忘れの里の仲間たち

友未 哲俊

🐟🐟🐟

       


「ぬくもりにあふれおいるね」

 倫が隣でささやいた。

 本圓に」

 匥生も埮笑んだ。

「前に立っおいるだけで愛情に包たれお行くわ」

 黄金色のタむトル板には「母ず児」の食り文字。

 先週初めおこの展芧䌚を芋に来たずきも、二人はこの堎所で党く同じ䌚話を亀しおいた。匥生も飛鳥もヒンデミットが奜きだった。だが、その奜みは少し違っおいた。匥生はこの画家の、幻想色のメルヘン䞖界にひかれおいたが、飛鳥の方はより写生的なタむプの䜜品や、逆にもっず抜象的な偎面に興味があった。この絵は二人の奜みがその䞡端で重なり合っお、お互いに共感し合える境界域の䜜颚だった。

 産着にくるたれた幌な子は、䞞顔のふくよかな母芪の䞡腕のなかで優しく胞に抱かれ、それがゞグ゜ヌパズル颚の现片に分割されお、パステル調の淡い色圩で浮んでいる。

 「ヒンデミットは宗教画ずは瞁のない人だず思っおいたけれど 先週、劻に䌝えそびれおいた感想を思い出しお、飛鳥は付け足した、「これは圌にずっおのマリアずキリストじゃないかず思えおくる 
 」

 「そんなはずないわ」

 匥生はそっけなく吊定した。

 「ふたりずもこんなに幞せそうだもの」

 それはたわりの人々が誰ひずり気付かないほど小さな぀ぶやきだったが、倫の耳には腑に萜ちない䜕かが残された。

 あの子は女の児よ」


 ご劊嚠です」

 面談宀の黒革匵りの゜ファヌに䞊んで埅぀二人に満面の笑みで医垫がそう告げたのは、二ヶ月前、幎の瀬も間近に迫った午埌のこずだった。

 おめでずうございたす。週目でたちがいないでしょう」

 二人は感激のあたり人目もはばからずに涙しお抱き合った。結婚しおから十䞉幎間、この報せをどれほど埅ちこがれおきたこずだろう。䞀時はあきらめお、逊子を捜しはじめたこずもあった。

 逞る心を抑えきれず、二人はそのたた、ごった返す歳末商戊の街なかにくり出し、ベビヌ甚品の倧型ストアを蚪れた。どうしおもそうせずには気の枈たないほど二人の気持ちは昂っおいた。

 「マドカはどう」

 愛らしいベッドたちに囲たれお、匥生は倫に提案した。

 「窓の銙りっお曞くの。ほら、私たちい぀もテラスの窓蟺で赀ちゃんのこずを話し合っおいたでしょう 颚が季節ごずに違う銙りをカヌテンの向うから連れお来お私を慰めおくれた。それに、この子にはたんたるな幞せを莈っおあげたいの」

 「いいぞ、窓銙、それがいい でも、男だったら」

 だが、匥生はすでに次のベッドに向っおいた。


 飛鳥が、はっきりおかしいず気付いたのは、春の圌岞が過ぎ、昌の芜吹きが倜の長さをしのぎはじめた頃だった。その日、圌は幎床末の残務敎理を終え、二週間の䌑暇をずっお明日からの旅行の荷を䜜っおいた。匥生の気分転換に二人でしばらく山里の隠れ宿でのんびりしよう。このずころ、匥生の様子がすぐれない。そろそろ安定期に入っおも良い頃なのに盞倉わらず぀わりが続き、䜕かず神経質になっお塞いでいる。それでも飛鳥や呚囲の者たちには笑顔を芋せ、粟䞀杯自分の仕事をこなそうずしおいるのがわかっおこころ蟛い。少し家事から攟しおやりたい。

 「考えたんだけど」

 圌はリュックサックに着替えを぀めながら、傍らの劻を芋た。

 「男ならハゞメはどうかな。倩地創造の創の字で」

 匥生の暪顔が突然仮面のようになった。人間らしい衚情が䞀瞬にしお消え倱せ、゜ファヌから立ち䞊がるず倫の蚀葉など党く聞こえなかったかのようにあらぬ方ぞ去っお行こうずする。だが聞えなかったはずはない。飛鳥は䜕かにずり憑れたように自分を無芖する劻を呌び止めた。

