 不意に彼が、何かに気付いたように私を捉えた。首を傾げ、不思議そうな顔をしている。

 私は枯れて、花弁を散らした。そして、直ぐに近くで咲いた。彼が私を追う。彼が私を見付ける度に、私は枯れて、また近くに咲いた。それを何度も繰り返した。

 最後に咲いたのは、屋敷の庭だった。前に見た時と同じく、中央には立派な薔薇が咲いていて、周囲は要塞のように荊が囲んでいる。

 ガサガサと芝生を踏む音が鳴る。より大きな音と、何かを切るような音がした後、荊の隙間から金髪の少年が現れた。

 彼の手には鋏。

 迷いのない足で中央に向かうと、その大きな鋏で赤い薔薇の根元を、ばつんばつんと音を立てて断ってしまった。支えを失った薔薇は、悲鳴をあげながら床に転がる。

 荊と薔薇は次第に人の形へと変わって行った。そこにいたのは、温かい手の人だった。

「君は悪いものだろう。」

 少年が問い掛ける。

「私は腐りかけが好きなだけよ。」

 足のない手の人が答えた。

「君は彼らにとって悪いものだろう。」

「捧げる事を良しとするのは人間達でしょう。」

「もう、時代遅れだ。此処には一体どれ程の死体が埋まっていて、君はそこからどれ程の養分を得たのか。」

「私はその全てが愛しいの。毎年捧げられる生贄達を愛している。だから、彼らの望む物をあげるのよ。そうすると、彼らは溶ける事を選ぶし、花を咲かせるのよ。」

「それは餌で釣っているだけの狩りだ。」

「貴方に私の愛は分からないわ。」

「そうかも知れない。だが、それでも構うまい。僕はね、全部を終わらせに来たのだよ。」

「そうしたとして、貴方はどうやって此処に帰るの?」

 少年は答えずに、持っていた鋏で乱雑に薔薇を切り刻んだ。次第に切る音も、悲鳴も聞こえなくなって、静寂が降りた。風が吹くと、辺りに充満した青臭い匂いが僅かに薄れた。

 薔薇は急速に枯れていき、その見た目は茶色く乾燥していく。

 彼はマッチを一本取り出して、箱の側面で擦った。オレンジ色の炎が、彼の顔を照らした。泣き腫らした目で、火を見ている。

 少年は力が抜けたように、マッチを薔薇の上に落とした。最初はじりじりと焦げついていたが、直に燃え盛った。

 それでも、彼は動かないままだった。足がピンで留められたみたいに、動かない。このままでは炎に飲まれてしまうかも知れないと言うのに。

 私は声を上げようとした。逃げろと叫びたかった。だが、花は口をきけない。

 風が吹く。煽られて、炎はどんどんと大きくなっていく。放っておけば、この庭も、屋敷も、庭園も、森も、何もかもが燃え尽きてしまうだろう。

 ふと、彼が何かに気付いたように目を動かした。何かを探している。鼻を上にあげる。匂いを嗅いでいる。

 そして、彼は庭の片隅に咲く、私を見た。見て、微笑んだ。

「待っててくれてありがとう。」

 炎の側で、顔を橙に染め上げている。

「僕等のせいだね。君がそんな風になってしまったのは。誰もがいつかは炎で燃やされて、何も遺らない。」

 涙が瞳に溢れ出る様を初めて見た。

「僕等は罪を犯した。だから、自分から燃えてなくなるのだよ。でも、君はそうではなかった。そうではなかったのだよ。」

 嗄れた声を思い出す。「嗚呼、こいつは罪人だったのだ。」私は何の罪を犯したと言うのだろう。真面目に生きてきたつもりだ。正しきことをしてきたつもりだ。だが、一点の曇りもないとは断言出来ない。いや、そうか。罪人だから荊に捕らえられるのではない。荊に捕らえられるから罪人なのだ。

 だが、それももう過ぎた事だ。

 周囲の荊も燃え始めている。

 彼は花になった私を鋏で切り取った。赤い薔薇の花だ。まるで宝物のように、優しく両手で包むように持っている。

 泣き出す彼の雫を、私は受け止めた。水瓶のように、涙は花弁の内に溜まって行く。それは酷く暖かくて、心地良い。初めて知る、友の温もりだ。

「君と海を見に行きたかった。」

 炎は私達を包み込んだ。






 荊の淵と呼ばれた場所があった。

 選ばれし者しか立ち入れない白い平野を超えて、青く暗い森を抜けるとそこには美しい薔薇が咲き誇る庭園があり、その先に荊の王の屋敷がある。芳しい香りに満ちたそこは、楽園の如き場所だとか。

 荊の王の庭で年々薔薇は濃く、大きく育っている。土に埋めた肥料と丁寧な管理のお陰だ。そして、その中でも一際美しく芳しい薔薇は考えた。

 王を追い出し、自分が此処の支配者となって、余す所なく、より多くの養分を得たいと。

 かくして、少年のままであった王は哀れにも放逐され、何百年もの間、屋敷への戻り方を探して、周囲の者に訊いて回っていた。様々な事を時の流れの内に落としながら、問い掛ける事だけは忘れずにいた。

 その間にも、薔薇は生贄を求めた、捧げなければ、荊で覆い尽くすと、淵の入り口にある村を脅した。その村は、かつて荊の王を荊の淵へと追いやった者達が住む村だった。

 村人は仕方なしに、罪人を生贄として捧げた。それが果たして正当な理由で選定されたかは、定かではない。

 しかし、突然に荊の淵は全て燃え盛る炎に包まれた。屋敷も庭園も何もかもが赤くうねる火によって燃え尽き、跡形もなく消え去った。美しき薔薇の園はたった一日で失われたのだ。

 追い出された王の所在も分からない。捧げられた罪人がどうなったかなど、尚更、人の口端にも上がらないものだった。

 それでも、相も変わらず潮騒はある。荒々しく、時に優しく。白い漣が寄せては返し、その波の動きに合わせて、きらきらと太陽に照らされた水面が光る。磯の香りが周辺に満ちて、さらさらの白い砂に歩く人は足を取られる。

 そんな光景を誰かが夢見た事すら知らずに、海は、人々は日々を過ごして行く。





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