リストカットと立ち食いうどん

OOP(場違い)

本編

 娘と立ち食いうどん屋に来るのはこれが最初で、そしておそらく最後になるだろう。

 年末、終電1時間前の地方都市の寂れた駅。いつも朝頃、昼頃に私がこのうどん屋を利用する際の賑わいはあろうはずもなく、私と娘の他には、明日駅の前で野垂れ死んでいても何らおかしくないような、シャカシャカを羽織った老人がひとりいるだけ。

 店員、というかアルバイトの若者が、もう1人、同年代くらいのアルバイト仲間と客の目も憚らず談笑しながら、私たちの注文したかけうどんを丼に移し、取って付けたような愛想笑顔でカウンターへ提供する。


「お待たせしましたー」

「ありがとさん」


 隣で黙ったままの娘。

 いつものように、カウンター席の七味を手に取り、控えめに振りかける。


「かける?」

「かける」


 家から出てきて、初めて娘の声を聞いた。


 10分と少し前。気まぐれに居酒屋で1人酒を引っ掛けて帰ってきた私は、洗面所で、娘が手首にカッターナイフを当てているのを見てしまった。

 頭に血がのぼった、というよりかは、目の前が真っ暗になって、気付けば娘に平手打ちをしていた。

 娘は、泣くでもなく怒るでもなく、カッターを取り落として、俯いて黙った。その手を取って、まだ今日は傷つけられていない手首を確認し、何も知らず寝ているだろう妻を起こさないように娘と一緒に家を出た。

 カッターは今も洗面所の床に落ちているだろう。私の理性では、あれが精一杯だった。


 七味の乗ったうどんを軽くまぜて、静かに手を合わせて食べ始める。自傷行為がバレていきなり駅の立ち食いうどん屋に連れてこられた娘は、少し困惑した様子だったが、私にならって同じようにうどんを啜り始めた。

 いかに早く提供するかに重点を置かれたうどんだ。何か特別なことを言うほどのものではない。熱くて、つるつるもちもちしていて、安っぽいが安心する昆布だしの香り。それだけだ。


「うまいか?」

「普通」

「そうやろな」


 食べている間の会話はそれだけだった。

 ただ黙々と、腹も減っていないのに、出されたうどんを冷めた胃の中へ押し込むように食す。

 娘は、私よりも食べ終わるのが早かった。


「ごちそうさん」

「ありがとうございましたー」


 店を出て、そのまま駅を出る。

 近くのコンビニに置いてあった灰皿を見つけて、私は、娘に断りを入れてタバコを懐から取り出した。コンビニの外壁にもたれて、2人、夜の空に上っていく白い煙を見つめる。


「……安いタバコ吸ってんな」

「お前、タバコの高い安いとか分かるんか」

「コンビニでバイトしてたら、大体は分かるようなる」


 娘がコンビニでアルバイトをしていることを、今初めて知った。いつもよりもタバコの雑味が強く感じられて、少し嘔吐いてしまう。


「なあ、お父さん」

「ん?」

「……お父さんって、怒るんやな。見られた瞬間は、しまった、と思ったけど。まさかビンタされるとは思わんかった」


 父親として舐められているとか、そういうことではないのだろう。

 娘が中学を出たくらいから、高校2年生の今まで、私は、娘に何も干渉してこなかった。その少し前くらいから鬱陶しがられているのは分かっていたし、年頃の娘はそういうものだろうと諦めて、関わらないようにしてきた。夕食は私が遅くならない限りは一緒に摂るが、その時もほとんど会話をしなかった。


「怒ったんとちゃう。ただ、アレや。お前がそれをしているって分かった瞬間、いてもたってもいられんようなってな。気付いたら手ぇ出てた」

「こんなこと言っても、アレやけど。心配せんといて。いっつも、ちょっと表面に傷付けるくらいで、血が出るほどはしてないねん」

「アホか。娘が自分の肌に傷付けてる時点で心配せんといてもクソもないやろ」

「かまってちゃん、っていうか。自分可哀想って感じに浸りたいだけ。痛いのも、血を見るのも、嫌いやし」


 本心で言っているのか、大事にしたくないからそう言っているのか。情けないことに、私には娘の真意を汲み取ることが出来ない。

 自分が父親に向いていないことはずっと分かっていた。

 幼い娘が熱を出しても、1日2日寝てたら治るやろ、以上の心配な感情が湧かなかった。娘が高校に合格したのを祝って家族全員で焼肉屋に行った時も、その日タイガースが勝ったかどうかをずっと気にしていた。

 自分に父親の資格がないことはずっと分かっていた。しかし、今この瞬間、情けないことに私は初めて、娘のために何かをしてやらなければいけないと感じた。


「……お父さんと一緒やな」


 え、と声が漏れて、娘の顔がこちらに向く。

 タバコを灰皿に押し付けて、捨てる。


「お父さんの年収いくらか知ってるか?」

「知らん」

「まぁ……お前を高い塾に通わせたり、お母さんに定期的にブランドのバッグ買ったっても、だいぶ余裕があるくらいは稼いでる」

「へえ」


 いきなり自慢が始まった、説教か。そんな娘の嫌そうな気配を察知して、いや違うねん、と慌てて首を振る。


「一般的に見たらめっちゃ幸せやろ。もうシワもけっこうできたけどまぁ美人な奥さんもおるし、お前みたいな可愛い娘もおって。でもな、ずっと、なんか満たされへんねん」

「満たされへん?」

「心にぽっかり穴空いてる、言うんかな。何してても、いつも虚しい」


 私には、小説家になるという夢があった。

 その夢を叶えられていないから、満足な生活ができていてもこの空虚さが拭えないのではないか。そう考えた時期もあったが、おそらく違う。たぶん私は、小説家になって今と全く違う人生を歩んでいたとしても、今と同じ死んだ目をしていただろう。


「その気になれば、昼は毎回会社の近くの高いステーキ屋にも行けるのに。部下に飯奢ってでかい顔もできるのに。こんな安いシケたやつじゃない、普通のタバコも吸えるのに。

 こんな幸せやのに、幸せなはずやのに、安いうどん食って安いタバコ吸って、被害者面をしてる」


 言うだけ言った。吐き出した。

 絶対に娘に言うべきではなかった、そもそも誰にも言わず、自分の胸の中だけに押しとどめておくべき話を、吐き出してしまった。

 娘の顔を見れなくて、私は、上を向いたまま言う。


「帰ろか」

「うん」


 目を逸らした先の夜空。満月には少し及ばない、大きな月が浮かんでいた。

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