 「どうしたんだ 気に入らないのか」

 「男」

 熱にうなされおでもいるかのように、匥生はか现く叫んだ。

 「それが私から産たれおくるの !? 」

 そしおいきなり倒れお気を倱った。


 「ごめんなさい」

 病院のベッドで気づいた匥生の瞳から䞀粒涙がこがれた。

 「折角の䌑暇が台無しね 
 」

 「いいさ。それより、さっきは ― 」

 さっきはなぜ、ず尋ねかけた蚀葉を飛鳥は際どく飲み蟌んだ。

 「さっきは驚いたな。気分はどうだい」

 「良くないわ。ゟクゟクしお吐き気がする」

 衚情の戻った匥生に、飛鳥はむしろホッずする。だが、圌女は先ほどの出来事を芚えおいるのだろうか

 「あなた」

 匥生がうるんだ目で蚎えた。

 「わたし、怖い」

 それから䞡方のたぶたを閉じるず目の䞋に涙をにじたせた。

 「助けお  」

 圌女は鳥肌立った䞡腕の端の小さな䞡こぶしをギュッず固めたたた懞呜に䜕かに耐えおいた。

 「倱瀌したす」

 カヌテンが開いお若い看護垫が怜査甚のワゎンを暪付けした。

 「バむタルをチェックさせおいただきたす」

 看護垫は事務的に䜓枩ず血圧を枬り、採血を終えるず確認した。

 「埌ほどドクタヌがたいりたす。前回の゚コヌからひず月経ちたすのでおなかを撮らせおいただきたすがよろしいですか」

 匥生は答えなかった。

 「お願いしたす」

 飛鳥が答えた。


 「母子ずもに順調です。ご心配いりたせん」

 モニタヌには静止画像が映っおいる。や動画の怜査を匥生は断った。だが、芪切過ぎる医垫はその意味に気付かず、蚊かれもしないこずたで口にした。

 「男の児さんですね。芋えたすか ほら、これがペニスです」

 医者がピヌナツ状の小さな圱を棒で二人に瀺した。

 飛鳥はずっさに劻を芋た。圌女は力なく暪たわったたた䜕の反応も芋せない。

 「平気かい」

 ― 朊朧ずした意識のなかで匥生はその突起を芋぀めおいた。

 「あれはナむフだわ」

 がんやりず、圌女は考える。

 「私の内臓を切り裂き、心を砎り、呜を奪いに来たんだわ  」


 圌女の䞍安の正䜓が䜕なのか、飛鳥には理解できなかった。ただ、劊嚠以来、劻が、男児を身ごもっおいる可胜性から無意識に目を逞らそうずしおいたこず、その蚌拠を突き぀けられるかもしれない珟実に怯えおいたこずは明らかだった。それが䜕であれ、このたたで良いずは思えない。圌は、劻ずじっくり話し合おうず機䌚をうかがった。


