第34話 さよなら

 いつか自分の葬式が行われるとすれば、それはこんな風景になるんだろうか。


 相変わらず急送会社P.A.S.Sでバイク便ライダーの仕事に励み、時間の流れの速い日々を過ごしていた小熊は、帰路で竹千代から連絡を受けた。

「本日の夕刻、小熊君の家に行ってもいいだろうか? 君に是非渡したいものがあるのだが」

 その日の小熊は仕事で少々疲れていた。内容はある市民体育館で行われるバレーボールの試合会場で急にボールが足りなくなったので、そこらのスポーツ用品店では売っていない競技規格のボールを届けて欲しいという内容。


 荷請け先の手作りボール工房の隣市だったため、電車輸送のハンドキャリーは使わずカブで直接届けたが、チーム内に急遽欠員が出たらしく、カブが新製品として発売された頃からバレーをやっていたらしきお嬢様方によって競技に引っ張り出され、ウェアを着てバレー大会に出場することになった。

 正直なところこちらのチームも相手方も歩行や会話すらままならぬ様だったため、半ば介護と事故防止のケアのため参加したと思っていた小熊は、ホイッスルが鳴った途端、老婆達のプレイに圧倒された。


 声で指示せずとも気心知れた関係の女子たちが鋭い掛け声だけで意思伝達しながら行う連携プレイに、セッターの小熊はついていくのがやっとだった。

 このお婆さん達の世代は、娯楽といえばひたすらお喋りをすることしか無かったらしい。今はこのお婆ちゃん達も親しんでいるスマホやネットなど無かった頃、目の前の相手と顔を突き合わせ、飽きもせず喋り続ける女学生たちの、人間に存在しないと言われてる能力があるのではないかというほどの以心伝心に、人と話すことが正直嫌いな小熊が敵うわけなどない。

 次はビーチバレー大会をやるので是非参加してほしいという求めを丁重に断り、撮影フリーのきわどい水着姿を見てくれない事をしきりに残念がっていた、永遠の青春を生きる女学生たちを背に会場から退散した小熊は、いささか気疲れしていた。


 今から帰って客を迎える準備をするのは面倒臭いので、合い鍵の場所を教えて勝手にやってて欲しいと伝える。

 鍵を渡せば翌日には合い鍵より高精度な複製品を作ってくるような女だが、世の中には鍵なんて物が意味を成さない女が居る。

 小熊の家にある今の玄関ドアは一度取り換えられていて、前のドアは小熊が部屋の中で急病を起こし、倒れたことに気づいた竹千代が一発で蹴り破っている。

 竹千代は耳につく忍び笑いを浮かべながら「お帰りをお待ちしているよ」と言って電話を切る。


 先月小熊の家に来たばかりの竹千代が、またしても来たがる理由はわかっていた。今日という日、六月六日に小熊は誕生日を迎える。一九五〇年代に本田宗一郎氏が戦後復興期の新参メーカーとしては無謀とも言える二輪世界GPレースへの参加を宣言し、後にそれを実現したホンダがマン島で行われた選手権に初参戦した記念すべき日だと礼子に教えて貰った記憶がある。

 誕生日だからといって小熊としては、冥途の旅の一里塚をいちいち祝う気など無いし、どうせ竹千代は小熊の誕生日にかこつけて自分の家のホームバーで一杯飲みたいだけだろう。早く帰らなければ自慢のブッシュミルズのボトルを飲み干されてしまうと思いながら帰宅したところ、小熊は自分が予想していなかった物を見る事となった。

 平屋とコンテナと広い敷地があって、両隣には誰も手入れしに来ない畑と誰も遊びに来ない公園があるだけの小熊の自宅に、祭りか何かのように人が集まっていた。


 小熊のガレージにある作業灯と、買った覚えの無い高輝度サイリウムのウルトラオレンジで照らされた、庭ともいえない砂利式のスペースに、キャンプテーブルと椅子が並べられ、家の中には到底入り切らない数の人達が、小熊の到着に歓声を上げる。

