コロナ禍の海水浴場

烏川 ハル

コロナ禍の海水浴場

   

 うっすらと雲に覆われた、おぼろげな星空の下。

 僕は一人で、砂浜を歩いていた。

 ザバーン、ザバーンと波の音だけが聞こえてくる、静かな海だ。

 ここは県内でも有名な海水浴場の一つであり、夏には大勢の人々で賑わう海だった。だが冬ともなれば、半年前の盛況ぶりが嘘みたいになる。その落差と閑散とした空気が好きで、しばしば僕は、夜の散歩に訪れるのだった。


 こうして冬の夜の海を歩いていると、去年までと同じ海にしか思えないが……。ここの海にとって、今年の夏は、特別だったらしい。新型コロナウイルスの影響で、海水浴場が閉鎖されたからだ。

 その名残りは、今でも見られる。例えば、駐車場に立てられた「遊泳禁止」の看板。一年前にはなかった立札だが、さすがに冬に泳ぐ馬鹿はいないから、夏に設置されたまま放置されているのだろう。

 ただし、この「遊泳禁止」には法的な強制力はなく、海水浴客に自粛を促すだけ。看板の文句も正確には「遊泳はお控えください」だった。

 だから例年よりは少ないものの、それなりの数の海水浴客がやってきたという。監視員のライフセーバーはおらず、海の家も営業していなかったのに。


 耳にした噂話を思い出しながら、半年前の海の姿を思い描いているうちに、突然、便意を催してきた。

 でも慌てる必要はない。僕にとっては通い慣れた海であり、トイレの位置も把握している。僕はゆっくりと、駐車場脇の公衆便所へ向かうのだった。


――――――――――――


「ふう……」

 便座に座って用を足した後、一息ついてから、トイレットペーパーに手を伸ばす。

 しかし、カランと音がするのみ。

 ペーパーホルダーの中では、本来トイレットペーパーを内側から支えるはずの芯棒が、剥き出しのまま顔を覗かせていた。

 つまり、紙がなかったのだ!

「……!」

 いやいや、慌てる必要はない。ここのホルダーは、予備のトイレットペーパーを支給できる仕組みなのだから。何度も利用している僕は、きちんと知っていたのだから。

 だから僕は、落ち着いて、ホルダー横のレバーを押した。


 これで上のラックから、ゴトンと音を立てて、次のトイレットペーパーが出てくるはずだったが……。

 現れたのは、全く別のものだった。

 代わりに出てきたのは、ペラペラの紙が一枚。

 ペーパーホルダーに収まるはずがなく、放っておけばゆかに落ちてしまうので、慌てて手を伸ばしてキャッチする。

 お尻を拭くにしては硬すぎる材質であり、量も足りない。しかも白紙ではなく、次のような文面が書かれていた。


『海水浴場閉鎖のため、トイレは使用禁止となっております』


 トイレで紙がないという、恐ろしい現状。一瞬それを忘れて、誰もいない個室の中、僕は大声で叫んでしまうのだった。

「誰だ、こんな悪戯いたずらしたのは! これって、トイレの入り口に貼っておくべき紙じゃないか!」




(「コロナ禍の海水浴場」完)

   

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コロナ禍の海水浴場 烏川 ハル @haru_karasugawa

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