 「女の子が欲しかったのかい」

 二日埌、退院しお自宅に戻るず、倫は圌女の隣に座っお静かに蚊いおみた。

 「男はそんなに厭なのかい」

 入院䞭、匥生はずっず生気を倱くしたたただった。衚情を倱うほど激しい発䜜はなかったが、蚀葉数が極端に枛り、どん底の鬱に居た。

 「そうじゃないの 
 」

 圌女は虚ろに頭かぶりした。

 「 
 うん。そんなはずはない。逊子の話をしおいた時だっお、君は別に男の子を嫌がっおはいなかったんだから 
 」

 飛鳥は片腕を劻の頭の埌に挿し入れお髪の毛を抱いた。匥生の身䜓はそれでも匷匵っおいお解けない。

 「よその子なら良いの」

 匱匱しく、圌女は぀ぶやく。

 「私も知らなかった。  劊嚠するたでは。女でないものを自分の内に宿すこずがこんなにもおぞたしいなんお」

 「おぞたしい」

 「 私は女。 なのに私の内には今、女でない者がいる。埗䜓の知れない別の存圚、忌わしい異圢の生き物が 
 」

 「でも、生れおくる赀ん坊の半分は男だよ。その子たちの母芪も皆そんな颚に気味悪がったりするず思うかい」

 匥生は黙り蟌んだ。私はどうかしおいる。だが、女が息子を孕むずすればそれは眪深い近芪盞姊なのだ。きっず眰が䞋される。

 「疲れたわ」匥生はベッドに向った。

 「ひずりにしお」

 飛鳥には圌女の怯えを受け入れるこずができなかった。圌女を責めようずは思わなかったが、あたりにも垞軌を逞しおいお、どう同情すべきなのかさえわからない。圌はそれがマタニティヌブルヌに過ぎないず思いたかった。繊现な性栌の母芪の堎合、時に偏執的な䞍安に襲われお呚りの者を驚かせるケヌスも皀にあるらしい。自分たで取り乱しお圌女をさらに远い蟌むような真䌌だけは絶察に避けなければならない。その刀断から、病院にはただ圌女が急に倒れたこずだけしか䌝えおいなかった。だが、それはやはり間違っおいたようだ。医垫にはもっずきちんず状況を説明しお、性別が分っおも男だったら䌏せおおくように口止めしおおくべきだった。匥生の蚀葉に䜕か病的なものを感じた圌は、担圓医に電話した。


 カりンセリングを受けるこずに匥生は抵抗しなかった。が、それは圌女自身が治療に前向きであるこずを意味するものではなかった。飛鳥には劻が最初から回埩など信じおいないように思えたし、圌女が医者に心を開こうずしおいるようには芋えなかった。倚分、倫の自分ず蚀い争いになるのを避けるためだけに受け入れおいるのだろう。圌女は入院せず、週に二床通院する方法を遞んだが、回を重ねるごずに、たすたす蒌癜く、無口になっお行く。目の䞋には隈ができ、日に日に䜓重が萜ち続けるので今では点滎ず栄逊剀が欠かせない。

 カりンセリングは䜕の成果もないたたふた月に及び、最埌の回には粟神分析医が珟れた。それたでの粟神科医のやり方ずは違っお、分析医は匥生の心理状態や察人関係には盎接觊れず、ロヌルシャッハテストを行ったあず、圌女を催眠誘導しお幌少期の思い出や最近の出来事を自由に語らせながら、時折ちょっずした質問をはさんだ。蚺察を終えるず、医者はふたりをその堎に埅たせお他の担圓医たちず話し合うため䞀旊退出し、やがお戻っお来るずこう蚀った。

 「䞀床の蚺察では䞍確かな郚分もありたすが、奥様の異性ぞの態床自䜓には、特に問題はなさそうです。男性恐怖症でもなければ男嫌いでもなく、男尊女卑でもその逆でもありたせん。お父様やお兄様ぞの態床も芪密か぀健党で、倚少の゚ディプス耇合はあっおも、それは仲の良い家族の間ではよく芋られる皋床のものです。成育史の䞭でトラりマになるような犯眪に出遭ったり、男の子の事故死を芋たり凊刑シヌンにショックを受けたりした痕跡も認められたせん。特殊なケヌスずしお、奥様の䞭に別の人栌があるのではないかずも疑っおみたしたがそれらしい兆候もありたせんでした。それで、産科や他の担圓医たちずも話し合ったのですが、ずりあえずカりンセリングは終了ずしお、今埌は䜓力の回埩に重点的に取り組たれるようにされおはいかがでしょうか。このたた同じこずを続けおも华っお奥様の粟神的負担になりそうで、お子様の健康も心配です。䜓力さえ回埩されれば、それがきっず心を支えお行っおくれるはずです」

 事実䞊の芋離し通告を受けお、飛鳥は翌日から長期の䌑暇を取り、なるべく倚くの時間を劻ず過すようにした。

 だが、ずうずう事件が起きた。

 梅雚入り前の、蒞し暑い午埌、朝から気分のすぐれない匥生のために飛鳥はひずりで病院に出かけお行った。医者の話を聞き、薬を受け取っお家に戻っおみるず、錯乱した匥生が包䞁を握っお玄関に立っおいた。

 「刺しなさい」

 圌女は叫んで飛鳥に包䞁の柄を突き぀けた。

 「お腹からこの化け物を取り出しお」

 飛鳥は包䞁を取り䞊げお、圌女を寝宀に戻そうずしたが、匥生は頑なに拒んで激しく叫び続けた。

 「お願い 今すぐ病院ぞ運んで 私の䜓からこの男を取り出しお」

 飛鳥は思わず手を振り䞊げた。悲しみず怒りがどっず党身に蟌み䞊げお来た。だが、我に返るず、その手を収め、かわりに䞡手で圌女の肩を突いた。圌女はよろめいお居間の゜ファヌに厩れ萜ち、いきなり狂ったように泣き出した。飛鳥は芋たこずのない劻の姿に茫然ず立ち尜くし、圌女に手を䞊げかけた自分自身にも驚いた。

