5 事件
寝息をたてはじめた未名の首もとに毛布をかけなおし、羽根ぶとんを重ねると、暮美はしばらくその寝顔をのぞいていた。起きている時のどんな表情よりも、寝ている未名の顔は愛おしい。今、この世のあらゆるきまりごとから解き放たれて、この子は話の続きを無心に辿っているのだろう。
数日後、伯父が死んだと知らせがあった。
その晩は肌寒い雨になった。ふと目覚めた未名の耳に足音が聞こえていた。そんなはずはないと耳を澄ますが、足音は雨のなかを確実にゆっくりとやって来て、家の前でぴたりと立ち止まる。と、泡だらけの裂けた口から牙を剥き出し、目を血走らせた狂犬たちの蒼黒い姿が、暗がりから突然、自分に迫って来るのがわかった。それが現実ではないと自分に言い聞かせ、必死に瞳を見開いて、イメージを振り払おうと部屋の闇に目をこらせばこらすほど、狂犬たちはますます確かな形を結び、未名は息を吐くことさえできずに、身を強張らせた布団の上で朝まで怯え続けていたのだった。
未名はとうとう葬儀に出なかった。デベンを失った心に伯父をしのぶすき間はなく、結局、暮美だけが雨上がりのまっさらな青空に抱かれた伯父の棺(ひつぎ)をわびしく見送った。それがこの秋、最後の晴天だった。
翌日、空が気配を変えはじめた。朝方から、形のない鉛色の暗雲が田畑や家々の背後へ次第に忍び入り、昼まえにはその年はじめての木枯らしになった。沿道や庭の梢に残っていた枯葉や黄葉たちが、時折ざわめきをたてながら足早に旅立ちはじめ、地面はこの数ヶ月のあいだ蓄え続けてきたぬくもりを一気に手離して行くようだった。大気からも芳醇で爽やかな甘い香りが消えて行った。
母は隣家で麻紀の母親と話していた。未名はひとり残されて、二階から、薄気味悪く変って行く下界の様子を見ていたが、窓の向うに黒いひとつの人影を認めて息を止めた。人影は無気味に光る空を背負って深々と帽子をかぶり込み、まとったコートの裾を暗く風になびかせて道端にたたずんでいた。どこかで遠雷が鳴っている。死神だ、と未名は思った。
「雷だわ」暮美は憂鬱につぶやいた。
「昔から苦手なの」
「わたしもよ」
入れたてのダージリンをひと口すすって相手は天井に目をやった。
「なのに、麻紀ときたら雷が鳴るとはしゃぎまくるんだわ。そこら中、跳び回って家からとび出しかねない勢いよ。ほら、上でドンドンやってるでしょう?」
相手はもうひと口、茶をすすると少し声を落してたずねた。
「それで未名ちゃんにはいつ会わせるの?」
「きょう、これからよ」
「まあ」ある程度は予想していたが、下ろしたカップが皿に触れて音をたてる。
「早過ぎない?デベンや伯父さんのことがあった直後だし、もう少し落ち着いてからにすれば?」
「そうしたくてもできないの。仕事の都合できょうを逃すと半年は先になるから」
「大丈夫かしら?」
陽子の指がカップの持手を細かく弄っている。
「それに、未名ちゃんより、あなた自身は覚悟を決めたの」
「えぇ、今度は未名とフィンランドへ行くわ」
暮美は別れた夫との再婚を望んでいた。未名にはやはり父親が必要だと感じている。量次(りょうじ)の側も前向きだった。もともと憎み合って別れた二人ではない。パイロットだった量次が日本の航空会社を見限って、勝手に北欧の会社に移籍し、何ヶ月ものあいだ帰国できない状態が続くことになるため、生活の見通しが立たなくなったのだ。量次の方では最初から暮美は当然ついて来てくれるものとひとり決めしていた。