忘れの里の仲間たち

友未 哲俊

🐟🐟🐟

       1


「ぬくもりにあふれているね」

 夫が隣でささやいた。

 「本当に」

 弥生も微笑んだ。

「前に立っているだけで愛情に包まれて行くわ」

 黄金色のタイトル板には「母と児」の飾り文字。

 先週初めてこの展覧会を見に来たときも、二人はこの場所で全く同じ会話を交していた。弥生も飛鳥もヒンデミットが好きだった。だが、その好みは少し違っていた。弥生はこの画家の、幻想色のメルヘン世界にひかれていたが、飛鳥の方はより写生的なタイプの作品や、逆にもっと抽象的な側面に興味があった。この絵は二人の好みがその両端で重なり合って、お互いに共感し合える境界域の作風だった。

 産着にくるまれた幼な子は、丸顔のふくよかな母親の両腕のなかで優しく胸に抱かれ、それがジグソーパズル風の細片に分割されて、パステル調の淡い色彩で浮んでいる。

 「ヒンデミットは宗教画とは縁のない人だと思っていたけれど」 先週、妻に伝えそびれていた感想を思い出して、飛鳥は付け足した、「これは彼にとってのマリアとキリストじゃないかと思えてくる … 」

 「そんなはずないわ」

 弥生はそっけなく否定した。

 「ふたりともこんなに幸せそうだもの」

 それはまわりの人々が誰ひとり気付かないほど小さなつぶやきだったが、夫の耳には腑に落ちない何かが残された。

 「あの子は女の児よ」


 「ご妊娠です」

 面談室の黒革張りのソファーに並んで待つ二人に満面の笑みで医師がそう告げたのは、二ヶ月前、年の瀬も間近に迫った午後のことだった。

 「おめでとうございます。5週目でまちがいないでしょう」

 二人は感激のあまり人目もはばからずに涙して抱き合った。結婚してから十三年間、この報せをどれほど待ちこがれてきたことだろう。一時はあきらめて、養子を捜しはじめたこともあった。

 逸る心を抑えきれず、二人はそのまま、ごった返す歳末商戦の街なかにくり出し、ベビー用品の大型ストアを訪れた。どうしてもそうせずには気の済まないほど二人の気持ちは昂っていた。

 「マドカはどう?」

 愛らしいベッドたちに囲まれて、弥生は夫に提案した。

 「窓の香りって書くの。ほら、私たちいつもテラスの窓辺で赤ちゃんのことを話し合っていたでしょう? 風が季節ごとに違う香りをカーテンの向うから連れて来て私を慰めてくれた。それに、この子にはまんまるな幸せを贈ってあげたいの」

 「いいぞ、窓香、それがいい! でも、男だったら?」

 だが、弥生はすでに次のベッドに向っていた。


 飛鳥が、はっきりおかしいと気付いたのは、春の彼岸が過ぎ、昼の芽吹きが夜の長さをしのぎはじめた頃だった。その日、彼は年度末の残務整理を終え、二週間の休暇をとって明日からの旅行の荷を作っていた。弥生の気分転換に二人でしばらく山里の隠れ宿でのんびりしよう。このところ、弥生の様子がすぐれない。そろそろ安定期に入っても良い頃なのに相変わらずつわりが続き、何かと神経質になって塞いでいる。それでも飛鳥や周囲の者たちには笑顔を見せ、精一杯自分の仕事をこなそうとしているのがわかってこころ辛い。少し家事から放してやりたい。

 「考えたんだけど」

 彼はリュックサックに着替えをつめながら、傍らの妻を見た。

 「男ならハジメはどうかな。天地創造の創の字で」

 弥生の横顔が突然仮面のようになった。人間らしい表情が一瞬にして消え失せ、ソファーから立ち上がると夫の言葉など全く聞こえなかったかのようにあらぬ方へ去って行こうとする。だが聞えなかったはずはない。飛鳥は何かにとり憑れたように自分を無視する妻を呼び止めた。