 「さあ、ベッドぞ行こう」

 圌は圌女を抱き起こし、新婊を抱えるように持ち䞊げた。が、あたりにも軜々ず持ち䞊がったその衰匱ぶりに圌は再び愕然ずなった。ベッドに暪たえおからも圌女はずっず泣いおいた。


 泣き続ける自分の声を遠くに聞きながら匥生は独りで思い返しお行く。

 ごめんなさい 
 こんなはずじゃかったの。劊嚠がはじめおわかった時、私たち抱き合っお泣いたわね。あなたはあんなに幞せそうだった。あの時の笑顔を私は裏切っおしたったわ。頭が倉なのね。自分の子䟛を怖がるなんお。でも、自分ではどうにもならないの。䜓の奥深い所から、いにしえの敵意が䌝わっお来る。女でないものを孕んだ眪を償えず誰かが蚀っおいる。私、きっず死ぬのね。あなたを残しお逝くんだわ。ごめんなさい。あなたを愛しおいたわ。䞖界䞭で私たちほどぎったりの倫婊はいないず思っおいた。でも、きっず違ったのね。ほら、ヒンデミットを芚えおいる ふたりずも圌の絵が奜きなのに、本圓に奜きな絵は別々だった。あの絵は私たちがお互いにかろうじお受け入れられるぎりぎりの接点だったのかもしれないわ。そしお、もしかするず私たち自身も本圓は 



 救急車が来お圌女を病院に運んだ。ようやく眠った圌女を芋届けるず、飛鳥はいったん家に垰っお入院の支床をはじめた。だが、しばらく座っお小物をたずめおいるうちに疲劎に襲われおい぀の間にか眠りに萜ちおいた。

 気が぀くずすでに日が傟きかけおいる。電話が呌んでいた。出るず、女性の声が、病院から匥生が姿を消したず䌝えお来た。ずび出した倖の䞖界は小雚に煙っおいた。


 汚い氎だわ。

 昔ふたりで歩いた埠頭をさたよいながら、匥生は岞壁をながめおいた。氎面には朚片が幟぀か浮び、端に絡んだポリ袋を連れお暗く揺れおいる。かすかな腐臭が空気に溶け蟌み、霧雚がか぀お傘を寄せお語り明した頃のように暖かい。

 「お還り、お前のもず存った䞖界ぞ。闇ず混沌の、生呜以前の堎所ぞ」

 延々ず続く出口のない悪倢の淵で、圌女は呪文を唱え続ける。

 やがお、匥生は岞壁に歩み寄り、波打ち際ぎりぎりに立ち止たっお足をそろえた。それから、ゆっくりず巊の脚を前に浮かせお目を閉じる。

 「あず半歩  」

 右脚が圌女を支えようずしおぐら぀く。

 「それでお終いになる  」

 十秒か、それ以䞊の間、静たり返った波止堎の氎面の空䞭にそのたたの姿勢が保たれた。

 だが、右足は最埌の半歩を螏み切ろうずしなかった。

 匥生は脚を降ろした。

 「そう  、あなたは逝きたくないの」

 右足に蚀っお、圌女は寂し気に向うの突堀に目を遣った。

 「それなら私にいい考えがある」

 この岞壁に沿っおあの突堀たで歩いお行こう。ぎりぎりの瞁を進んで行けばきっずどこかで足を螏み倖す。自分でずびこたなくおも、壜のかけらか腐った果物に足をずられおバランスを厩すだろう。それは事故だし、誰にも止められないはずだ。


       


 匥生の回埩ぶりに呚囲の者たちはただ唖然ずするばかりだった。それは回埩ずいうより、別人に生れ倉ったような豹倉のしかたであった。

 「ごめんなさい、でも、もう倧䞈倫」

 倱螪の次の日、匥生からの電話を受けお車で迎えに行った時、圌女はすでに元の自分を取り戻しおいるように芋えた。

 「ごめんなさい」

 車のなかで自分の胎内に向っお圌女がそう語りかけるのを芋た飛鳥はそれ以䞊運転できなくなり、車を停めおしばらくハンドルに泣き䌏した。

 匥生は圌の背にやさしく手を眮いお耳元にささやいた。

 「近くにレストランがあればいいわね。この児がおなかを空かせおいるの」

 䞀週間もするず圌女の頬には赀みが戻り、点滎も栄逊剀も芁らなくなった。退院の埌も、ベッドに寝蟌むこずはなく、これたでの空癜を埋め合わせお䜙りある出産の準備ぞの驚異的な熱意ず奇跡のような食欲が発揮された。぀わりも治たり、ほどよく膚らんだお腹から胎児が元気に突いおくる。

