7-5 旅立ち

 喜一は記憶が戻ったわけではないが、色々な人々との会話で天草喜一としてのアイデンティティを取り戻しつつあった。そして、安東高校に復学し、卒業まで希望の家で生活することに決めた。


 綾小路家で荷物をまとめている最中に、恋空から電話がかかってきた。

「もしもし天草、久しぶり! 事件解決してこっちに戻ってくるんだってね」

「完全に解決したとは言い難いけど、元の生活を始めてみようと思う。何かそうしないと次に進まない気がしてね」

「そうか……そう言えば、新田があれから学校に来るようになってね。天草と再会してからすごく雰囲気変わって明るくなったの」

「そうか、よろしく伝えてよ」

「うん、何にしても待ってるから。ようこそ、元の世界へ!」


 恋空は携帯を耳から離すと、雪解けの垣間に新芽を見たような、ホッコリした気持ちになった。とその時、背後に人の気配を感じた。振り向くとそこに新田がじっと立っていた。

「わっ、びっくりするじゃない。いるならいるって言ってよ」

 周りを見渡すと、教室には二人きりしかいない。

「ご、ごめん」

 新田は軽く詫びたが、そこには以前のような卑屈さは感じられなかった。髪型も美容室でおしゃれにカットされており、たたずまいが全体的に垢抜けていた。

(あらこの子、良く見たらなかなかいい男ね)

 恋空がそう思った矢先、新田がおもむろに口を開いた。

「あの……江梨久さん、大事な話があるんだけど」

「え……何よ、大事な話って」

「実は僕、ずっと前から君のことが……」

(ええっ、何? この展開。急過ぎない?)

 放課後三十分過ぎの教室の中に、頬を赤く染めた二人の姿があった。


 †


「短い間でしたが、お世話になりました」

 喜一は直戸と穂香に向かって深々と頭を下げた。

「そんな、よそよそしくしないでよ。高校を卒業したら、またウチに来るんでしょう?」

「おい穂香、人の人生のことをそんな風に勝手に決めるものじゃないよ」

 直戸が娘をたしなめると、喜一は少し照れくさそうに顔を上げて言った。

「ヴァイオリン鑑定の仕事はとても楽しかったし、僕に向いているかもしれないと思いました。だからすぐにでも直戸さんについて修行を始めたいのは正直な気持ちです。でも、一人前になるにはもっと他のことも色々経験して肥やしになるようなものを増やしていく必要があるように思いました。だから、僕がこの時だと感じた時には、改めてこの家の門を叩いてもいいでしょうか?」

「もちろんだ。時にいつでも来たまえ。しているぞ」

 父親の発言に穂香は顔面蒼白になる。

「いやだお父さんたら、しばらく雁屋さんと一緒にいたら、ダジャレがうつっちゃったの?」

「なにをいうか。洒落の源流は俳諧から発生した雑排で、本来は知識と教養を示す、日本古来の言葉遊びなのだぞ」

「なんだか知らないけど……喜一君、お父さんからヴァイオリンのこと学ぶのはいいけど、変な屁理屈まで教わらないでね」

 親子の妙なやり取りに、喜一は吹き出しそうになった。

「……まあ、色々学ばせていただきます」

 そういって喜一は穂香に近づき、耳元で囁いた。「僕がこの家に戻る時には、一緒に生きていく人が必要になると思う。その時まで……穂香さん、待ってくれる?」

「えっ?」

 穂香は耳まで顔を赤く染めた。穂香が立ち尽くしていると、喜一は手を振って去って行った。はっと我に返った穂香は慌てて携帯を取り出し、喜一にメッセージを送った。


 ──待ってるわ──


 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ほろしつみ 緋糸 椎 @wrbs

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説