新婚旅行で北欧の国々を巡ったとき、二人ともその美しい自然と町々のとりこになり、とりわけ暮美は、森と湖とシベリウスとムーミンの国に魂を抜かれて「ここで暮してみたい」とつぶやいていたのではなかったか。確かに暮美ひとりなら喜んでついても行っただろう。だが彼女は、少なくとも物心がつくまでは未名を自分の国で育てたかった。それに、そんなに重大な問題を少しも相談しようとしなかった量次にひどく腹を立てた。サプライズにもほどがある。だが、もういいだろう。今なら別の生活をしても良い。厳しく美しい自然のなかでの新しい暮しは、未名にも良い癒しになるにちがいない。
表で音がした。
「旦那さまね」
陽子が目配せし、暮美は顔を上げる。
「お邪魔します」
玄関に、黒尽くめの量次の姿が現れた。座ったまま陽子が招き入れると、帽子をとり、黒いコートを脱いでハンガーに掛け、こちらに深く一礼した。
「お久しぶりです」
陽子はその物言いが好きではなかった。量次を含めてこの場にいる三人は幼稚園に入る前からの幼馴染みなのに、暮美と結婚してからの量次の態度や言葉遣いは急に余所余所しくなってしまった。当たり前と言えば、そんなものなのかもしれないが、昔どおりの屈託のない本音をもう聞けないのかと思うと、男女の友情のはかなさを思い知らされる。
「麻紀ちゃんは?」
いくらか素直な調子で量次が尋ねる。
「雷踊りの最中よ。それより、ご対面なんでしょう?」
「はい」
量次はまた固く構える。無口で口べたな所だけは昔と変らない。
「全く人騒がせな人たちよ」
陽子はため息をついて見せた。
「籍はもう戻したの?」
「いや、未名の反応を見て考えます」
「これだけは覚えておいて」
陽子が厳しくつぶやく。
「二度目はないわよ。それに」
彼女の顔を再びかすかな影が走った。
「未名ちゃんが心配だわ …」
「ただいま」
暮美は玄関から娘を呼んだ。
「未名ちゃん、ちょっと来て。珍しいお客さんが来ているの」
足音が階段を降りて来て途中で立ち止まる。
母の隣に死神が立っている。
背を向けて、未名は階段をかけ戻って行った。ふたりは顔を見合わせる。
「驚かせてしまったようね。呼んでくるからあがってここで待っていて」
母が後(あと)を追った。
「未名ちゃん」
ノックして取っ手を引くがロックされている。
「未名」
もう一度ノックするが返事はない。様子をうかがう母の耳がかすかに未名の声をとらえた。
「デベン、デベン …」
何度も何度も、繰り返し繰り返し、すがるように呼んでいる。
「未名」
母はドアの奥に呼びかける。
「出て来て。何も怖くないわ」
再びノックしようとしたとき、突然ドアが開いて、娘の体が暮美の脇をすり抜けて行った。片手に何か光る物を握っている。後姿は、そのまま階下に立つ死神めがけて踊りかかると、右手のハサミを思い切り相手に突き出した。量次は危うく身をかわして凶器を取り上げたが、はずみでふたりとも激しく床にぶつかった。
「未名!あなた!」
暮美の悲鳴が廊下に響いて消えた。
「あすの便で帰るから …」
吹きさらしの道端で、量次は最後に振り向いた。
「罰があたったんだ。身勝手な親たちに」
「でも、機会はまだあるわ」
か細く暮美は答えたが、「どうかな」と、彼はあいまいにつぶやいた。
未名の振舞いは量次以上に暮美を打ちのめしていた。
暮美には娘がもうわからなかった。
愛しい娘。私の未名。あなたは心を閉ざし、それでも私はあなたが好きだった。でも、どこへ行こうというの?私には見えない何かを見ていた真っ黒な瞳、小さな声とひとりぼっちの笑顔を捨てて私から行ってしまうの?あの添い寝の日々には何の意味もなかったというの?