梅雚明けの䞀日、二人は産着を芋に売り堎に出かけた。

 「魚の刺繍を入れたいの」

 たくさんの服を買い蟌んだあず、匥生は最埌に服の圢をしおいない䞀枚の真っ癜なタオルを遞んだ。

 「 
 あなたが生れたら、最初にこれに包んであげたしょう」

 そのあず圌女は手芞店に寄り、青ず玫の柔らかな玠材の刺繍糞ず、針ず初心者向けの教本を求めた。

 「おや、おや」

 飛鳥がからかった。

 「これから入門かい 」

 「刺繍なんお知らないの。私、䞖間知らずの箱入り嚘だったから」

 その蚀葉の通り、倧きなバスタオルの䞊に次から次ぞず瞫い取られお行く青ず玫の小さな魚たちは、どれも顔や圢がバラバラで、飛鳥から芋おも可愛すぎるほど䞋手くそだった。

 翌日、十䜕匹目かの魚が完成しかけた時、はたず手を止めお匥生が飛鳥の顔を芋た。

 「ハゞメよ、それがいい  倩地創造の創の字に芜生えの芜を添えお」

 飛鳥は胞が぀かえお物が蚀えなくなった。こみ䞊げる涙を必死でこらえたが、「創芜 」ず蚀おうずした瞬間、顔が厩れお嗚咜した。玛れもなく、匥生は母ずしお我が児を無条件に受け入れおいた。

 「創芜 それだよ 」

 「泣き虫」

 匥生は飛鳥の肩に自分の頭を預けお慰めた。

 「でも、もう心配いらないの。みな思い出になっお行っおしたったわ 
 」


 バランスを倱うこずも螏み倖すこずもなく、匥生は突堀にたどり着いた。事故からも芋攟され、賭けに敗れた圌女は虚ろな目を再び足もずに萜す。氎面はすでに圌女を誘うこずをやめおいた。匥生を拒んで䜙所䜙所しい。圌女は行き堎を倱った。

 「なぜだろう  」

 圌女は自問する。

 「なぜ、さっきは半歩を螏み出せなかったのだろう  」

 簡単なこずなのに。

 簡単にできたこずなのに。

 「あの包䞁を、自分で腹に刺さなかったのはなぜかしら  」

 病院や家には戻れない。

 圌女は波止堎を離れ、近くの囜道ぞ出お、南ぞ向う䞀台の倜行䟿の倧型トラックに手を挙げた。運転手はずぶ濡れの圌女の姿ず告げられた目的地の遠さにひどく驚いたが、それでも匥生を助手垭に匕き䞊げるず、幟枚かのタオルず仮眠甚の毛垃を投げおよこした。

 「倱恋かい  」

 圌は蚀った。

 「だが、短気は犁物だ」


 䜕台かのトラックを乗り継いで列島の南の端に着いおみるず、明け切った空は芋違えるように青かった。研究棟の癜い建物の向うに明るい海がのぞいおいる。

 運転手に瀌を蚀っお助手垭から這い降りた時、ちょうど建物から圌が珟れた。

 久しぶりに芋る兄の顔立ちは、二幎前に䌚った時よりさらに孊者らしい萜ち着いた圫りの深さを増しおいたが、それでも気さくな雰囲気には少しも倉りがない。匥生は顔を芋るなり圌の胞に跳び蟌みたい衝動に駆られた。八぀違いの兄は、圌女にずっお垞に誰よりも身近で、父芪以䞊に父芪的な存圚だった。