 「どうしたんだ? 気に入らないのか」

 「男?」

 熱にうなされてでもいるかのように、弥生はか細く叫んだ。

 「それが私から産まれてくるの !? 」

 そしていきなり倒れて気を失った。


 「ごめんなさい」

 病院のベッドで気づいた弥生の瞳から一粒涙がこぼれた。

 「折角の休暇が台無しね … 」

 「いいさ。それより、さっきは ― 」

 さっきはなぜ、と尋ねかけた言葉を飛鳥は際どく飲み込んだ。

 「さっきは驚いたな。気分はどうだい?」

 「良くないわ。ゾクゾクして吐き気がする」

 表情の戻った弥生に、飛鳥はむしろホッとする。だが、彼女は先ほどの出来事を覚えているのだろうか?

 「あなた」

 弥生がうるんだ目で訴えた。

 「わたし、怖い」

 それから両方のまぶたを閉じると目の下に涙をにじませた。

 「助けて …」

 彼女は鳥肌立った両腕の端の小さな両こぶしをギュッと固めたまま懸命に何かに耐えていた。

 「失礼します」

 カーテンが開いて若い看護師が検査用のワゴンを横付けした。

 「バイタルをチェックさせていただきます」

 看護師は事務的に体温と血圧を測り、採血を終えると確認した。

 「後ほどドクターがまいります。前回のエコーからひと月経ちますのでおなかを撮らせていただきますがよろしいですか?」

 弥生は答えなかった。

 「お願いします」

 飛鳥が答えた。


 「母子ともに順調です。ご心配いりません」

 モニターには静止画像が映っている。3Dや動画の検査を弥生は断った。だが、親切過ぎる医師はその意味に気付かず、訊かれもしないことまで口にした。

 「男の児さんですね。見えますか? ほら、これがペニスです」

 医者がピーナツ状の小さな影を棒で二人に示した。

 飛鳥はとっさに妻を見た。彼女は力なく横たわったまま何の反応も見せない。

 「平気かい?」

 ― 朦朧とした意識のなかで弥生はその突起を見つめていた。

 「あれはナイフだわ」

 ぼんやりと、彼女は考える。

 「私の内臓を切り裂き、心を破り、命を奪いに来たんだわ …」


 彼女の不安の正体が何なのか、飛鳥には理解できなかった。ただ、妊娠以来、妻が、男児を身ごもっている可能性から無意識に目を逸らそうとしていたこと、その証拠を突きつけられるかもしれない現実に怯えていたことは明らかだった。それが何であれ、このままで良いとは思えない。彼は、妻とじっくり話し合おうと機会をうかがった。


