第7話 1

     


 ママが帰ってしまったその夜。私はハサミをさがした。机の引き出しの一番奥にあった。二階の不思議なお姉さんに会ってから、紙切り遊びを忘れていたことを思った。紙を切ろうかと思ったけれど、明日、またお姉さんに会いに行こうと思うと、もうそんな遊びはどうでも良いような気になった。私は、ハサミをもとにもどし、そっと引き出しをしめた。

 次の日、朝から私はおばあさんが外出するのをまっていた。けれど、おばあさんは少しも出かけるそぶりを見せなかった。

 私が、おばあさんの様子をうかがっていると、流しから醤油と砂糖のいい匂いがしてきた。

「何炊いてるの?」

 私は部屋を出て、鍋の中をのぞき込んだ。

「あらめとお揚げを炊いてるや」

「あらめって何 ひじき?」

 私は、お鍋の中の黒い物を見て聞いた。

「ひじきにようにてるけど、またべつのもん。おこぶのように平たい海草をきざんだもんなんや。お盆の十六日にはな、あらめを炊くって決まってるんや。あらめのゆで汁を、表にまいたらお精霊さんが帰っていかはんねん」「お精霊さん?」

「そうや、死なはった人のことや。お盆にこの家に帰ったはった人が帰らはるんや」

「へぇ、追い出すみたい」

「あははは、いつまでもここにいてもろても困るしなぁ。向こうの人は向こうのしきたりにしたごうてもらわなあかん。そやさかい、心を鬼にして、さいなら、いうて帰ってもらうんや」

 私は、京都には面白いしきたりがあるんだなぁと思って聞いていた。でも、私にはしきたりよりもっと知りたいものがあった。

「今日はお稽古は何時から?」

 と私はおばあさんに聞いた。

「きょうは、お盆やし、お稽古は休みや。今晩は大文字の送り火やし、いっしょに鴨川まで見にいこな。昔はな、この家からも大文字さんが見えたんえ。屋根の上にのぼったらよう見えたんや。今はもう、高いビルが建ってしもて、あかん」

「おばあさん、屋根の上にのぼったの?」

「そら、私かて、若いときは屋根ぐらい上りました」

「ひやー、おてんばだったんだ」

「いや、かなんな、美弥ちゃんにおてんばやていわれてしもた」

 おばあさんは、ハハハと楽しそうに笑った。私も笑ったが、おばあさんが家を出ていきそうもないので、おなかの底からは笑えなかった。

 何かおばあさんに用事を頼めないかなぁと考えてみた。学校に行ってもらう用事はないかなぁ。だめだ。学校もお盆は休みだった。「あ、そや。わすれてたわ」

 と、おばあさんがいった。

「何の用事?」

 と、すかさず私は聞いてしまって、口を手で押さえた。

 おばあさんは、そんな私の仕草を怪訝な顔で見ながら、

「今日のために美弥ちゃんのゆかたを、友だちに縫うてもろてたんや。今日取りに行かな大文字さんに間にあわへんわ。あほやなぁ、すっかりわすれてた。年取ったらあかんな。なんぼでも物忘れしてしまう。ご飯食べたら取りに行くけど、美弥ちゃんもいっしょに行こか?」

「いえ、私は、ちょと……」

「何か用事でもあるのんか」

「友だちが来るって……」

「へぇ、もう友だちができたんか?」

「前の友だちが、大文字の送り火を見に来るっていってたから……」

「ふーん、そんならしゃあないなぁ」

 私は、ふっと胸をなぜ下ろした。こんなにもうまくうその話ができるなんて、私も悪い子だわと少し思った。

 おばあさんが出かけた後、私は二階に急いで上がった。そして、ノートの白いページをさがした。


 かすかなめまいと同時に息苦しくなり、私はせきこんだ。何、この砂埃は? 口の中がざらざらする。目も開けていられない。

 やっとの思いで顔を上げ、薄目を開けると、目の前をたくさんの人が走っていた。私の横をすり抜けるようにして、通り抜けていく。ヘルメットをかぶりタオルで顔を覆った人、角材を持った人が、砂埃をもうもうとたてて走っていた。走っているというより何かから逃げているようだった。我先にと逃げていた。

 私がどうすればいいのかわからず立っていると、だれかが私の手を引っ張った。

「何してんの。早く逃げるのよ」

 顔は、ヘルメットとタオルでよく見えなかったけれど声は、お姉さんの声だった。

「でも、私」

「ぐずぐず言ってないで」

 お姉さんは、私の手を引っ張ったまま校舎のような建物の角をどんどん曲がっていく。私は転びそうになりながらお姉さんについて走った。行き詰まりはコンクリートの塀だった。塀のしたに木の箱が置かれていた。お姉さんは箱の上に乗って塀に飛びついた。

「ほら、あんたものぼるのよ」

 お姉さんは私の方へ手を伸ばした。

「えっ、私も」

「あたりまえだよ。何でこんな所にあんたがいるのよ。もう、まったく信じられない。機動隊につかまったらどうするのさ」

 私は、訳も分からずお姉さんの手につかまった。お姉さんは思ったより力が強く私を軽々と引き上げた。

 塀の上にのぼったとき、私は後ろをふりかえった。砂煙の上がっている方を見ると、ヘルメットをかぶった人が黒っぽい制服を着た人に殴られていた。いや、踏みつけられているといった方がいいかもしれない。もう一人は、手や足を持って、ずるずる引きずられていた。

「あ、あの人、怪我……」

「見ちゃ、だめ」

 お姉さんは、私を塀からひきずりおろした。

 降りたところは、草むらの空き地だった。お姉さんは、かぶっていたヘルメットを脱いで草むらに投げ捨てた。

「ふー、これで一安心だ。大学側と打ち合わせができていたのよね。そうでもなきゃあんなに早く機動隊が入って来るわけないものね。まったく……」

 お姉さんは私に見られないように涙を拭いていた。

「機動隊?」

「そう」

「機動隊って、警察でしょう?」

「決まってるじゃない」

「どうして、おねえさんは機動隊から逃げなきゃ行けないの? どうして、あの人はあんなに殴られなきゃいけないの? 悪いことをしたの?」

 さっきの光景を思い出し、私のからだがぶるぶるふるえていた。

「学校側が私たちを暴力学生だと認識してるからよ」

「どうして?」

「あんたにはまだ無理。あんたが大学生になって、社会のことがいろいろ分かるようになったら、私たちが何をしたがっているのかが理解できると思うよ。そしたら、いっしょに戦おう」

「警察と戦うの?」

「そうじゃなくって……、管理社会化した日本の現状に対する……」

 お姉さんはふっと息をはいてくちびるをかんだ。私にはお姉さんが何を言っているのか分からなかった。

「さっきのあの人、きっと怪我しているね。死んでしまわないかなぁ」

 私は、お姉さんを見上げた。くちびるがかすかにふるえている。くるっと背を向け、私を置いてすたすたと歩き出した。私は、お姉さんの後を小走りに追った。

「お姉さんに会いたかったの」

 背中に叫んだ。

 こんな警察と戦争みたいな事をやっているところを見に来たわけじゃない。私は、おねえさんにママの話を聞いてもらいたかったからここへ来たんだ。私を置いて帰っちゃったママのことを聞いてほしかったからお姉さんに会いに来たんだ。

「お姉さん!」

 もう一度、叫んだ。

 お姉さんは、すこし歩みをゆるめた。

「何かあった?」

 私を見ないで、背中を向けたままお姉さんが聞いた。

「ママが私に会いに来てくれたんだけど、おばあさんとけんかして、私に何もいわなで帰っちゃったの。私に会いに来たのに、だまって帰っちゃった。ママは、やっぱり私がじゃまなんだ」

 止まって私のいうことを聞いていたおねえさんは、何も言わず、またどんどん一人で歩きだした。まるで、私のいったことなんか聞こえてないみたいだった。いや、私自身がいることさえ、忘れてしまっているのかもしれない。

 私たちは自動車道を渡り、いつのまにか鴨川の河原を歩いていた。

「ここ、ママがおばあちゃんとけんかしたらいつも来るとこなんだ……」

 私は独り言のようにつぶやいた。

「へぇ、……」

 横に並んだお姉さんの顔が、さっきよりもやさしくなっていた。つり上がった眉毛や目が元に戻っていた。

「あんたね、もう少しママに甘えた方がいいよ。だまって、帰っちゃったら、なんで帰っちゃうんだって怒った方がいいよ」

 さっきの私の話も聞こえてたんだ。

「そうかなぁ」

「あんたを見てると、私の子供の頃を思い出す」

「おねえさんの?」

「そう。母のいうことはなんでもきかなきゃならないと思いこんでいた。勉強ができて、かわいくってスポーツができて、からだは健康優良児。それがのぞみなのよ。いっしょうけんめい私は母のいうとうりに勉強もしたし運動もした。でもね、それは、みんな母自身のためだったのよ。いい大学に入って、あなたの娘さんはいい子ねぇと、母がすべての人からいってもらいたかっただけなの。それが、母の生き甲斐だったのよ。でもね、それってまちがってるの。私は私のために生きなきゃいけないの。母は母のために生きなきゃいけないの。わかる?」