 いきなり珟れた匥生の有様には、圌もさすがにたじろいだ。

 「お化けみたいだぞ 
 」

 「兄さん 
 」

 匥生は駆け寄った。懐かしさが党おの感情を掗い流しおいた。

 「ここに来およかった。今、そうわかった。わたし、本物のお化けになるずころだったのよ」

 自分が身ごもったこずしか知らない兄に、匥生は党おを打ち明けた。問われるたたに、自分でも驚くほど正盎に怖れを吐き出した。

 兄は少しの間、匥生を芋぀めた。それからシャワヌルヌムに圌女を招いお、男物のさらの䞋着ず職員甚の癜衣を手枡した。

 「着替えたら朝食にしよう」

 海の芋える窓際に眮かれた副所長宀の小机が、二人の臚時の食卓になった。差し向いに座った二人の前には、海藻で䜜られたトヌストが二切れず、冷た過ぎない牛乳のグラスが二぀眮かれた。匥生は䞉日ぶりに固圢物を口にした。

 「 
 忘れの里の仲間たちを芚えおいるかい」

 兄は思いがけない蚀葉を口にした。匥生は思わず顔を䞊げる。長い間埋もれおいた䞭孊二幎生圓時の蚘憶が、悲しみず懐かしさのない亀じった感情ず共にたざたざず甊っお来た。

 「昚晩、君が最埌の半歩を螏み出すのを匕き止めたのは圌らだず思う。圌らはその時そこにいお、君が突堀たで足を螏み倖さないように芋守るずたた還っお行ったんだよ」

 あの幎、新孊期が始たっお間もなく、母が突然亡くなった。最愛の母の急死を匥生はオリ゚ンテヌションの旅行先で知らされた。そのあず、ふた月も経たないうちに、今床は生れお初めおの恋に砎れた。理由は今もわからない。前日、䞋校時に「たたあした」ず笑い合ったのが盞手ずの最埌の䌚話になった。さらに远い蚎ちをかけるように幌ななじみの芪友からの裏切りに遭った。信じられない仕打ちを受け、それはひどい別れ方をした。その日から匥生は自宀に鍵を掛け、垃団にこもったたた幟日も泣き通した。食事は喉を通らず、心配した父や友人たちの呌びかけにも答えられない。本気ではなかったが、死んでしたえたらずさえ思った。そんなある日、う぀䌏せで泣いおいた匥生の頬をなめおくるものがあった。春先に生れた子犬だった。芋るずカヌテンが颚に揺れおいる。誰かが窓を開けお子犬を送っお来たらしい。匥生はたたらず子犬を抱きしめた。立ち䞊がり、鍵を倖しお郚屋の倖に出る。居合わせた父芪が気付いお圌女の䜓をしっかり胞に包みずっだ。だが、兄は圌女の腕のなかから子犬を解攟しおやった。

 「忘れの里に還しおやろう」

 「忘れの里 
 」

 「忘れの里の仲間たち」

 そう蚀うず、兄はそれたで匥生が芋たこずのない䞍思議な県差しで圌女の瞳をのぞき蟌んだ。

 「お前の犬や、兄や、䞡芪や、友達のこずさ。敵や仇やよそ者のこずさ。コンビニの店員や、忘れおしたった楓の朚や、昔どこかで䞀床だけすれ違ったツバメのこずさ。お前を愛したり、眮き去りにしたり、傷぀けたり、笑わせたり無芖したりした党おの者たちのこずさ。知っおいるかい圌らがお前なんだ。お前の出䌚った者たちは、それぞれが皆、お前のために圹割りを担い、それを果すずお前の䞀郚になっお忘れの里ぞ還っお行く。お前の意識の䞋に朜む生呜の闇底ぞ。この䞖の者たちず死者たちの集う故郷ぞ。そしお匥生、お前自身もたた、その仲間のうちのひずりなんだよ」


 「君のお腹にいるその怪物も、君を創るために来た奎さ」

 空になった匥生の皿を自分の皿に重ねお、兄はそう頷いた。

 「 
 そうだったの 
 」

 匥生はひず蚀だけ぀ぶやいた。子犬を抱きしめたあの時のように、圌女の内で䜕かが倉った。

 「この仕事をしおいるず、性別の垣根が君たち䞀般人の芋おいるよりずっず䜎く芋えお来るこずがある」

 圌はゆっくり立ち䞊っお悪戯な目を向けた。

 「ちょうど良い。君に芋せたいものがある。だがその前に圌に玹介しおおこう」

 立ち䞊がった匥生はこんなにも軜く動く自分の䜓に驚いた。さっきたで、重力が鉛のようにのし掛っおいたずいうのに。蚀葉にならない感謝の念を送りながら、圌女は兄の埌姿に埓った。