 「女の子が欲しかったのかい?」

 二日後、退院して自宅に戻ると、夫は彼女の隣に座って静かに訊いてみた。

 「男はそんなに厭なのかい?」

 入院中、弥生はずっと生気を失くしたままだった。表情を失うほど激しい発作はなかったが、言葉数が極端に減り、どん底の鬱に居た。

 「そうじゃないの … 」

 彼女は虚ろに頭(かぶり)した。

 「 … うん。そんなはずはない。養子の話をしていた時だって、君は別に男の子を嫌がってはいなかったんだから … 」

 飛鳥は片腕を妻の頭の後に挿し入れて髪の毛を抱いた。弥生の身体はそれでも強張っていて解けない。

 「よその子なら良いの」

 弱弱しく、彼女はつぶやく。

 「私も知らなかった。… 妊娠するまでは。女でないものを自分の内に宿すことがこんなにもおぞましいなんて」

 「おぞましい?」

 「 私は女。 なのに私の内には今、女でない者がいる。得体の知れない別の存在、忌わしい異形の生き物が … 」

 「でも、生れてくる赤ん坊の半分は男だよ。その子たちの母親も皆そんな風に気味悪がったりすると思うかい?」

 弥生は黙り込んだ。私はどうかしている。だが、女が息子を孕むとすればそれは罪深い近親相姦なのだ。きっと罰が下される。

 「疲れたわ」弥生はベッドに向った。

 「ひとりにして」

 飛鳥には彼女の怯えを受け入れることができなかった。彼女を責めようとは思わなかったが、あまりにも常軌を逸していて、どう同情すべきなのかさえわからない。彼はそれがマタニティーブルーに過ぎないと思いたかった。繊細な性格の母親の場合、時に偏執的な不安に襲われて周りの者を驚かせるケースも稀にあるらしい。自分まで取り乱して彼女をさらに追い込むような真似だけは絶対に避けなければならない。その判断から、病院にはただ彼女が急に倒れたことだけしか伝えていなかった。だが、それはやはり間違っていたようだ。医師にはもっときちんと状況を説明して、性別が分っても男だったら伏せておくように口止めしておくべきだった。弥生の言葉に何か病的なものを感じた彼は、担当医に電話した。


 カウンセリングを受けることに弥生は抵抗しなかった。が、それは彼女自身が治療に前向きであることを意味するものではなかった。飛鳥には妻が最初から回復など信じていないように思えたし、彼女が医者に心を開こうとしているようには見えなかった。多分、夫の自分と言い争いになるのを避けるためだけに受け入れているのだろう。彼女は入院せず、週に二度通院する方法を選んだが、回を重ねるごとに、ますます蒼白く、無口になって行く。目の下には隈ができ、日に日に体重が落ち続けるので今では点滴と栄養剤が欠かせない。

 カウンセリングは何の成果もないままふた月に及び、最後の回には精神分析医が現れた。それまでの精神科医のやり方とは違って、分析医は弥生の心理状態や対人関係には直接触れず、ロールシャッハテストを行ったあと、彼女を催眠誘導して幼少期の思い出や最近の出来事を自由に語らせながら、時折ちょっとした質問をはさんだ。診察を終えると、医者はふたりをその場に待たせて他の担当医たちと話し合うため一旦退出し、やがて戻って来るとこう言った。

 「一度の診察では不確かな部分もありますが、奥様の異性への態度自体には、特に問題はなさそうです。男性恐怖症でもなければ男嫌いでもなく、男尊女卑でもその逆でもありません。お父様やお兄様への態度も親密かつ健全で、多少のエディプス複合はあっても、それは仲の良い家族の間ではよく見られる程度のものです。成育史の中でトラウマになるような犯罪に出遭ったり、男の子の事故死を見たり処刑シーンにショックを受けたりした痕跡も認められません。特殊なケースとして、奥様の中に別の人格があるのではないかとも疑ってみましたがそれらしい兆候もありませんでした。それで、産科や他の担当医たちとも話し合ったのですが、とりあえずカウンセリングは終了として、今後は体力の回復に重点的に取り組まれるようにされてはいかがでしょうか。このまま同じことを続けても却って奥様の精神的負担になりそうで、お子様の健康も心配です。体力さえ回復されれば、それがきっと心を支えて行ってくれるはずです」

 事実上の見離し通告を受けて、飛鳥は翌日から長期の休暇を取り、なるべく多くの時間を妻と過すようにした。

 だが、とうとう事件が起きた。

 梅雨入り前の、蒸し暑い午後、朝から気分のすぐれない弥生のために飛鳥はひとりで病院に出かけて行った。医者の話を聞き、薬を受け取って家に戻ってみると、錯乱した弥生が包丁を握って玄関に立っていた。

 「刺しなさい!」

 彼女は叫んで飛鳥に包丁の柄を突きつけた。

 「お腹からこの化け物を取り出して!」

 飛鳥は包丁を取り上げて、彼女を寝室に戻そうとしたが、弥生は頑なに拒んで激しく叫び続けた。

 「お願い! 今すぐ病院へ運んで! 私の体からこの男を取り出して!」

 飛鳥は思わず手を振り上げた。悲しみと怒りがどっと全身に込み上げて来た。だが、我に返ると、その手を収め、かわりに両手で彼女の肩を突いた。彼女はよろめいて居間のソファーに崩れ落ち、いきなり狂ったように泣き出した。飛鳥は見たことのない妻の姿に茫然と立ち尽くし、彼女に手を上げかけた自分自身にも驚いた。

