みたいなみかん

十姉妹

第1話

 Lemonという曲がある。檸檬という小説がある。人間はあの酸味溢れる果実に何かを感じやすいのかもしれない。自分にとってはあまりにも酸っぱくてレモンなど出されても積極的に食べようとは思わないが。まあ唐揚げにかけるぐらいのことはする。

 田舎の駅前の商店街の八百屋の店頭に並べられたレモンとみかんを交互に見つめながらそんなことを考えていた。自分は柑橘系が全くダメというわけではなく、みかんは好きなので、かびていない、綺麗な楕円形で鮮やかな橙色でなるべく美味しそうなものを厳選してひとつ手に取る。

 ぼやんとレジを探して視線を彷徨わせると、店主らしきおじさんと目が合った。おじさんはこちらの方に来て、「お兄さん、みかん好きなんですか」ときいてきた。

「ええ、まあ」

「この町はみかんが特産品でして、色々なみかんを作っているんですよ」

「というと、伊予柑やポンカンとかですか」

「いえいえ、そんなもんじゃありません。そうですね例えば、『レモンみたいなみかん』とかです」

 おじさんはそう言うとみかんの隣に陳列されているレモン(みたいなみかん)を手に取り、勢い良くこちらの方に突き出して見せてきた。黄色く紡錘形で、どう見ても普通のレモンである。

 自分は面食らってしまい、おじさんの顔とおじさんの手に握られたレモン(みたいなみかん)を交互に見ることしかできない。

「美味しいんですよ、一口どうですか」

 おじさんは薄ら笑いを浮かべながら自分にレモン(みたいなみかん)を勧めてくる。

「でも、売り物じゃないんですか」

「いいんですよお代なんて。この町のことを色々な人に知ってもらいたいんです」

「はあ……」

 押されて仕方なくレモン(みたいなみかん)をおじさんから受け取り、とりあえずと皮を剥いた。すると、その皮は普通のレモンみたいに分厚いながらもしっかりと皮がついているのでは無く、爪で穴を空けたところからぺりぺりと簡単に剥がすことが出来た。あらわれた果肉は明るい黄色だったが、ひと口かじってみると果肉がぷちゅっと音をたてて弾け、口の中いっぱいにみかんの風味が広がった。なるほど、これは確かに『レモンみたいなみかん』だ。文字通りすぎてもっといい商品名はなかったのかと思うが。

 なかなかに面白い果物だ。こんなものがあるとは知らなかった。珍しいもの好きの妹にあげたらきっと喜ぶだろう。

「これいくらですか? ひとつ下さい」

「130円です。毎度ありがとうございます」

 自分は丁度財布の中にあった100円硬貨1枚と10円硬貨3枚をおじさんに渡し、レモンみたいなみかんを受け取って八百屋をあとにした。

 普通のみかんを買うのを忘れてしまった。まあいいだろう。

 同期と会うにはまだ時間があった。自分は適当なカフェででも時間を潰そうと目についたタリーズコーヒーに入った。そこでカフェモカとミルフィーユを注文する。少し待って出来上がったものを受け取り口から自分の席へ運んだ。

 ズ……とカフェモカに口をつけた瞬間、心臓が跳ねた。

 みかんの味しかしないのだ。カフェモカなのに味はポンジュース。

「あの〜すみません。このカフェモカ、味がちょっとおかしいんですけど」

 これは文句を言わざるを得ないだろうと、近くにいた店員にやや語気を強めて声をかける。

「すっすみません! すぐに新しいものをご用意致します!」

 テンパりながら応対したのは自分よりも些か年下であろうおそらく高校生のバイトの女の子で、自分は少しだけ罪悪感を覚えた。

 女の子が代わりを持ってきたのはそれから10分後だった。「お待たせしました」と言いながらおずおずとこちらに差し出される。自分は「ありがとうございます」と返した。それがこの女子高生をビクビクさせた罪滅ぼしのつもりだった。