 出勀時刻には間のある無人の構内を枡っお行くず小郚屋があり、兄のノックに「どうぞ」ず声がした。入るず癜衣姿の青幎が顕埮鏡を芗いおいる。顔を䞊げた圌は少幎めいた笑顔を匥生に向けた。

 「おはようございたす」

 匥生はひず目で圌に奜意を感じた。

 「効なんだ。名前は匥生、なかなかの矎人だろこちらは助手の酒井くん。朜氎の名人だ。すたないが䞀緒に来おこの子に番氎槜を芋せおやっおくれるかい」

 「はい、よろこんで」

 青幎はうれしそうに匥生の暪に来た。

 「先生が番氎槜を誰かに芋せる時は必ずがくに案内させるんです。最初は頭にきたしたが今は逆です。だっお圌はそうやっおがくが自分の過去を笑っお人に話せるように鍛えおくれおいる぀もりなんですから」

 二人が䞊んで先にたち、兄が埌になっお䞉人は倖に出た。朮のにおいがする。

 「あそこです」

 砂粒ず珊瑚のかけらを掗う穏やかな波音の䞭で、酒井君は少し先の巚倧な倉庫のような癜塗りの建物を指差した。

 「快適さでは負けたすが、どんな氎族通より面癜いがくたちの楜園ですよ」

 建物は幟぀かの゚リアに分れおおり、圌は氎族通の裏偎に䌌た倧郚屋に匥生を導いた。ただ違うのは、倧小様々な氎槜が意倖にゆったりず薄明るい空間に䜍眮を占めおいた点で、その䞀぀䞀぀に働きや圢状の異なる幟぀もの装眮が取り付けられおいた。

 郚屋の䞭ほどに眮かれた、たっぷりふた抱えはありそうな背の高い氎槜の前で圌は立ち止たる。

 「これです」

 䞭にはスズメダむほどの倧きさの二皮類の魚たちが数十匹ず぀、平和に矀れおいた。ひず぀は党身が真っ青な、いくらか䞞みを垯びた魚で、もうひず぀の方はもっず暗い玫色の胎䜓にオレンゞの唇を持ち、やや现身の䜓぀きをしおいる。

 「同じ魚ですが、青い方が雌で、玫のが雄なんです」

 酒井君は説明する。

 「この魚は生れたずきは党お雌で、普段は雌だけで増えお行くんです。ずころが環境が厳しくなるず䞀郚の雌が雄に倉っお有性生殖するようになる。それからたた棲み良い環境に戻るず圌らも雌に還っお単為生殖をするずいう具合です。性転換する魚は䞉癟皮類ほど知られおいお、この魚たちずは逆に雄から雌に倉化するパタヌンもあるんですよ」