 「さあ、ベッドへ行こう」

 彼は彼女を抱き起こし、新婦を抱えるように持ち上げた。が、あまりにも軽々と持ち上がったその衰弱ぶりに彼は再び愕然となった。ベッドに横たえてからも彼女はずっと泣いていた。


 泣き続ける自分の声を遠くに聞きながら弥生は独りで思い返して行く。

 ごめんなさい … こんなはずじゃかったの。妊娠がはじめてわかった時、私たち抱き合って泣いたわね。あなたはあんなに幸せそうだった。あの時の笑顔を私は裏切ってしまったわ。頭が変なのね。自分の子供を怖がるなんて。でも、自分ではどうにもならないの。体の奥深い所から、いにしえの敵意が伝わって来る。女でないものを孕んだ罪を償えと誰かが言っている。私、きっと死ぬのね。あなたを残して逝くんだわ。ごめんなさい。あなたを愛していたわ。世界中で私たちほどぴったりの夫婦はいないと思っていた。でも、きっと違ったのね。ほら、ヒンデミットを覚えている? ふたりとも彼の絵が好きなのに、本当に好きな絵は別々だった。あの絵は私たちがお互いにかろうじて受け入れられるぎりぎりの接点だったのかもしれないわ。そして、もしかすると私たち自身も本当は …


 救急車が来て彼女を病院に運んだ。ようやく眠った彼女を見届けると、飛鳥はいったん家に帰って入院の支度をはじめた。だが、しばらく座って小物をまとめているうちに疲労に襲われていつの間にか眠りに落ちていた。

 気がつくとすでに日が傾きかけている。電話が呼んでいた。出ると、女性の声が、病院から弥生が姿を消したと伝えて来た。とび出した外の世界は小雨に煙っていた。


 汚い水だわ。

 昔ふたりで歩いた埠頭をさまよいながら、弥生は岸壁をながめていた。水面には木片が幾つか浮び、端に絡んだポリ袋を連れて暗く揺れている。かすかな腐臭が空気に溶け込み、霧雨がかつて傘を寄せて語り明した頃のように暖かい。

 「お還り、お前のもと存った世界へ。闇と混沌の、生命以前の場所へ」

 延々と続く出口のない悪夢の淵で、彼女は呪文を唱え続ける。

 やがて、弥生は岸壁に歩み寄り、波打ち際ぎりぎりに立ち止まって足をそろえた。それから、ゆっくりと左の脚を前に浮かせて目を閉じる。

 「あと半歩 …」

 右脚が彼女を支えようとしてぐらつく。

 「それでお終いになる …」

 十秒か、それ以上の間、静まり返った波止場の水面の空中にそのままの姿勢が保たれた。

 だが、右足は最後の半歩を踏み切ろうとしなかった。

 弥生は脚を降ろした。

 「そう …、あなたは逝きたくないの?」

 右足に言って、彼女は寂し気に向うの突堤に目を遣った。

 「それなら私にいい考えがある」

 この岸壁に沿ってあの突堤まで歩いて行こう。ぎりぎりの縁を進んで行けばきっとどこかで足を踏み外す。自分でとびこまなくても、壜のかけらか腐った果物に足をとられてバランスを崩すだろう。それは事故だし、誰にも止められないはずだ。


       2


 弥生の回復ぶりに周囲の者たちはただ唖然とするばかりだった。それは回復というより、別人に生れ変ったような豹変のしかたであった。

 「ごめんなさい、でも、もう大丈夫」

 失踪の次の日、弥生からの電話を受けて車で迎えに行った時、彼女はすでに元の自分を取り戻しているように見えた。

 「ごめんなさい」

 車のなかで自分の胎内に向って彼女がそう語りかけるのを見た飛鳥はそれ以上運転できなくなり、車を停めてしばらくハンドルに泣き伏した。

 弥生は彼の背にやさしく手を置いて耳元にささやいた。

 「近くにレストランがあればいいわね。この児がおなかを空かせているの」

 一週間もすると彼女の頬には赤みが戻り、点滴も栄養剤も要らなくなった。退院の後も、ベッドに寝込むことはなく、これまでの空白を埋め合わせて余りある出産の準備への驚異的な熱意と奇跡のような食欲が発揮された。つわりも治まり、ほどよく膨らんだお腹から胎児が元気に突いてくる。

