4 小さな左足
ヒエログリフはもうおなかが空っぽで、おまけにここがどこなのかさえてんで分らず、これでようやく私もさすらいの旅を終えられるのかしらと観念しはじめました。
そこは陽の落ちかけた野原のまんなかで、どこか遠くで夏祭りのお囃子らしい笛や太鼓の音がかすかに響いています。辺りの景色が急になつかしくぼんやりとかすんで来て、ヒエログリフは、
あぁ、これがわたしのラスト・シーンだったのね、 —— 悪くはないわ、でも何て遠い道のりだったことでしょう …
と、心の荷物を降しかけました。ところが、そのとたん、いきなり何かにいやと言うほど背中を踏んづけられて、「痛いっ!」と悲鳴を上げました。
見ると、小さな男の子と女の子がおそろいの浴衣着で立っており、男の子の下駄の歯先がヒエログリフを踏んでいます。
「痛いじゃないのっ! 」
下駄の歯かげから何とかもがき出ると、ヒエログリフはプンプン怒って二人をにらみあげました。
「おかげで死んじゃったわっ!」
男の子と女の子は、まじめな顔つきでまっすぐこちらをのぞいてきて答えます。
「生きてるよ」
二人に教えられ、ヒエログリフはしばらく考えてから、
「もっと悪いわ」
と、今度は弱々しくため息をつきました。
「あのね、」と、男の子が言います、「数学と論理学だけで、この世の悩みや悲しみをぜんぶ解決できるとは限らないんだよ」
「それは …」
不意を喰らって、ヒエログリフはしどろもどろになりました、「それは、そうでしょ …」
「でも、解決できるこの世の悩みや悲しみなら、みな数学と論理学だけで解決できるんだよ」男の子が続けます。
ヒエログリフには、今度はもう、どんな返事も浮んで来ませんでした。
そんなことにはおかまいなく、女の子がこう結びます。
「では、このことから、この世の悩みや悲しみは数学と論理学でしか解決できないと言えるでしょうか?」
呆気に取られているヒエログリフにはおかまいなく、ふたりはそれだけ言い終えるとさっさと身を起して、「行こ」と、立ち去りかけました。
「待って」、ヒエログリフはあわてて二人を呼び止めました、「わたし、おなかがペコペコでこれから飢え死にするところなの。でも、もしどこかの親切な子供が詩を唱えてくれれば助かるかもしれないわ」
男の子と女の子は立ち止って小首をかしげ、今度は、「名前も知らない相手に詩を唱えてあげたりしてもいいものかしら」とか、「それは、詩を唱えてあげなくても名前を知っている相手なら構わないという意味かしら」などと、相談し始めました。
それで、あわれな左足は「わたしの名前はヒエログリフィカ・フィロソフィカよ」と、とりあえず自己紹介しておかなければならなくなりました。
そして、また何か別の新しい議論が持ち上がらないうちに、「詩や歌を聞くと少しだけ力が出るの」と、いそいで付け足しました。
「それで元気になるの?」と、男の子。
「どんな詩でもいいの?」と、女の子。
ヒエログリフは「怪しげな詩なら」と疑い深げにふたりを見上げました。
「それならあるよ」と、女の子、
「『日暮れ鬼』のうただよ」と、男の子。
それからふたりは、ヒエログリフの見ている前でおもむろに両腕を八の字に拡げると、暮れかけた上空を仰いでゆっくりと旋りながら、こんなふうにぐるぐる唱えはじめたのでした。
見つけたぞってのぞいたら
茂みのさわぐ
両の目とじて上むいて
ぐるんと一回まわったら
そこは
やっぱりもとの場所
もとの野原にもとの子が
もとのひとりでのこってる
もとの名前と顔をして …
最後の呪文はないかしら
前と後のまんなかで
ときどき首をかしげるの
両うであげて風だいて
虫の呼び声あつめても
ここは
やっぱりよその場所
よその窓辺によその灯が
よその夕げを映してる
よその世界のいろをして …
最後の呪文はないかしら
前と後のまんなかで
ときどき首をかしげるの
すると、ふたりのうた声にさそわれるように、近くの草むらの其処(そこ)此処(ここ)から、ざわざわっ、カサコソ、とざわめきが起り、止んだかと思うと、また少し離れた別の場所へと移って行くのでした。よく見ると、小さな銀色のともし灯のような光が二つずつ、茂みの奥にちらちらのぞきます。
「何かいるの?」
思わず身をすくめてヒエログリフは訊きました。
「大丈夫だよ、野狐と山わらしだから」と、男の子。
「人喰い猿は寝てるから」と、女の子。
それから一緒に「元気でた?」と、二重唱でたずねました。
ヒエログリフは、小さな体全体でひとつ深呼吸を試してみて、それから、
「ありがとう、本当に怪しげなうただったわ」と、ここしばらくずっと忘れていた自分の笑顔を取り戻しました。
「よかったね、汚い泥んこの物の怪(もののけ)さん」と、男の子。
「さようなら、ひらひらでペタンコの妖精さん」と、女の子。
「違うんだけど!」ヒエログリフはまたひどく気を悪くして抗議しました。
「じゃあ何?」と、ふたり。
「可愛い女の子のすてきなサンダルの左の足跡よ」
「じゃあ飛べる?」と、男の子。
「飛べないわ。それになぜ『じゃあ』なの?」
「じゃあ尻尾ある?」と、女の子。
「ないわよ」
それを聞くと、ふたりは満足して「やっぱり」と、うなづき合いました。
「おーい、どこだーい」
向うから呼び声がします。二人の倍くらいの背たけの少年の姿が夕暮れのなかからこちらにやって来ました。
「やぁ、やっぱり道草だ。… あれ、君はだれ?」
少年は、ヒエログリフに気づくと好奇心一杯の表情でのぞき込んできました。何だかイルカのような目をしています。
「ヒエログリフィカ・フィロソフィカ、女の子のサンダルの左の足跡で、二十億年間、放浪の旅を続けているの」
「へぇ …、ぼくは努《つとむ》、この子たちのお目付け役なんだ」
普通に話ができる相手にようやく巡り会えたヒエログリフは、ほっと吐息をつきました。
「さっき命が切れかけて倒れていたら、こっちの子に踏んづけられたの」
「わざとじゃないよ」と、男の子。
「時効だよ」と、女の子。
「ふーん、そりゃ大変。けがはなかった?」
「えぇ、それに今、うたを聞かせてもらったから心はもう大丈夫。でも体は一歩も動けない。おなかが空っぽなの」
「じゃあ、いっしょに来ない?これからご飯なんだ。よかったらお風呂に入って泊っていけば?未名が喜ぶよ」
「じゃあ乗って」と、女の子。
「え?」
「肩ぐるま」と、男の子。
それから、体がフワッと浮いたかと思うと、大きな手のひらにやさしくすくいとられたヒエログリフは、もう努の肩のうえに乗せられているのでした。
「すてき、見渡す限り世界だわ …」
顔をあげるとそこには数え切れないほどの星たちが、湧き出すように宇宙の奥から続いています。
手をつないだ男の子と女の子がうたいながら先にたち、四人は凪(な)ぎきった茂みの間をのんびりと歩いて行きました。
夜の来るまえ
少しだけ
世界は元にもどるけど
空と野原のまんなかは
日暮れの鬼に気をつけて
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます