6 野原で
新しい季節がはじまっていた。四時には日が傾きはじめ、嫌われ者のヒヨドリも山の寝ぐらに帰る。
未名は気分が良かった。朝食のサンドイッチとジュースも、昼のカレーライスも残さずに食べ、デベンの好きだった「可愛いアウグスチン」のメロディーが時々口の端にこぼれ出た。準備は整った。外に出ても寒くないようにスカートからズボンにはきかえ、一張羅の白いセーターに星座がらのチョッキをはおり、ポケットにはボールを入れて待っている。ズック靴も履き終えた。母の監視は厳しかったが、もうすぐ夕刊を取りに出るだろう。未名が居間や食堂にいる時は用心していったん新聞を置きに戻って来るが、二階の子供部屋に居れば、ついでに横手に回って鉢植えのクリスマスローズに水やりするはずだ。わずかな隙だが、未名が部屋を抜け出し、忍び足で階段を駆け下りて裏戸から出て行くには十分な時間がある。四時十分。ほら、玄関で音がした。
未名は素早く立ち上がり、気配を計ると階段を駆け抜けて、計画通り、まんまと外へ脱け出した。
そのまましばらく駆けて行く。成功だ。なんて気持ちの良い風だろう。その後(あと)をひそかにつけてくる母がいることなど知る由もない。
暮美には、未名の企みがわかっていた。いつになく機嫌の良い昨晩からの様子に不審を抱き、玄関からスニーカーが消えているのを見て、逃げ出そうとしていることを見抜いていた。そのままやめさせることもできたが、暮美は娘の行動を観察したかった。一人になったとき、娘の顔をした未名がどうするのかを我が目で見届けておきたかったのだ。
立ち止まった未名がポケットからボールを取り出す。一度しか使ったことのない緑色のデベンのボールだった。
「行こ!」
未名はボールを握りしめ、日暮れの田舎道をスキップして行った。後になり先になり、振り向いては追いかけて、嬉々とした笑顔ではしゃぎながら、見えないデベンと野原を目指した。
休耕地跡の広く開けた草むらがふたりの場所だった。壊れた納屋の物かげに身を隠し、暮美は娘を見まもった。
踏まれて禿げあがった畦道から未名は野原にとび込んだ。野原のまんなかには短い下草が一面に枯れ残り、もっと奥のすすきや麒麟草の茂みの間から、消え遅れたコオロギたちの羽音が心細く漏れている。
「デベン」
無人の草はらに弾んだ声が上る。
「行くよ」
未名はボールを少し先の地面へ投げた。しばらく待って「だめねぇ」と顔をしかめて見せる。
「追いかけるだけじゃダメよ。とって来なくちゃ」
それから自分で拾ってきて、もう一度、ボールを示して見せた。
「いい?行くわよ。それっ」
今度は少し遠くへ投げた。ボールは山がたを描き、空中で一瞬何かの光に浮き上がってまた草かげの向こうに落ちて行く。
「あぁ、まただ …」
未名は途中まで歩いて行き、しゃがんでデベンを出迎えると、両手の指先で相手の首をかきなでる仕草をした。
「いいのよ」
未名はやさしく立ち上がった。
「そのかわり …」
見つけたボールを拾い上げると急に悪戯な笑顔に変った。
「取って来ないと晩ご飯は抜きよ、それっ!」
力いっぱい手から放たれたボールはずっと向うの茂みのどこかへ吸い込まれて行った。
「ほら、がんばって」
それきり、いくら待ってもデベンは帰って来なかった。
「デベン?」
未名があたりに呼びかける。
「デベン、どこ?」
ボールの飛んで行った方向を探りながら、未名は懸命に不安を抑えた。
「ボールはもういいわ」
茂みの奥をのぞきこみ、顔や手に無数の切り傷ができるのもかまわずに、すすきをかきわけ、麒麟草を押し払う。
「デベン!」
姿を見つけられず、今度はそっぽの方角や、まさかの場所までのぞきこむ。幾度も幾度も同じ所を確かめる。
だが野原中さがしまわってもデベンはいなかった。
未名が突然泣き出した。
野原のまんなかに独りぼっちでへたり込み、唸るように嗚咽を吐き出した。
「未名」
暮美はたまらず納屋の陰から出て行こうとした。
その時、未名が泣きやんでふと後をふり向いた。
見ると、小さな男の子と女の子がおそろいの浴衣着で立っています。
「あ、ここにいた」と、男の子。
「見ぃつけた」と、女の子。
けれど未名は涙がつかえたまま、まだ返事ができません。
「しっぽのない子がひとりと」と、男の子。
「とさかのない子がひとり」と、女の子。
それからいっしょに、
「ぜんぶでひとり見ぃつけた」
ふたりがちっともなぐさめてくれようとしないので、未名の涙はだんだん乾いていきました。
「迎えに来たの?」
「帰ろ」と、男の子。
「帰ろ」と、女の子。
ですが、未名はゆっくりかぶりをふりました。
「ダメよ、デベンをさがさなくちゃ」
「それならいるよ」女の子が言います。
「あそこの茂みのうしろだよ」と男の子。
見ると、うす闇をまといはじめた野原のいちばん端っこに、背の高い草むらがぽつんとひとつ残っていました。未名は立ち上ってさがしに行きます。
「未名」
暮美がたまらず物かげから出て行こうとしたとき、立ち上がった未名が誰もいない野原を横切って、畦のはずれに立つひときわ背の高い草むらの方へ歩んで行った。
「デベン!」
茂みに屈み込んだ未名が突然叫んだ。
「悪い子、何て悪い子!」
突き上げる歓びに声がつまる。
「わざと隠れていたのね」
未名は両腕をいっぱいに広げて草かげの何かに微笑んだ。
「さあ、おいで」
だが、出てきたものを見た母親は、恐怖の金切り声を上げた。
(終)
野原で 友未 哲俊 @betunosi
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