梅雨明けの一日、二人は産着を見に売り場に出かけた。

 「魚の刺繍を入れたいの」

 たくさんの服を買い込んだあと、弥生は最後に服の形をしていない一枚の真っ白なタオルを選んだ。

 「 … あなたが生れたら、最初にこれに包んであげましょう」

 そのあと彼女は手芸店に寄り、青と紫の柔らかな素材の刺繍糸と、針と初心者向けの教本を求めた。

 「おや、おや」

 飛鳥がからかった。

 「これから入門かい ?」

 「刺繍なんて知らないの。私、世間知らずの箱入り娘だったから」

 その言葉の通り、大きなバスタオルの上に次から次へと縫い取られて行く青と紫の小さな魚たちは、どれも顔や形がバラバラで、飛鳥から見ても可愛すぎるほど下手くそだった。

 翌日、十何匹目かの魚が完成しかけた時、はたと手を止めて弥生が飛鳥の顔を見た。

 「ハジメよ、それがいい ! 天地創造の創の字に芽生えの芽を添えて」

 飛鳥は胸がつかえて物が言えなくなった。こみ上げる涙を必死でこらえたが、「創芽 !」と言おうとした瞬間、顔が崩れて嗚咽した。紛れもなく、弥生は母として我が児を無条件に受け入れていた。

 「創芽! それだよ! 」

 「泣き虫」

 弥生は飛鳥の肩に自分の頭を預けて慰めた。

 「でも、もう心配いらないの。みな思い出になって行ってしまったわ … 」


 バランスを失うことも踏み外すこともなく、弥生は突堤にたどり着いた。事故からも見放され、賭けに敗れた彼女は虚ろな目を再び足もとに落す。水面はすでに彼女を誘うことをやめていた。弥生を拒んで余所余所しい。彼女は行き場を失った。

 「なぜだろう ? 」

 彼女は自問する。

 「なぜ、さっきは半歩を踏み出せなかったのだろう ? 」

 簡単なことなのに。

 簡単にできたことなのに。

 「あの包丁を、自分で腹に刺さなかったのはなぜかしら ? 」

 病院や家には戻れない。

 彼女は波止場を離れ、近くの国道へ出て、南へ向う一台の夜行便の大型トラックに手を挙げた。運転手はずぶ濡れの彼女の姿と告げられた目的地の遠さにひどく驚いたが、それでも弥生を助手席に引き上げると、幾枚かのタオルと仮眠用の毛布を投げてよこした。

 「失恋かい ? 」

 彼は言った。

 「だが、短気は禁物だ」


 何台かのトラックを乗り継いで列島の南の端に着いてみると、明け切った空は見違えるように青かった。研究棟の白い建物の向うに明るい海がのぞいている。

 運転手に礼を言って助手席から這い降りた時、ちょうど建物から彼が現れた。

 久しぶりに見る兄の顔立ちは、二年前に会った時よりさらに学者らしい落ち着いた彫りの深さを増していたが、それでも気さくな雰囲気には少しも変りがない。弥生は顔を見るなり彼の胸に跳び込みたい衝動に駆られた。八つ違いの兄は、彼女にとって常に誰よりも身近で、父親以上に父親的な存在だった。

 いきなり現れた弥生の有様には、彼もさすがにたじろいだ。

 「お化けみたいだぞ … 」

 「兄さん … 」

 弥生は駆け寄った。懐かしさが全ての感情を洗い流していた。

 「ここに来てよかった。今、そうわかった。わたし、本物のお化けになるところだったのよ」

 自分が身ごもったことしか知らない兄に、弥生は全てを打ち明けた。問われるままに、自分でも驚くほど正直に怖れを吐き出した。

 兄は少しの間、弥生を見つめた。それからシャワールームに彼女を招いて、男物のさらの下着と職員用の白衣を手渡した。

 「着替えたら朝食にしよう」

 海の見える窓際に置かれた副所長室の小机が、二人の臨時の食卓になった。差し向いに座った二人の前には、海藻で作られたトーストが二切れと、冷た過ぎない牛乳のグラスが二つ置かれた。弥生は三日ぶりに固形物を口にした。

 「 … 忘れの里の仲間たちを覚えているかい?」

 兄は思いがけない言葉を口にした。弥生は思わず顔を上げる。長い間埋もれていた中学二年生当時の記憶が、悲しみと懐かしさのない交じった感情と共にまざまざと甦って来た。

 「昨晩、君が最後の半歩を踏み出すのを引き止めたのは彼らだと思う。彼らはその時そこにいて、君が突堤まで足を踏み外さないように見守るとまた還って行ったんだよ」

 あの年、新学期が始まって間もなく、母が突然亡くなった。最愛の母の急死を弥生はオリエンテーションの旅行先で知らされた。そのあと、ふた月も経たないうちに、今度は生れて初めての恋に破れた。理由は今もわからない。前日、下校時に「またあした」と笑い合ったのが相手との最後の会話になった。さらに追い討ちをかけるように幼ななじみの親友からの裏切りに遭った。信じられない仕打ちを受け、それはひどい別れ方をした。その日から弥生は自室に鍵を掛け、布団にこもったまま幾日も泣き通した。食事は喉を通らず、心配した父や友人たちの呼びかけにも答えられない。本気ではなかったが、死んでしまえたらとさえ思った。そんなある日、うつ伏せで泣いていた弥生の頬をなめてくるものがあった。春先に生れた子犬だった。見るとカーテンが風に揺れている。誰かが窓を開けて子犬を送って来たらしい。弥生はたまらず子犬を抱きしめた。立ち上がり、鍵を外して部屋の外に出る。居合わせた父親が気付いて彼女の体をしっかり胸に包みとっだ。だが、兄は彼女の腕のなかから子犬を解放してやった。

 「忘れの里に還してやろう」

 「忘れの里 … ?」

 「忘れの里の仲間たち」

 そう言うと、兄はそれまで弥生が見たことのない不思議な眼差しで彼女の瞳をのぞき込んだ。

 「お前の犬や、兄や、両親や、友達のことさ。敵や仇やよそ者のことさ。コンビニの店員や、忘れてしまった楓の木や、昔どこかで一度だけすれ違ったツバメのことさ。お前を愛したり、置き去りにしたり、傷つけたり、笑わせたり無視したりした全ての者たちのことさ。知っているかい?彼らがお前なんだ。お前の出会った者たちは、それぞれが皆、お前のために役割りを担い、それを果すとお前の一部になって忘れの里へ還って行く。お前の意識の下に潜む生命の闇底へ。この世の者たちと死者たちの集う故郷へ。そして弥生、お前自身もまた、その仲間のうちのひとりなんだよ」


 「君のお腹にいるその怪物も、君を創るために来た奴さ」

 空になった弥生の皿を自分の皿に重ねて、兄はそう頷いた。

 「 … そうだったの … 」

 弥生はひと言だけつぶやいた。子犬を抱きしめたあの時のように、彼女の内で何かが変った。

 「この仕事をしていると、性別の垣根が君たち一般人の見ているよりずっと低く見えて来ることがある」

 彼はゆっくり立ち上って悪戯な目を向けた。

 「ちょうど良い。君に見せたいものがある。だがその前に彼に紹介しておこう」

 立ち上がった弥生はこんなにも軽く動く自分の体に驚いた。さっきまで、重力が鉛のようにのし掛っていたというのに。言葉にならない感謝の念を送りながら、彼女は兄の後姿に従った。

