2 未名
… 未名は岸辺で川面を眺めている。すねやふくらはぎに野草たちが柔らかく触っている。足もとで砂利石が静かにくずれ、未名は傾いて水の中にいた。透き通った川底には陽光が明るく揺らめき、小石の一つ一つがくっきりと見分けられた。銀色の小さな魚が二匹、岩陰を過ぎって行く。どこかで叫び声が起り、ふいに体が後に持ち上げられて、未名は空中に戻された …
未名には父親の記憶がない。彼女が三つになる少し前、母と父は別れ、それ以来、未名は一度も父に会ったことがない。ただ時折、ひとつの風景が、父の気配を連れて未名の脳裏をかすめて行くことがある。どこまでが本当にあったことなのだろう。
だがあの時、彼女は川底の小石やカニたちをそのままずっと見続けていたかった。
あの当時、未名はすでに人一倍、感じやすい子供だった。普通の大人たちには見過ごされるような身の回りのちょっとした変化にも鋭く反応し、外界の自然や、人々の言葉や、自分の体の中に、生き生きとした喜びや、身も凍る恐怖を感じ取って、まわりの者たちをしばしば驚かせるのだった。
四歳のとき、未名は言った。
「わたしもうすぐ死ぬわ」
驚いた誰かが尋ねた。
「どうしてそう思うの」
「体が熱いの」
「体が熱いと死ぬって誰が言ったの」
「テレビの人」
「大丈夫よ、死なないわ」
「いつ死ぬの」
「死ぬ時になったら死ぬの」
「じゃあ、死なないね」
死と暗闇への怖れは、この世の美しさへの驚嘆や、人や動物の命を慕う気持ちと同じように、未名の内面生活の大きな比重を占めるものだった。
だが、成長するにつれて、未名はそうした自分の感情を次第に表に出さなくなって行った。それはまるで、鋭すぎる未名の神経自身が、幼い心に一瞬も休まることなくなだれ寄せ続ける外からの刺激や、容赦なく引き起こされる心理的な嵐に耐え切れず、自らにふたをしてしまったかのようだった。
六歳を過ぎる頃には、未名は母やごく限られた相手にしか口を開かなくなっていた。どうしても必要な場面では、他人にきかれたことにも答えはしたものの、ぽつんと一言きりだった。生き生きとした言葉は消え失せ、論文のように冷たく、片言のように短かいせりふだけが残された。
ただ、そんな中で、母の伯父である「おじちゃん」は、未名の数少ない話し相手のひとりだった。量子物理学者のこの伯父は、世間からは賢い変人だと見なされていたが、論争やもめごとを好まない物静かな人物で、母も子供時代から可愛がられて来て、未だに慕い続けていた。未名は伯父の語る素粒子や四つの力や時空の話が大好きで、幼ごころにも、この人は自分と同じ世界にいる人なのだと感じていた。そして、自分の方からも人間や死についての「そもさん」を問い、量子力学者の「せっぱ」を求めるのだった。
ある時、未名と母は伯父を見舞いに病院を訪れていた。伯父は数日前から入院していたが、顔色は良く、昼間は一日中、見舞客と見分けのつかない普段着で庭や院内を散策しているらしかった。通路わきの談話席で母と伯父の昔語りが一通り終った時、それまで黙って座っていた未名が急につぶやいた。
「おじちゃん、死ぬの?」
呆気にとられた母は、娘がなぜ突然そんなことを言いだすのかわからず絶句した。目の前の伯父は元気そうだし、検査入院に毛の生えた程度の療養だとしか聞いていない。
「死ぬのかい?」
伯父は静かに未名を見つめた、
「なぜわかるんだね?」
「わからない」
未名は答える。
「そんな気がして怖いだけ」
母が何か言いかけたが、伯父はそっと押し止めて苦笑した。
「未名は鋭いから、当っているかもしれんね」
「やめてよ、伯父さん。この子は敏感すぎるのよ。病院のにおいや雰囲気に当てられているんだわ。ごめんなさい、赦してやって」
「いいさ、わたしだって永遠に生き続ける訳にはいかないんだし」
「お願い」
未名が言う、
「死なないで。会えなくなるもの」
「それは寂しいね」
「死んだら、本当に、もう絶対会えないんでしょ?」
「そう思うね」
「天国でも?」
「天国を見た人はいないから」
伯父はやさしくからかった、「未名には神様や仏様が見えるかい」
「宇宙が一周しても?」
「さぁて、どうだろう。何兆年も先に … それとも、どこか別の宇宙でふたりがもし出会ったとしても、それはもうわたしと未名じゃないだろう」
未名は寂しくて少し言葉を置いた。
「わたしのこと、好き?」
「うん、大好きだ」
「わたしもよ」未名は伯父に抱きついた、
「でも、おじちゃんが死んだら、私のことが大好きだった気持ちはどうすればいいの?」
「わたしが死ねば、気持ちもいなくなるだけさ。どんなに好きでもそれだけなんだ」
それから何時間か後、伯父は担当の医師から癌だと告げられた。伯父は死なずに、手術と入退院をくり返していたが、ここ何ヶ月かの間は寝たきりで、誰とも話せない状態が続いている。
その手術の知らせがはじめて届いた前の日に、デベンはやって来た。口数が減る一方の娘を案じた母が知人から譲り受けて来たものだった。トテトテとまだ足元もおぼつかないその子犬は、だが、母の願っていた以上の劇的な変化を未名にもたらした。未名はひと目見るなり子犬を胸に抱きとって語りかけた。
「遅かったわね。わたし、生れてからずっとあなたを待っていたの」
その日から、未名はかかりきりで子犬の世話をはじめた。三時間ごとにパピー用ペーストとミルクを与え、トイレのしつけをし、雨の日も欠かさずに散歩に行き、夜は同じ布団に寝て一日のできごとや昔の話をした。子犬も、すぐになついて未名にうなりかけてみせたり、挑みかかってきたりするようになった。眉間と背筋に白いラインの通った賢そうな顔つきの黒毛の雄の子で、口もととつま先としっぽの先にも白い部分があった。何かあると、まるく見張った輝く黒い瞳の上にちょこんと三角形に立つ二つの耳先が可愛かった。このいたずら者のボーダーコリーに未名は「デベン」という名を付けた。何かの合言葉で仲良しという意味らしい。
二人は見る間にお互いにとってかけがえのないパートナーになって行き、周囲の人々も笑顔の戻った美名を見て、「明るくなった」、「言葉が増えた」、と喜んでくれた。が、母だけは、すぐに何かおかしいと気づき、ひとりで不安を募らせはじめた。娘が心を開くのは結局、一匹の子犬に対してだけで、その笑顔や言葉は全て子犬に向けられたものでしかなかったからだ。まわりの者たちや母親に対しては相変らず心を閉ざし続け、それどころか二人だけの世界に閉じこもってしまった分、いっそう自分たちから遠ざかって行こうとしているように見えた。
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