3 出来事

 暮美(くれみ)が見上げたとき、八才の娘は二階の部屋の前で床を見つめたまま表情がなかった。

 十月の窓に踊る暖かな陽射しが、開け放しの子供部屋のドアのむこうから、ことさらさわやかにあたりに映えきらめく朝のことだった。

 夕べ、いつもの野原で未名と遊んだ時と同じ顔つきで、いたずらな口もとにいつもの黒いシミをのせたまま、いつもの寝場所に、デベンはむくろになって硬ばっていた。ほんの少し薄目を開いて、いやに平たく伸びていた。

 暮美が上って来ても未名は顔を上げず立ち尽くしている。声も出せず、涙もなく、デベンに触れようとすらせずに、突っ立ち続けている。暮美は娘の足元に横たわる愛犬に駆け寄った。

「デベン!」

 暮美が叫んでも、未名は動かない。 

「どうしたの !? デベン、どうしたの!」

 取りすがり、全身をなでさするがすでに手だてはない。蒼ざめた顔をあげて母は未名を見た。

「どうしたの?」

未名はわずかにかぶりを振った。母といっしょに心のなかで「どうしたの」と叫ぶのが精いっぱいだった。

 この世界でただひとりの友だちだったものの体が母の両腕にすくいとられる様子を見つめ、居間に運び下ろされるそのあとに黙ってしたがって行く。

 「デベン、どうしたの」

 なきがらを陽だまりのクッションに寝かせると、暮美はもう一度、痛ましく呼びかけた。

 「きのうはあんなに元気だったでしょ」

 … どうして …

 呆然と、未名は思う。

 … きのう、ボール投げをしたじゃないの。ボールを投げたら、はじめてなのにあとを追いかけて行って、でもボールは置いたまま戻って来て「もう一度」ってはしゃいだでしょ?わたしがボールを拾って、あげないよって頭の上で見せたら、ゴムまりみたいにジャンプしてあっという間に横取りされたわ。後足がわたしの顔より高くって、わたしまで跳び上ってみたくなってしまったの。あんなにうれしかったこと、生まれてはじめてよ。それからお母さんが呼びに来るまで練習して、帰りに、あしたはちゃんと拾って来ようって決めたわね。きょうも野原に行くんじゃなかったの …

「… 未名」

 母は娘を呼んで胸に抱き寄せた。小さな体は硬く凍っていてほどけない。

「… けがもしていないし、血や食事も吐いていないわ」

 この子にはデベンしかいなかった。デベンだけがこの子の孤独を救っていた。この子は今、何を感じているのだろう。この子の失くしたものの大きさはわたしには到底わからない。泣かせてやらなければ。涙で少しでも楽にしてやらなければ。

「なでてあげて」

 暮美はうながした。

「デベンって呼んであげて」

「デベン」

 娘はしゃがみこんだ。両方の瞳から悲しみがいきなりあふれ出た。幼い手が、顔と頭を、胸を、背を、尻尾を、幾度も幾度も行き来して命を取り戻そうとした。

 けれども、なきがらは、もうデベンではない冷たさで何も答えず、抱きしめようとした未名の想いを無情にはねつけた。

「務めを終えたのね …」

 暮美は未名のうなじに手を当てた。

「デベンはきのう、あなたと遊びたかった残りをぜんぶ遊びきってしまったのね。毎日あなたと遊んで、一生分、遊び終えて、いつもの通り晩ごはんを食べて、満足してしまったのね」

 未名には言う言葉がなかった。ただ、涙が心の途中で凍りついたように押し潰されて涸れてしまった。

 それから母に言われるままに二階に戻って服を着替え、歯をみがき、顔を洗った。

 朝食は口にしなかったが、ランドセルを渡されると力なく背負い、母に見送られて黙って玄関の戸をあけ、迎えに来た通学班の列に加わった。それ以外に何ができただろう?デベンが死んだ今。


 昼過ぎ、暮美の惧れていた通り、学校から電話があった。未名はうつむいてひと言も口をきかず、名前を呼ばれても気づかず、できるはずのかけ算もできず、給食にも手をつけていないという。心配する担任に、暮美は今朝の出来事を話し、デベンが美名にとってどれほど大切な存在であったかを言葉を尽くして説明しようとした。