 顔ぶれはみんな小熊の知っている人間だった。椎とそのフットサル仲間、椎の父母、中古バイク屋のシノさん、富士登山で世話になった山小屋主人とバイク雑誌編集者。骨折入院した時の同室者たち、浮谷社長とバイク便仲間。解体屋の棒人間とマルーンの女、黒姫の分校教師生沢、甲府の女教師と医療品検査会社の社長、慧海の姿を見た小熊は思わず駆け寄ろうとしたが、史とあまりにも睦まじい姿に足踏みする。史の父も居た。横に置いている大きなトロンボーン・ケースを見ただけでここで何をやらかそうとしているのか明白だが、苦情の来るような人家は近くに無い。平屋の背後に広がる墓場から野次の一つも飛ぶかもしれない。卒業後疎遠だった担任教師と籍だけ置いていた部活顧問も居る。フルーツパーラーの風戸とパヴァロッティ似のパティシェの横にP.A.S.Sの面々も居た。仕事であれプライベートであれ酒席には一度も出たことが無いと聞いた葦裳社長が居る。レシーバー越しには何度も声を聞いたが、顔を見たことは一度も無いオペレーターは、仕事中の快活でハイテンションな声が嘘のような、地味で薄幸な見た目の眼鏡女子。

 小熊がカブに乗ることで得た知己。自分の力で手に入れたというのは自惚れ過ぎだろうかと思ったが、誕生日くらいいいだろう。


 小熊はおそらくそれらを采配したであろう竹千代の顔を睨みつける。自分に何かサプライズなバースディプレゼントがあると匂わせたくせに、よくもここまで口先だけで懐の痛まない物を集めた物だと。

 テーブルの上には酒とソフトドリンクが並べられ、各テーブルの脇では大概の家で埃を被っているバーベキューグリルで肉が焼かれている。小熊も皆の人となりは知っている。こういう催しがあると大喜びで自慢の食材を持ってくる人ばかり。あのダッチオーブンと呼ばれる鋳物の直火オーブンで焼かれた馬鹿でかいローストビーフは、ブリティッシュライフスタイルを貫いている生沢が持ってきた物に間違いないだろう。テーブルの上にもそれらしきハイランド・スコッチのボトルがあり、その中に小熊を引き寄せる誘蛾灯のように、日本では手に入らないマーフィーズ・アイリッシュ・ウイスキーが鎮座している。

 アニメキャラがそのまま現実世界に現れたような、何とも可愛らしい女の子が、料理の盆を持って小熊の家から出て来た。よく見たらカフェテリア学食の無愛想なウェイトレスだった。仕事中よりおめかしした赤毛の少女は小熊を顔を見てプイっと横を向くが、そんな仕草も昼間より愛嬌がある。


 小熊も開いてる席に座り、肉やグリルで焼かれた野菜を食べ、炭酸水を飲み始める。高価い肉が概ね無くなった頃、礼子のカブの爆音が聞こえてきた。相変わらず大事なところで間が悪い。

 酒と肉の消費量という意味では盛大なパーティーが終わり、皆が運転を代行業者に任せたり、徒歩でもそう遠くない南大沢駅前のホテルに向かった後、小熊と竹千代は自宅バーに並んで座っていた。

 春目は毛布に包まって床で寝ている。寝室の温かい布団で眠るより、なんとか凍死せず、獣に食われず朝を迎えらえそうな、極限の中でやっとありついた眠りを貪っている時に近い状態のほうが安眠できるのかもしれない。今夜の夢見は悪くないらしく、さっきの肉を反芻するように口をもぐもぐさせ、だらしない寝顔を浮かべていた。

不幸を汚泥で固めたような高校時代を過ごしてきた春目も、今夜小熊と縁ある人達と話したのはいい経験だったらしい。小熊の知った面々の中には、それくらいの不遇などスナック感覚で味わってきた人間が少なからず居て、少なくとも異性にモテていた人間は一人も居ない。