 出勤時刻には間のある無人の構内を渡って行くと小部屋があり、兄のノックに「どうぞ」と声がした。入ると白衣姿の青年が顕微鏡を覗いている。顔を上げた彼は少年めいた笑顔を弥生に向けた。

 「おはようございます!」

 弥生はひと目で彼に好意を感じた。

 「妹なんだ。名前は弥生、なかなかの美人だろ?こちらは助手の酒井くん。潜水の名人だ。すまないが一緒に来てこの子に7番水槽を見せてやってくれるかい」

 「はい、よろこんで」

 青年はうれしそうに弥生の横に来た。

 「先生が7番水槽を誰かに見せる時は必ずぼくに案内させるんです。最初は頭にきましたが今は逆です。だって彼はそうやってぼくが自分の過去を笑って人に話せるように鍛えてくれているつもりなんですから」

 二人が並んで先にたち、兄が後になって三人は外に出た。潮のにおいがする。

 「あそこです」

 砂粒と珊瑚のかけらを洗う穏やかな波音の中で、酒井君は少し先の巨大な倉庫のような白塗りの建物を指差した。

 「快適さでは負けますが、どんな水族館より面白いぼくたちの楽園ですよ」

 建物は幾つかのエリアに分れており、彼は水族館の裏側に似た大部屋に弥生を導いた。ただ違うのは、大小様々な水槽が意外にゆったりと薄明るい空間に位置を占めていた点で、その一つ一つに働きや形状の異なる幾つもの装置が取り付けられていた。

 部屋の中ほどに置かれた、たっぷりふた抱えはありそうな背の高い水槽の前で彼は立ち止まる。

 「これです」

 中にはスズメダイほどの大きさの二種類の魚たちが数十匹ずつ、平和に群れていた。ひとつは全身が真っ青な、いくらか丸みを帯びた魚で、もうひとつの方はもっと暗い紫色の胴体にオレンジの唇を持ち、やや細身の体つきをしている。

 「同じ魚ですが、青い方が雌で、紫のが雄なんです」

 酒井君は説明する。

 「この魚は生れたときは全て雌で、普段は雌だけで増えて行くんです。ところが環境が厳しくなると一部の雌が雄に変って有性生殖するようになる。それからまた棲み良い環境に戻ると彼らも雌に還って単為生殖をするという具合です。性転換する魚は三百種類ほど知られていて、この魚たちとは逆に雄から雌に変化するパターンもあるんですよ」