 女子高生の店員が持ってきてくれたものに口をつけると、またもや一瞬固まってしまった。やはりポンジュースの味しかしないのだ。しかしまた文句を言うのもはばかられるし、これはおそらく自分の味覚が狂っているのだろうと諦めてカフェモカもといポンジュースを飲みきるしかないと自分に言い聞かせた。

 気晴らしにミルフィーユをひと口食べようとフォークを突き刺して欠片を口に含む。みかんの味だった。自分はいよいよ息が止まるんじゃないかという心地だった。ただ不味いというならわかる。文句も言える。だが全ての商品がただただみかんの味に作られているなど有り得るのだろうか? そんなことはないだろう。地元に戻ったら医者にかかろうと決めた。味覚障害はどこの管轄だろう、口腔外科か、はたまた精神科か。

 なんだか食べる気力も失せてしまい、カフェモカを三分の一、ミルフィーユは四分の三を残した状態で店を出た。同期と会うにはまだ少し時間があったが、住所は教えてもらっているし、押しかけてしまおうと思った。

 インターホンを押すと、ピーンポーンと間の抜けた電子音が響き渡る。少しすると『はーい、開いてるから入ってきていいよ』と同期のくぐもった声がした。

「お邪魔します」と言って少し重いドアを手前に引く。適当に靴を揃えてあがると、「早かったな、ごめんまだお茶いれてる途中で」と同期に愛想笑いされながら言われた。

「いいよいいよ、早く来たのは僕なんだしさ。大学どう?」

「楽しいよ。とにかく広くてさ、移動するために自転車が貸し出されてんの。ただ人は高校の方がよかったかもなー、大学って良くも悪くも色んな人がいるからさ。お前は?」

「実家からだからすごい通いやすい。下手すれば高校より近いかも」

「いいなぁ〜。俺はどうしてもここにしか学部がなかったからさ、羨ましいよ」

 そう言いながら同期は淹れたてのお茶を持ってきた。ふわふわと湯気が立っている。「ありがとう」と礼を言って口をつけると、またみかんの味がした。自分は諦めて湯呑みをコースターの上に置いた。

「ねえ……これ、お茶だよね……」

「あん? 何言ってんだお前。見りゃわかるだろ」

「信じなくてもいいんだけどさ……」

「なんだよ、早く言えよ」

「みかんの味がするんだ……お茶なのに」

「は? ああすまん言ってなかったっけ。そのお茶この町の特産品でさ、みかんの風味がするんだよ」

「え?」

 同期曰く、この町は昔からみかんの名産地で、町の人は毎日のようにみかんを食べていたらしい。それが高じて、どんな食べ物にもみかんの味付けをするようになったというのだ。そんなことできるはずがないだろうと思いたいが、現にみかんの味をしたお茶だのミルフィーユだのといった様々なものを食わされた身としてはもはや信じるしか無くなっていた。

「こないだなんか自分の血までみかんの味がして笑っちゃったよ」

「はあ?」

「包丁で指切っちゃって、やべっつって舐めたらみかんの味なの。ウケるでしょ」

「いやいや……それはないでしょ。人間にどうやってみかんの味付けするのよ」

「近所の人に聞いたらみかんとかみかんの味したもの食べまくったらその食べまくった人までみかんの味になっちゃうんだってさ」

「そんなバカな話ある?」

「よかったら食べてみるか?」

「は?」

 同期が何を言い出したのかすぐには理解出来ずに間の抜けた声だけが漏れる。そんな自分のことなど知らず、同期は人の良さそうな表情を崩さないままキッチンへと向かった。ガラガラと音がした方を見ると、冷凍庫を空けて氷を取り出す姿が見えた。そして左手をまな板の上に置き、氷を押し付けて冷やし、包丁を当てがっていた。

