協和音

ソラノリル

協和音

 彼の部屋を訪れるとき、鍵が掛かっていることはほとんどない。彼のお師匠さまいわく、鍵を掛けても無意味な環境で育ったので施錠の習慣が彼にはないらしい。

 アパートメントにはパティオが設けられていて、そのパティオを囲むように四方に居室が設計されていた。

 昼過ぎから空を覆いはじめた雨雲は、日が傾くとともに雫を撒きはじめた。雪になりきれない、冷たい雨。パティオには背の高い常緑樹が等間隔に植えられていて、雨に打たれてみどりを濃くしていた。廊下は広く、たとえ住人の誰かがドアを開けたとしても充分に避けて通れるだけの幅があった。

 彼を抱える偉いひとが彼に与えた部屋は、そんなアパートメントの一室だった。

「こんにち――」

「あ……」

「わっ!」

 ドアを開けると、ちょうどバスルームから出てきた彼と鉢合わせになった。白いシャツに濃紺のロングカーディガン、砂色のワークパンツというラフな格好。ぼさぼさと結構どうしようもないことになっている黒髪が、濡れてぺたりと頬と首筋に張り付いている。相変わらず、彼の生活リズムは予測不可能だ。

「また来たんだ」

 中途半端にドアをひらいたまま立ち尽くした私を一瞥して、彼はきょとんと瞬きをした。そうしてふと私の傘に目を留めて、廊下の向こうをちらりと見遣ると、まあ入れば、ときびすを返した。

 ドアを閉めれば途端に一切の音が消える。聴覚を満たしていた雨の音がなくなり、押し寄せる静寂に耳の奥がじんじんした。さすが防音完備のアパートメントだと、私は来るたび感心する。ぴたりと閉ざされ、自分から音を立てない限り空気の動くことのないこの部屋は、まるで魚も水草も酸素もない、水だけ張られたひとつの四角い水槽みたいだ。けれど息苦しさは感じない。彼のまわりに満ちている静寂は、やわらかくて優しくて、そしてとてもあたたかかった。

「紅茶、淹れてもいい?」

 リビングのまんなか、ピアノ椅子に腰を下ろした彼の背中に声を掛ける。彼はくるりと振り返り、数秒、台詞を考えるように沈黙したあと、好きにすれば、と、結局いつも通りの返事をした。

 私が訪れようと訪れまいと、彼がすることはかわらない。ときどきお師匠さまが居るときには一緒に食事をご馳走になることもあるけれど、基本的に彼はピアノを弾く以外のことはしなかった。そして私は、彼のピアノの斜め後ろに椅子とテーブルを用意して、彼の演奏を聴きながら、ピアノを弾く彼の指先を眺めるのが好きだった。それは私にとって、一日でいちばん落ち着いて、呼吸のできる時間だった。

「雨……」

「え……?」

 ふと彼が呟くように言った。

「雨、降ってたんだ」

「あ、うん、時雨……ちょっと強めだったかな」

 ここに居ると分からないよね、と私は小さく苦笑した。彼は少し考えるように視線を落とし、それから徐に立ち上がると、作りつけの棚の上に立てられた紙の束をぱたぱたと倒して何かを探しはじめた。なかなか見つけられないようだったので、私は彼を手伝うことにした。彼が何を探しているのかは見当がついたし、棚には色々な楽譜が並んでいてそれなりに整理されていたけれど、彼はどこに何を入れたかという根本的かつ致命的な部分を忘れるので、どこに何があるのかは私のほうが熟知していた。

「ニ短調の曲なら上から三番目の右端にあるよ」

 私が言うと、彼はぴたりと手を止めて、無表情な中に僅かに驚きの色を浮かべて振り返った。

「なんで分かんの?」

「なんでって、その棚にある楽譜の場所なら大体憶えちゃったから」

「いや、そうじゃなくて……」

 首を傾げた私に、彼は少し困惑した顔をして、

「なんで、俺が探してる楽譜がニ短調の曲って分かんの?」

 相変わらずの、ぶっきらぼうな口調で尋ねてきた。

「あ、それは……雨の音、ニ短調だったから」

 私は少しどぎまぎした。小さい頃から私には、自分でも不思議なのだけれど、例えば電話のベルとか、足音とか、そういったなんでもないものの音でも、その高さを他の音と比べることなく識別する能力があった。特に自分から人に話すことはしてこなかったけれど、彼の部屋を訪れてまもなく、彼も私と同じ感覚を持っていることに気がついた。ト長調を奏でる換気扇を回しているときには必ず彼はト長調の曲を弾いたし、ハ長調の音がする電話が鳴ったあとは必ずそれと同じ調の曲を選んでいた。彼は決して不協和音を作らなかった。思えばそれも、私が彼の傍に居心地のよさを感じる理由のひとつなのかもしれない。

「初めて知ったときには、ちょっとびっくりしたよ」

「俺からすれば、君のほうが驚きだよ。絶対音感あんの」

「ぜったいおんかん?」

「そういう能力のこと」

 師匠からきいた、と応えながら、彼は棚の上から三番目の右端に指を滑らせた。すらりと長い彼のひとさし指が、使い込まれて擦り切れかけた楽譜の背表紙のひとつを引く。

「じゃあ俺がどの音を弾いているかも分かるんだ」

「うん、わかるよ」

 私が頷くと、彼は「そっか」と、なんだか納得したように呟いた。ほんの少し、もしかしたら私の気のせいかもしれないけれど、彼が笑ったような気配がした。

 それから彼は黙々とピアノに向かい、私は紅茶を飲みながら、彼の指先が鍵盤の上で弾むのをのんびりと眺めた。彼が三曲目に選んだのは、彼がよく弾く異国の曲だった。

 彼の音を聴きながら、そっと目を閉じてみた。感覚の八割を占めるという視覚を遮ると、私を満たすのは微かにくゆる紅茶の香りと、彼の奏でる音楽だけになる。そうして私は彼の音に身を委ねる。目を閉じ彼の音に包まれていると、自分と彼の音の境界線が曖昧になって、内側からゆるゆるとほどけていくような不思議な感じがする。

 それからふと、こんなことを考える。ここは彼の音の水槽で、私はそのなかを泳ぐ魚なのかもしれないと。彼の傍にいるときだけ、私は呼吸する身体を忘れることができるような気がした。身体を殺さないための酸素の供給じゃなくて、生きるための呼吸が、彼の音のなかではできるような気がした。


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協和音 ソラノリル @frosty_wing

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