 竹千代は立ち上がり、洗面所の氷で冷やしていたテタンジェ・ブラン・ド・ブランのボトルを差し出した。

「日本の法律では、その実地運用に置いて、未成年が成人の監督下で、社会勉強の範囲で飲酒することは慣習的に処罰の対象外だ、どうかな?」

 大学関係者から法学の教授の知っている事は既に全て知っていると言われた経営学専攻の竹千代が差し出す、一本二万は下らないシャルドネの最高級銘柄を小熊は手で押し戻した。

「法律なんて関係無い。特に恣意で幾らでも忖度し誰でも捕まえられる類の法は、わたしはカブでブっ飛ばしたい夜に酒は飲まない」

 小熊はテタンジェと共に冷やしていたスパークリング・ミネラルウォーターのボトルを手に取り、自分でグラスに注ぐ。横で酔っぱらわれても困るので竹千代のグラスにも炭酸水を注ぎ、先ほどまでの客が飲みかけで置いて行ったブッカーズのバーボンを、匂い付け程度に注ぐ。それらの置き土産で、ブッシュミルズとグラッパしか無かったバーの酒棚が、一気に賑やかになった。


 薄いハイボールをやや物足りなそうに飲んでいた竹千代は、並ぶ色とりどりの酒瓶越しに見えるキッチンの灯りを眺めながら言った。

 「そういえば小熊くんは、今日何歳になったのかな?」

 自分もこの炭酸水に何かちょっと垂らすかと思ってた小熊は、特に意識することなく答える。

竹千代は知らない事を人に聞くということをしない。自分で口に出して自ら確認させるための問いだろう。

「十九歳」

 意識していた時は何の感慨も抱いていなかった言葉が、小熊の胸に刺さってきた。世間では大人と子供の境目を十八歳だの二十歳とか、童貞の三十歳などと決められてるが、小熊は今、自分が大人になった気がした。


 無論それで今までカブで過ごした時間、カブでやってきた事を終わらせる気など全く無い。次は作業を効率的に行うサンドブラスト設備と油圧プレスを導入しようと思っているし、プラズマ溶接の機材やフライス盤も欲しい、とりあえず今は懐に余裕が出来たので、練馬で見かけた排気ガス規制前のC50の掘り出し物を、カスタムベースとして押さえておこうと思っている。コンテナの壁も塗り替えたい。


 学びと成長の時期が終わりを迎え、ずっと望んでいた人並みの生活を手に入れ、これからは社会の中で責任を有した一人の人間としての時間が始まる。

 竹千代は小熊が「大人」を自分の中に飲みこむ好機を見逃さず、グラスを持ち上げた。

「乾杯だ」


 小熊はもう半分ほど飲んだ炭酸水のグラスを指でいじくりながら答える。

「何にだよ。何一つ目出度い事なんて無い」

 竹千代はたった今小熊が自覚した事を見透かしたように言う。

「じゃあ、さよならだ」

 竹千代の声を聞いた小熊の目から涙が一筋落ちる。もう一筋、やがて涙は止まらなくなった。

「どうやら本当にさよならみたいだ 残念なことに、乾杯」

 小熊は竹千代と軽くグラスを当て、残っていた炭酸水を飲み干した。

 鳩時計のような気の利いた物の無いバーで、竹千代のスマホが午前零時を告げた。

 小熊は涙を流したままテタンジェのボトルに手を伸ばしそうになったが、手に持ったグラスをじばらく眺め、そのまま窓の外に投げ捨てた。薄く繊細で壊れやすいグラス、が遠くで音を立てて割れる音がした。

 カブと過ごした小熊の、一億分の一の青春が終わる音がした。


 小熊の人生が、これから始まる。

 

<終>

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スーパーカブ8 トネ コーケン @akaza

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