第8話

   


「やっぱり、二階にあがってたんやな。なんぼ呼んでも返事がないさかい、おかしいと思てたんや」

 襖を開けたのは、おばあさんだった。


 私は、ノートに目を落とした。

『下宿のおばさんが入ってきて、幻は消えた』 一行だけ書かれていた。

「ここへは上がったらあかんゆうてたやろ。何でおばあちゃんのゆうことがきけへんのん」

 おばあさんは悲しそうだった。


 私は何も答えることができなかった。


 おばあさんは、だまっている私の手元を見てきいた。

「勉強してたんか?」

 私の持っているノートを私のものと勘違いしているらしい。


 私は、ゆっくりノートを閉じた。

「何もないのに、どうしてここへ来ちゃいけないっておばあさんはいったの」

 私は聞いた。

「何もないって……。ほんまに、美弥ちゃんはここにいても、何にも感じひんの?」

 おばあさんは、部屋をぐるりと見わたした。


 ああそうなんだと私は思った。やっぱり、おばあさんもこの部屋の淋しさを感じてたんだ。


 私は、何も感じないとうそをついた。

「そうか。私の思い過ごしやったんかな」

「何?」

「なんやしらん、この部屋に入ったら、気持ち悪うてなぁ。どことのう淋しい感じがしてくるんや。そんな感じを美弥ちゃんに感じさせとうなかったんや。それでのうても、淋しい思いさせてるのになぁ」


「それは、ここに住んでた人に関係があるの?」


「そうやと私は思てる。美弥ちゃんがいつかいうてたように、この部屋には学生運動に明け暮れたはった女の学生さんがやはったんや。かわいい娘さんやったけど、時代がそんな時代やったんやろなぁ。娘さんのお父さんもお母さんも、そら、えらい心配したはったらしいけど、いえば言うほど頑なになっていかはったんやて。私は高校生やったからよう知らんけど、最後には幻まで見はったらしい。そんなこんなで、気がついたら、いやはらへんようになってしもたんや。ご両親は今に帰ってくると思うというたはったけど、私はもう、この世にはいやはらへんと思もてます。鴨川にその学生さんの靴が浮いていたという噂も聞いたし……。そんなことがあって、もう、おばあちゃんのお母さんもこの部屋を人に貸すのはいやになってしまわはった。それから、ここに入ったら、淋しい気がしてかなんかった。なんぼ掃除してもなんぼ空気を入れ換えてもあかんかった。ほら、あの壁のしみもな、なんでかしらん塗り直しても塗り直しても浮かび上がってくるんや。人が使わへんかったんが悪かったんやろかなぁ」


 私はふと、あのお姉さんは幽霊だったのかと思った。お盆でこの部屋に帰って来たのかと思った。おねえさんはあの後、淋しさに負けてしまったんだろうか。


「部屋が淋しがってたんかもしれんね」



 夕方、おばあさんと私は鴨川の土手に大文字送り火を見に行くことにした。

 私は、おばあさんの作ってくれた浴衣を着て首にベビーパウダーをつけられた。


「こんな白い首、はずかしいわ」

「なにゆうてんの、浴衣を着たら、てんかふをはたかなあんのや」

「おばあちゃんつけてへんやん」

「大人はたかんでもええねん」

 おばあさんはすましていった。


 土手の上は見物人で身動きもできないぐらい人でいっぱいだった。

 突然、私の肩に手が置かれた。びっくりして振り返るとママが立っていた。

「ママ!」


「美弥。ごめんね」

 ママが申し訳なさそうにいった。


「ママ、昨日は、どうして私に何もいわないで帰っちゃったの? 私がどんなに淋しかったかわかる?」

「え? わかってる。わかってる」

 ママは私の手をぎゅっと握った

「ごめんなさい。それをあやまろうと思ってまた来たの。ママ、どうしたらいい? 美弥がママといっしょの方がいいというなら、いっしょに帰ることも考えてるわ」


「今さらそんなこといっても、私は帰れないわ。こっちにはおばあさんがいる。ママとだけで私は生きてるわけじゃない。ただ、これだけは守って。何があっても、昨日みたいに、私に黙って帰ったりしないって」

「わかった。あれは、私が悪かった」


「美弥ちゃん、えらい強なったなあ」

 おばあさんが目を見張った。


 ママは、ぺろっと舌を出して、おばあさんに頭を下げた。

 周りの人たちが「わあー」と歓声を上げた。


 真っ暗な空にぽつんと明かりがついた。大の字の所々に火がついていく。

「火がついた」

「うん」

 点だった火が徐々に大という文字になっていく。

 周りの人たちは、スマホでその様子を取っていた。大という字に真っ赤に燃え上がると、その人達も不思議な荘厳さに魅入られたのか静かになっていった。


「ミヤ」

 私は後ろから呼ばれたような気がして、振り向いた。

 そこには、白髪のおばあさんが二人並んでいた。


 一人のおばあさんがいった。

「結局、人はひとりなんだよね」

 もう一人のおばあさんが答えた。

「そうね。でも、私は今でも、人は結局ひとりだって言い切ることはできないなあ……」


 私は、そういった人の顔を見つめた。その人も、私を見返した。


 ざわっと人の波が動いた。


 大の字が薄くなっていく。


 私は周りの人々に押された。


 その人も、何か言いたそうにしながら人の波に押し流されて行った。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           



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うなぎの寝床にはうなぎの時が刻まれる 麻々子 @ryusi12

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