第7話 2
くらっと目まいがして、たたみに手をついた。
「やっぱり来たね」
机の前に座っているお姉さんが、こちらをふりかえった。
あたりを見回すと、さっきまでいたおばあさんの家の二階だった。
お姉さんの左手首から血が流れていた。右手には薄い金属の刃が見えた。
「何してるの!」
私は、お姉さんの右手にとびついた。お姉さんの手から、力無く金属の刃がおちた。
「こんなことしたら、死んじゃうじゃないの」
私は、畳の上にぬぎすてられていたTシャツでお姉さんの手首をおさえた。
お姉さんはじっと私を見て「カミソリの刃を返してよ」といった。
「これのこと?」
私は、さっきの金属の刃を見せた。
「そうよ。それを返して」
お姉さんは、カミソリの刃を奪い返そうとしていすからころげおちた。
「だめ」
私はカミソリの刃を隠し、お姉さんの手首をTシャツでくくった。お姉さんは、カミソリの刃のことはわすれてしまったのか、自分の切った手首を静かにおさえていた。
お姉さんは何もしゃべらない。机の上の置き時計だけが、コチコチと音をたてていた。私はへやの空気を変えたいと思った。あの窓を開けたい。開けてこの部屋の空気を全部入れ換えてしまいたい。
ふっと、朝、おばあさんが話していたことを思い出した。
「今夜は大文字の送り火だってね」
私が声をかけると、お姉さんは不思議そうに首をかたむけた。
「私のおばあさんがね、昔は屋根にのぼったら大文字が見えるっていってたよ。おねえさん、屋根にのぼろうよ」
私は、おねえさんの部屋の窓を勢よくあけた。身体が半分外に出るように身を乗り出して、私は外の空気を吸った。外はもう暗く白い月が見えた。
「大文字は、まだ先だよ」
お姉さんが後ろでつぶやいた。
私は、しまったと思った。おねえさんの時代と私の時代をいっしょに考えたのがまちがいだった。いったい、今は何年何月何日なんだろう。
「さっき、やっぱり来たねっていったよね」
私は、話を変えるようにいった。
「ああ、いったよ」
「私を呼んだの?」
「そんなわけ、ないじゃない」
「じゃ、どうして私が来るのが分かったの」
「あんたには、わからないの?」
お姉さんは、当然知っているはずだというように、私をみつめた。
「わかんないよ」
お姉さんは、私が何を知っていると思っているんだろう。
「私が、寂しくていてもたってもいられなくなると、あんたが現れるんだ」
つくえの上の灰皿には吸い殻がやまになっていた。その横にはうす茶色の液体がはいったガラスのコップがあった。
「手首、カミソリの刃で切ったら、あんたが出てくるんじゃないかと思った。そしたら、やっぱりあんたはあらわれた。あんたは、私の作った幻、なんだ」
「ちがうよ。私はお姉さんに何か作られた幻なんかじゃないよ」
「そうだ。あんたには、そう答えてほしかったんだ。やっぱり幻なんだ」
お姉さんは力の抜けた青白い顔で、うれしそうににっこり笑った。
「嫌な感じ。幻じゃないっていったら、やっぱり幻だなんていうんじゃ、話にもならないわ。それに、私を呼ぶためにそんなあぶないことしたなんて、信じられない」
私は、むっとした。
お姉さんは、もう私の言うことなんか聞いていない。
「ねえ、なんでこんなに淋しいんだと思う」
お姉さんは力無くつぶやいている。
「そんなこと、私に聞かないで。お姉さんの方が大人なんだから、私に教えてよ。私だって淋しいんだもん」
「そうなんだよな。私はもう大人だから、そういう答えもみつけていなきゃならないのに、何してんだか……」
がくっと頭をおとし両手で抱えた。お姉さんが、急に小さくなったようだった。
「一つだけいってもいい?」
私はお姉さんに声をかけた。
「どうぞ」
「お酒とタバコは、やめたほうがいいと思うの」
私は、ママにいいたかった言葉を口にした。
「うん」
お姉さんは、すなおにうなずいた。でも、それがどういうことなのか、今のお姉さんには分かっていないようだった。お姉さんはうなずくと同時にお酒の入ったコップに手をのばした。
「だめだ」
私は、コップを取り上げようとした。
おねえさんの手が私の手をさけようとして、ふりあげられた。コップからお酒が飛び出し、壁に振りかかった。てんてんと茶色の水玉模様になってゆく。まるでスローモーションのようだった。私は、このしみはこうしてつくられたんだと、ぼんやり考えていた。