「何やってんだよやめろ!」

 同期の腕を掴んで止めようとするも、間一髪のところで間に合わず、ぶじゅっという音とともに左手の小指が切断され、溶けた氷と血とが混じりあって薄まった紅色の液体が棚を伝った。捌かれた魚から流れ落ちるあの血に似ていた。

「ほら」

 あろうことか同期は切断された面をこちらに向けて右手でつまんだ自身の指を突き出してきた。血液でどろどろで、何か白いつぶつぶのようなものが見える。神経、骨……考えたくもないが、おそらくそういったものなのだろうと想像がつく。思わず嘔吐いてしまった。そのとき不意にみかんのちょっと酸っぱいぐらいの爽やかな甘い匂いが漂ってきた。だがみかんなどどこにもなかった。灰と白と赤で彩られた無骨で残酷な空間に、光のような橙などあるわけもなかった。だからその匂いはおそらく同期の血液から発せられているのだろうと考えるしかなかった。自分は混乱した。同期はさらに小指をつまんで突き刺してくる。自分は諦めて同期の指を食んだ。

 ひとたび噛むと、ぷちゅ、と肉が潰れて弾ける音がした。食感は果肉のそれだった。だが食べているのは間違いなく切断された同期の小指で、その証拠に同期の左手は血で汚れていて、指がもう4本しかなかった。噛むたび肉が弾ける食感が楽しかった。みかんの爽やかな酸味、甘さが口のなかいっぱいに広がった。自分はもう訳がわからなくて、溢れる涙を堪えることができなかった。自分は泣きながらみかんの味がする同期の左手の小指を食べていた。永遠とも思えるほど噛み続けていた気がする。だが食べ終わってみるとそれはほんの一瞬で過ぎてしまったことにも思えた。

「俺の指、泣くほど美味かったのか?」

 同期は変わらず人の良さそうな笑みを浮かべて自分に訊いてきた。だが自分にはその笑みが酷く恐ろしく歪んで見えてしまい、返事もできずによろよろと同期の家から逃げ出した。少しでも早く家に帰りたくて特急に飛び乗る。同期には本当に申し訳ないと思っている。だがもう二度と顔もまともに見れないだろう。自分が嫌になる。記憶を全部投げ捨てたい。ふと窓の外を見ると閑散とした住宅街が物凄い勢いで後ろに流れていく。みかんなどどこにもないのに。

 家に帰った瞬間、自分を辛うじて動かしていた糸が切れてしまって、膝をついて倒れ込んだ。「お兄ちゃん大丈夫?」という声が聞こえてくる。ただいま、お土産あるよ、と言いたかったが声帯を動かす力すら残っておらず、寝込んでしまった。

 目を覚ますと、背もたれの向こうから妹がこちらを覗いていた。どうやらソファーの上に寝かせられているらしい。

「あ、ありがとう…………」

「起きたんだ、おはよう。帰ってきた瞬間寝ちゃうんだからびっくりしちゃった。何かあったの?」

 妹はいつもと変わらない様子で話しかけてきたが、流石にみかんの味のこと、ましてや同期とのことを話すわけにもいかず、「ちょっと歩きすぎちゃって」と誤魔化した。

「ふうん。倒れない程度にしてね」

「ありがとう。あっ、お土産あるよ。面白いの買ってきたんだ。『レモンみたいなみかん』ってやつ」

「『レモンみたいなみかん』? 何それ?」

「見た目はただのレモンなんだけどちゃんとみかんの味がするんだ。まあ食べてみてよ、今切るから」

 自分はおもむろに立ち上がり、ビニール袋からレモンみたいなみかんを取り出してキッチンで4等分の櫛切りにした。試しに一口食べてみると、やはりみかんの味だ。

「はい」

 白い無地の皿にレモンみたいなみかんを盛り付けてテーブルに置く。妹はひとつ手に取り、口に含んだ。すると妹の眉間に皺が寄っていった。

「お兄ちゃん、このレモン普通にめちゃくちゃ酸っぱいんだけど」

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