「そうですか …」担任はつぶやいた。

「ですが、これを機に、一度どこか然るべき専門家に相談に行ってみられてはいかがでしょう?」

 それは、これまでにも別の人々から何度か聞かされてきた進言だった。

「以前から未名さんの様子が気になっていたのです。賢いお子さんなのに口数が少なくて、感情を表に出すことができないような印象を受けるものですから」


 暮美は手帳のアドレス欄を開いてみる。そこには去年調べたいくつかの相談先のリストが並んでいた。市役所の無料相談や、保健所や児童相談所のカウンセリング窓口、なかには自閉症の専門病院の名もある。暮美のなかには、娘への、ある、負い目に似た自責の念があった。

 わたしが未名の父親と別れたことはどの程度彼女を傷つけたのだろう・・・未名は確かに生まれつき内気な子供だったが、本当に心を閉ざしはじめたのはあの頃からだったような気がする。たとえ未名自身は父親のことを憶えていなくても、幼い心のどこかに一生消えることのない無意識のトゲが刺さったのではなかろうか?


 午後、暮美は毛布に包んだデベンを抱いて、徒歩で二十分ほど離れた動物病院を訪ねて行った。これまで年に一度、予防注射の際に計二度しか来たことがなかったが、動物好きの初老の医師は、デベンのなきがらに神妙に両手を合わせ、死因を知りたいという暮美の依頼を快く聞き入れてくれた。全身のレントゲンをとり、内視鏡をのぞき、血液や尿を調べたあと、彼はこう言った。

「病変も外傷もないですね。いわゆる突然死ということになりますか。もっと調べるには解剖するしかありませんが …」

 診察台の上のデベンの体は、縮んであまりにみすぼらしかった。暮美は何某かの料金を支払い、謝絶した。


「おばさん」

 病院から戻った暮美が動物霊園を調べていると、玄関が開いて隣の麻紀の声がした。出ると、未名は上りがまちに腰をおろしていた。

「ありがとう。送って来てくれたのね」

「おばさん、デベン死んだの?」

「えぇ、けさ死んでいたの」

「未名ちゃん、元気ないよ」

「そうね、心配してくれてありがとう」

「かわりの子犬、さがしたら?」

「えぇ、もう少ししてからね」

 麻紀が帰って行くと、未名は母にうながされて靴を脱ぎ、下ろしたランドセルを階段に残して居間をのぞいた。

 座り込んだまま、表情のない目をデベンの死骸に落す。

「今、ペット霊園を探していたところなの」

 暮美は未名に寄り添った。

「あなたが帰って来るまでにお別れを済ませてしまった方が良いかどうか迷ったけれど、でも、デベンがもう一度、どうしてもあなたに会いたがっているような気がしてできなかったわ」

「デベン、燃やすの?」

「いや?」

「いや、かわいそう。庭に埋めて」

 暮美も気持ちは同じだった。田舎家なので場所はある。二人は柿の木の根元に十分な深さの穴を掘り、デベンを葬った。亡骸を生前愛用していた毛布で被い、皿とフードを添え、土を盛り、二人で立派な庭石を運んで来て置いた。最後に線香を立てて、燃え尽きるまで身を寄せ合って見続けた。

 夕食を残し、風呂場に入ってからも、未名は裸のまま窓を隙かして、柿の木の下の黒々とした墓石のシルエットだけを見つめていた。とうに冷めてしまった湯船には浸かることもせず、冷え切った体で出て来ると母に呼ばれた。

「未名」

 暮美は、今夜だけ、特別に居間に広げた二人寝用の大布団に娘を招き入れた。

「久しぶりね …」

 フカフカの毛布で自分と未名の体を包みながら、枕元に用意していた青く沈んだ扉の本を未名に示してみせる。

 それは暮美がまだ少女だった昔、中学の入学祝にあの伯父から贈られた特別なものだった。暮美のなかで物語は伯父その人への思いと重なり合い、未名ができてからも、まだ言葉を覚えはじめる前から五つになる頃まで、ほとんど毎晩添い寝して、何の説明も飾らずに暮美が読み聞かせてきたものだった。

 未名は横たえた冷たい体の中で、忘れかけていた遠い場所から自分に語りかけてくる母の声を聞いていた。

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