 お姉さんは、らんぼうに私の肩をつかみ揺らした。

「わかんない」

「なんでわかんないのよ。やってられないわ。バカ!」

 お姉さんは、私の肩を突き放した。

「わかんないよ。わかんないよ。私、バカだから。どうしらいいのか、ほんとうにわからいんだ。教えてほしい……」

「ようするにさぁ」

 お姉さんの声が少し優しくなった。

「あんたは、お母さんにもっと甘えなきゃいけないってことよ」

「どういうふうに?」

「いっしょに暮らしたいとか、帰っちゃいやだとか、お母さんにいうのよ」

「そんなことしたら、ママが困るじゃないの」

「ほら、それがいけないの。お母さんが困るのはお母さんの問題であって、あんたの問題じゃないのよ。お母さんはもっと困ればいいのよ。そうしないと、あんたの心が壊れちゃうよ。大人はね、あんたが考えているよりずっとずるいの」

「お姉さんも?」

「たぶん……、そう思う」

 お姉さんはクルンと私に背を向けて、すたすたと歩き出した。まるで、あんたなんかにかまっていられないといわれたようだった。

 向こうから来た二人連れの女の人がすれ違うときに「ミヤじゃないの?」と声をかけてきた。

 お姉さんは聞こえていないのか、どんどん歩いていく。

「お姉さんの名前はミヤ……?」

 私はめまいを感じた。

「あれ、ミヤだったよね」

 女の人がもう一度いった。

「うん。そうだったよ」

「聞こえてないのかしら?」

「というより、聞いてないんじゃないの。このごろあの子、変なのよ。何を話しても、大学の民主化とか、そんな話にもっていくのよね」

「で、学生運動の幹部だった彼氏も逃げちゃったとか?」

「そういううわさよ。あの子、結局はだまされたのよね。かわいそうに」

「ちょっと、彼女、危ないんじゃない」

「うん。多いに危ない感じ」

 私は立ち止まり、話し声を聞いたいた。


 ひざ上のノートがひざから滑り落ちるのを感じた。私は、部屋に戻ってきていた。ノートの書き込み。


 『人間が機械にならないためには、国家権力との対決しかのがれるすべがないんだ』

 

 私は、もう一度どうしてもおねえさんに会いたくって白いページをさがした。ページをどんどんめくっていく。目の前に真っ白のページが現れた。


 暗い。周りは真っ暗だった。

 私はどこに立っているんだろう。何かの建物の中だとはわかる。アンモニアの匂いがきつい。トイレかもしれないと私は思った。目がくらやみに慣れてくると、いくつもの個室がならんでおり、やはりトイレだということが分かる。けれど、床は水浸しだし、ドアも割られているかはずされていた。便器も手洗いも壊されている。ここはいったい、どこなんだろう。

 私がキョロキョロしていると、お姉さんの声がした。

「これが、大学なんだ」

 私は、お姉さんにかけよった。

「ここが、大学の中なの? なんで、こんなことになってるの?」

「機動隊に投石するために壊されたんだ。これが闘争……」

「トウソウ? 何なの? おねえさんは、いったいここで何をしているの?」

「わからない」

「私、恐いよう」

「恐い? うん。私も恐い。こんな現状。何のために、なぜ? これが、私の信じる闘争だったのかしら? 学校を破壊すれば、社会が変わると私たちは本気で思っているのかしら」

「お姉さん。お姉さん。どうしちゃったの」

 私がお姉さんのからだを揺すると、細いからだがふらりとゆれ、倒れた。


 お姉さんのからだの重みを手の中に残したまま、私は部屋の中に帰っていた。ノートには書き込みがあった。


『全共闘大会はお流れに。良く事情は知らないが、中心メンバーがどこかへ雲隠れしてしまったらしい。当然、あの人も、私のことなんかゴミでも捨てるように、どこかへ行ってしまった。私たちは何を信じ合っていたんだろう。いや、私は何を信じていたんだろう。

 久しぶりで大学へ入ったが破壊され尽くしていた。

 なぜ、私は自殺しないのだろうか。しょせんむなしいことだと私は知っている。権力と戦うなんてことは、むなしい抵抗に過ぎない。なぜ私は生きていくのだろうか。生きていてなにになるのか。こんなむなしい世の中、生きてることに意味はあるのか。ああ、ねむりたい。ただ、ねむりたい。だれか、助けて。助けて』


 自殺? いやだ。お姉さんは死んじゃだめだ。

 私は急いで次の、白いページを探した。早くお姉さんの所へ行かないといけない。あせってページをめくったが、手が震えてうまくめくれない。

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