お姉さんは、泣き声をだした。
「ああ、お酒、こぼれちゃったよう。もう、コップにはもどらないよう。ねぇ、どうしたらいい? どうしたらいい? 教えてよう」
お姉さんは、私をぼんやりとした目で見ていた。
「あんた、どうしてここにいるの?」
お姉さんが聞く。
私は「お姉さんなんか嫌いだ」と大声で叫びたくなった。けれど、口を結んでじっとお姉さんを見つめていた。
私が答えずにいると、もうどうでもいいというように自分の手をながめ、手にかかったお酒をなめた。お姉さんの中指と人差し指の内側は黄色くなっていた。
「私、お姉さんが呼んだから、急いでここに来たのよ」
「何で、私があんたを呼ばなきゃいけないの?」
お姉さんの目はどこを見ているのかわからない。
「お姉さんが淋しいっていったから。助けてっていったから」
「そんなこと、いわない」
「聞こえたの」
そうだ。私はずっとその声を聞いていた。ノートの表紙に殴り書きされた言葉。
「あんた、だれ?」
ふっと一瞬、お姉さんの目が私を捉えた。けれど、またどこかにさまよって行ってしまった。
「きっと、お姉さんがこれからどうするのか一番気になってる女の子だと思う」
「あんたは、昔のこどものころの私?」
もう一度お姉さんの目が私に帰ってきた。目を細めて私を見ている。
私は、違うよ、と答えたかった。けれど、私がお姉さんの昔の姿だって少しもかまわないんじゃないかと思えてきた。
「ねえ、京都の町屋ってうなぎの寝床っていうの知ってる?」
お姉さんは突然話を変えた。
「知ってるよ」
「うなぎって風だという話しがあるんだよね。でもさ、私、風より時間かもしれないって思うんだよね。時間が家の中を流れていくの。過去と未来。あんたと私」
お姉さんは、ふーっと息を吐ききった。
「もしも、いま、私が死んだら、……、あんたも殺すことになるのか。そして、未来の私も?」
私は、このお姉さんの姿が、大学生になった私の姿かもしれないとふっと思った。大学生になっても、私はこんなにも淋しくって、辛い思いを、繰り返しているのかしら。手首を切り、私は本当の大人にはなれないのかもしれない。
「私は大人に成れないの?」
私はお姉さんに聞いた。
お姉さんは瞬きもしないで私をじっと見つめ続けている。
そして、突然、お姉さんが私を抱きしめた。
「ごめんよ。ごめんよ。こんなに寂しい思いをさせて。こんなに、寂しがり屋で甘えん坊なのに愛してあげなくってごめんよ」
お姉さんは泣いていた。お姉さんの腕の中はあたたかかった。私は、お姉さんの背中に手を回して力を込めた。はじめてこの部屋に入ったとき、私が私を抱きしめたようにお姉さんを抱きしめた。
「死んじゃいやだ。死んじゃいやだ。私だって大人になりたいよう」
私は叫んだ。
お姉さんは、声を出さず、何回も何回もうんうんとうなずいている。
どれぐらい時間がたったんだろう。ふっと、何かが聞こえたような気がした。私は耳をすました。すると、襖の向こうで階段を上ってくるギシッという音が聞こえた。
私はお姉さんに小声で「隣の人がかえってきた」といった。
「ちがうよ。今、この下宿には私一人だもの。きっと、下宿のおばさんだと思う。このごろ私の様子がおかしいから、気にしているんだと思う。幻とはなしている私は、確かにおかしいよね」
お姉さんは、まだ私を自分の子供の頃の幻だと思っているようだった。
上がってくるのは、お姉さんが言うように、私のおばあさんだろうと思う。でも、何時の時間のおばあさんなんだろう。おねえさんの時間のおばあさん。それとも、私の時間のおばあさんなんだろうか。
時間のそれぞれ違う人間が出会った時、私たちはどうなってしまうんだろう。
階段のギシギシが近づいてくる。私はどうすればいいのか分からず、からだが震えだした。
何かしなければ。でも何をどうすればいい?
わけがわからないまま、私は叫んでいた。
「ノート、ノートがいるの……」
言い終わらないうちに、「ここ、開けますえ」おばあさんの声がした。
「だめ!」
同時に襖が開いた。
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