「暮美」
量次が見つめている。
「あの子は普通じゃないよ。医者に診せた方が良い」
それだけ言い残すと彼は向き直り、砂けむりの田舎道を暮美から静かに離れて行った。
彼と会うことはもうないだろう … 視界から消えるまで彼女は後姿を見送った。
二週間、学校を休ませて、暮美は未名と幾つもの病院を訪ね歩いた。どの病院でも、未名は簡単な質問には素直に答えたが、「この絵は何に見える?」とか「デベンとはどんな遊びをしたの?」といった類の問いかけには口をつぐんでしまった。セラピストたちの診断や治療方針はどれも暮美を納得させることができず、結局、頼りは最初に処方された向精神薬や鎮静剤だけという有様だった。
薬の服用がはじまると、未名は次第にまわりの世界から興味を失くして行きはじめた。テレビを見なくなり、ベッドにこもる時間が多くなり、時には母のいることさえ気づかずに過すこともあった。案じた暮美は医者と相談して、少しでも人との接触の機会を増やそうと、予定より二日早く、娘を登校させることにした。
その初日、下校班が家の前で止っても未名は帰って来なかった。ランドセルを背負った麻紀と班長の少年が玄関先でけたたましく事件を告げた。
「おばちゃん、未名ちゃんがいなくなったの」
「布蔵寺のところで急にかどを曲って土手の方へ走って行きました」
暮美は麻紀に、陽子にも伝えてくれるように頼み、学校に連絡した。警察にも電話して、そのあたりにため池や川や用水路が多いことを念押しした。
外は晴れていたが、空気は冷たく入れかわっている。暮美は土手のまわりを、陽子は通学路周辺を、麻紀は家の近所を手分けして捜して行った。
二十分ほど経った頃、麻紀が、五十メートばかり先を行く未名の姿を見つけた。家から大して離れてはいないが、通学路からはずれた裏道で、両側を竹林におおわれ、坂になったむき出しの斜面には岩がゴロゴロと転がっている。子供にはあまりなじみのない場所だったが、麻紀は、それが未名とデベンの散歩のルートだったことを知っていた。
未名は見えないデベンを連れてゆっくりと小道を歩んでいた。どこに置いてきたのか、その背にランドセルはない。時おり立ち止まって足もとを振り向いては、クスクス笑いながらひとりで何かを話しかけている。麻紀は子供心にも、あってはならない光景を覗いてしまった不安に襲われ、一瞬、たじろいだ。だが、すぐに持ち前の勇敢さを発揮して、大声で「未名ちゃん」と叫んで駆け寄った。
「未名ちゃん何しているの!みんな心配してるのに!」
未名は顔を上げたがその目は、麻紀など見てはいなかった。遠い目つきで、「ボールがないわ」とつぶやいた。
「未名ちゃん、しっかりして!」
麻紀は怒って訴えた。
「頭が変になったの !? デベンなんていないでしょ。死んでしまったのよ」
未名の目が麻紀を見た。独りぼっちに澄んでいた。
「嘘つき」
麻紀はいきなり突き倒された。未名が傍らの大きな岩を持ち上げた。椰子の実ほどもある塊を両腕で抱え上げ、顔の高さから麻紀の頭めがけて投げ落した。麻紀は悲鳴をあげ、とっさに顔を腕で庇った。岩が肘を直撃し、嫌な音を立てた。麻紀は呻いて身をよじる。脚が二、三度はね上る。相手がまだ動いているので、未名はもう一度岩を抱き上げた。だが、なぜか力が抜けて途中でとり落し、しゃがみこんでデベンが帰って来るのをその場で待った。
未名の捜索に当っていた消防団の若者が最初にふたりを見つけた。彼が見た時、正気づいた未名は、脂汗にまみれて呻く麻紀の体をしきりにさすっていた。救急車が来て麻紀を運んだ。
幸い、麻紀の傷は右肘だけで済んだが、骨は粉々で、手術とリハビリが必要だった。
麻紀の話から事の成り行きが判明すると、暮美は麻紀の体の上に泣き伏した。それから土下座して陽子に罪を詫びた。号泣して赦しを請った。
「私を恨んで。私が悪いの」
陽子も衝撃は隠せなかった。
むきだしの罵声や怒号を浴びせかけることこそなかったが、鋭い非難の視線が暮美の胸を突き刺した。
「なぜ放っておくの?ひとりで学校にやるなんて無茶でしょ。あの子は以前の未名ちゃんじゃないわ。今すぐ無理にでも入院させて。わかってるの?あの子、人を殺すところだったのよ」
治療費以外の金銭はいらない。訴訟もしない。ただ、未名を入院させることだけを彼女は要求した。だが、暮美にはとてもできなかった。ただでさえデベンを失った娘をひとりぼっちにするなど耐えられないことだった。それは母としてわが子を見捨てるに等しい行為に思われた。暮美は陽子に懇願した。学校を休学させること、常に付き添い、ひとりでは決して外に出さぬこと、信頼できる医師のもとで治療につとめることを誓って赦しを請おうとした。陽子は入院させるのが未名のためだとなおも諭し続けたが、最後には折れるしかなかった。
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