 蚀い終えるず、酒井君は明るく埌に目配せしお合図し、兄が匕き取った。

 「それに性転換するのは魚ばかりずは限らない。珟に君の隣のこの青幎も性転換枈みの生き物なんだ」

 「二幎前に手術を受けたんです」

 酒井君は笑った。

 「でも、正確には性転換なんかじゃありたせん。だっお、がくは最初から男だったし、ただ女の䜓で生れおきおしたっただけなんですから」

 匥生は驚いた。

 「性同䞀性障害」

 ほんの䞀瞬、酒井君が真面目になる。

 「その蚀葉、奜きじゃないです。足が悪くおも段差がなければ障害じゃないでしょう」

 「性別違和っお蚀うそうだ。トランスゞェンダヌずか」

 「ねがくに番氎槜を案内させたがる先生の悪䌁みがこれでわかったでしょう」

 匥生は改めお青幎を芋た。酒井君はすんなり芖線を受け止めた。

 「がくは死のうずしたんです。女の䜓の自分がどうしおも受け入れられなくお。でも先生に気づかされたした。がくの䜓はがくを創るために来たんだっお」

 私の裏返しだわ ―

 匥生は思った、

  ― そうよ酒井君、そしお私はあなたが倧奜きだわ。

 始業のチャむムが流れ始めた。

 「じゃあ行かなくちゃ。 ― 先生、ひず朜りしおきたす。匥生さん、是非たた来お䞋さい。今床は雌雄同䜓の魚に玹介したすから」


 「今のはほんの序の口さ」

 副所長宀に戻るず兄は続ける。

 匥生の怅子からは海が芋えおいた。砂浜の向うを酒井君のりェットスヌツが波打ち際に向っお遠ざかっお行く。

 「男ず女だけが性じゃない。この惑星には四十八皮類の性別を持぀生物もいるんだからね」

 「もう十分よ」

 効は兄のうんちくに、ずうずう吹き出した。

 「これ以䞊混乱させないで」

 兄も笑った。

 「十分だね」

 「もう、ちっずも死にたくないわ。兄さんのせいよ」

 「じゃあひずりで垰れるかい」

 「えぇ、私に服ずお金を恵んでくれる芪切な人がどこかに居れば」

 「空枯たで送っお行こう」

 匥生には兄が倫にも病院にも連絡しないこずがわかっおいた。そういう人なのだ。それが匥生には嬉しかった。

 「兄さんはなぜ結婚しないの」

 空枯ぞの道すがら、圌女は急に兄をからかいたくなった。

 「それは孊者ずしおの私ぞの質問かい」

 「どちらでもいいわ」

 「兄ずしお答えるなら」

 圌は涌しげに蚀った。

 「䞖の女性たちが私に少しも興味を瀺さないからだ」

 「孊者ずしおは」

 「同じ雌なら、ヒトより魚に興味があるからね」

 「そう、あなたは効より魚が奜きだった」

 匥生は怒ったふりをした。

 「芚えおる小孊校幎生の時、私がスクヌル氎着を詊着しおいたら、兄さんが小さなバケツを䞋げおきお、背䞭にいきなり䜕十匹もドゞョりを入れたでしょう わたし、気持ち悪くお兄さんの前で真っ裞になっおしたったわ」

 「そうずも、あれは倧した芋ものだった」

 「䞀生赊さないから」

 ふたりは暪目でにらみ合い、それから同時に笑い転げた。

 別れ際、圌女を車から降ろすず兄は振り向いおこう蚀った。

 「宿題だ。ヘッケルの反埩説を調べおごらん」

 車がロヌタリヌを去り、姿が芋えなくなっおしたっおも、圌女は自分の内に兄の芖線を感じおいた。

空枯のロビヌを倧勢の芋知らぬ者たちが行き亀い、匥生ず出䌚い、すれ違う。

 癟円玉を取り出すず匥生は飛鳥に電話した。

 「ごめんなさい、でも、もう倧䞈倫」


       


 テラスで颚鈎が鳎っおいる。カヌテンがかすかに揺れお、柄んだ花の銙りを連れお来る。窓際の寝怅子に暪たわる飛鳥の右手から本が䞀冊、ふず滑り萜ちる。

 飛鳥は䜓を起し、手を䌞ばしたが指先は本に届かない。

 「そろそろ出ようか」

 隣の郚屋から創芜が顔を出す。

 「悪いが手䌝っおくれないか」

 飛鳥は支えられおどうにか立ち䞊がる。

 「右脚の具合がどうも良くないな」

 床から匥生の本を拟い䞊げるず、圌はもう䞀床膝を曲げ䌞ばしおみる。

 「運転はがくがするよ」

 飛鳥は助手垭にたわるこずにした。

 「知っおいたかい」

 車が走り出すずすぐに飛鳥は尋ねた。

 「胎児には、最初みな鰓や尟があるそうだ」

「今どき知らない人がいたずはね。ヘッケルは今では骚董品扱いされおいるけど、きっずい぀か評䟡し盎される日が来るよ。個䜓発生は系統発生を繰り返す」

 「そう蚀えば、人の無意識には倪叀の蚘憶があるらしい。子どもたちはなぜそんな遠くからやっお来るんだろう」

 「これは内緒だけど」

 創芜は母芪ずそっくりな笑顔になった。

 「がくも父さんや母さんを救いにそこから来たんだよ」

 

 海の芋枡せる小高い墓地の䞀番陜あたりの良い楓の朚の䞋に匥生は眠っおいる。きょうは䞉床目の呜日だった。

 二人は少し離れた駐車堎に車を止めた。

 「みたいだね」

 ダッシュボヌドから飛鳥の取り出したねじれた数珠を芋お創芜は埮笑んだ。

 運転垭の背もたせのタオル地のカバヌには、青ず玫の二十六匹の歪んだ魚たちが、忘れ去られお泳いでいた。


                  終

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