 言い終えると、酒井君は明るく後に目配せして合図し、兄が引き取った。

 「それに性転換するのは魚ばかりとは限らない。現に君の隣のこの青年も性転換済みの生き物なんだ」

 「二年前に手術を受けたんです」

 酒井君は笑った。

 「でも、正確には性転換なんかじゃありません。だって、ぼくは最初から男だったし、ただ女の体で生れてきてしまっただけなんですから」

 弥生は驚いた。

 「性同一性障害?」

 ほんの一瞬、酒井君が真面目になる。

 「その言葉、好きじゃないです。足が悪くても段差がなければ障害じゃないでしょう?」

 「性別違和って言うそうだ。トランスジェンダーとか」

 「ね?ぼくに7番水槽を案内させたがる先生の悪企みがこれでわかったでしょう?」

 弥生は改めて青年を見た。酒井君はすんなり視線を受け止めた。

 「ぼくは死のうとしたんです。女の体の自分がどうしても受け入れられなくて。でも先生に気づかされました。ぼくの体はぼくを創るために来たんだって」

 私の裏返しだわ ―

 弥生は思った、

  ― そうよ酒井君、そして私はあなたが大好きだわ。

 始業のチャイムが流れ始めた。

 「じゃあ行かなくちゃ。 ― 先生、ひと潜りしてきます。弥生さん、是非また来て下さい。今度は雌雄同体の魚に紹介しますから」


 「今のはほんの序の口さ」

 副所長室に戻ると兄は続ける。

 弥生の椅子からは海が見えていた。砂浜の向うを酒井君のウェットスーツが波打ち際に向って遠ざかって行く。

 「男と女だけが性じゃない。この惑星には四十八種類の性別を持つ生物もいるんだからね」

 「もう十分よ」

 妹は兄のうんちくに、とうとう吹き出した。

 「これ以上混乱させないで」

 兄も笑った。

 「十分だね?」

 「もう、ちっとも死にたくないわ。兄さんのせいよ」

 「じゃあひとりで帰れるかい?」

 「えぇ、私に服とお金を恵んでくれる親切な人がどこかに居れば」

 「空港まで送って行こう」

 弥生には兄が夫にも病院にも連絡しないことがわかっていた。そういう人なのだ。それが弥生には嬉しかった。

 「兄さんはなぜ結婚しないの?」

 空港への道すがら、彼女は急に兄をからかいたくなった。

 「それは学者としての私への質問かい?」

 「どちらでもいいわ」

 「兄として答えるなら」

 彼は涼しげに言った。

 「世の女性たちが私に少しも興味を示さないからだ」

 「学者としては?」

 「同じ雌なら、ヒトより魚に興味があるからね」

 「そう、あなたは妹より魚が好きだった」

 弥生は怒ったふりをした。

 「覚えてる?小学校3年生の時、私がスクール水着を試着していたら、兄さんが小さなバケツを下げてきて、背中にいきなり何十匹もドジョウを入れたでしょう? わたし、気持ち悪くて兄さんの前で真っ裸になってしまったわ」

 「そうとも、あれは大した見ものだった」

 「一生赦さないから」

 ふたりは横目でにらみ合い、それから同時に笑い転げた。

 別れ際、彼女を車から降ろすと兄は振り向いてこう言った。

 「宿題だ。ヘッケルの反復説を調べてごらん」

 車がロータリーを去り、姿が見えなくなってしまっても、彼女は自分の内に兄の視線を感じていた。

空港のロビーを大勢の見知らぬ者たちが行き交い、弥生と出会い、すれ違う。

 百円玉を取り出すと弥生は飛鳥に電話した。

 「ごめんなさい、でも、もう大丈夫」


       3


 テラスで風鈴が鳴っている。カーテンがかすかに揺れて、澄んだ花の香りを連れて来る。窓際の寝椅子に横たわる飛鳥の右手から本が一冊、ふと滑り落ちる。

 飛鳥は体を起し、手を伸ばしたが指先は本に届かない。

 「そろそろ出ようか」

 隣の部屋から創芽が顔を出す。

 「悪いが手伝ってくれないか」

 飛鳥は支えられてどうにか立ち上がる。

 「右脚の具合がどうも良くないな」

 床から弥生の本を拾い上げると、彼はもう一度膝を曲げ伸ばしてみる。

 「運転はぼくがするよ」

 飛鳥は助手席にまわることにした。

 「知っていたかい?」

 車が走り出すとすぐに飛鳥は尋ねた。

 「胎児には、最初みな鰓や尾があるそうだ」

「今どき知らない人がいたとはね。ヘッケルは今では骨董品扱いされているけど、きっといつか評価し直される日が来るよ。個体発生は系統発生を繰り返す」

 「そう言えば、人の無意識には太古の記憶があるらしい。子どもたちはなぜそんな遠くからやって来るんだろう?」

 「これは内緒だけど」

 創芽は母親とそっくりな笑顔になった。

 「ぼくも父さんや母さんを救いにそこから来たんだよ」

 

 海の見渡せる小高い墓地の一番陽あたりの良い楓の木の下に弥生は眠っている。きょうは三度目の命日だった。

 二人は少し離れた駐車場に車を止めた。

 「DNAみたいだね」

 ダッシュボードから飛鳥の取り出したねじれた数珠を見て創芽は微笑んだ。

 運転席の背もたせのタオル地のカバーには、青と紫の二十六匹の歪んだ魚たちが、忘れ去られて泳いでいた。


                  [終]

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