第10話
今日も明日も、その次の日も、いつまでも。私だけがこの場所で、一歩も動けないまま腐って行くのか。この席に独り
この『停滞』という甘い
ようやくその現実と直視して、私はぞっとするのを感じた。
それは確かに、死よりも残酷でおぞましい日々に違いなかった。
もはや『生きている』感覚など思い出せない……そんな人間が、いったいどうやって『生きている』人間を書けば良い?
ここにいる限り、私は小説を書くことができない。それも、永遠に。
それは私が恐れていた『完全な死』と、いったいどれだけの違いがあるというのか。
私としての人間の尊厳を損なってまで、偽りの生にしがみつく事に、何の意味がある?
息を、吸い込む。こうして呼吸をして、日々を過ごして、ただ生命活動の真似事をなぞるというこが、生きるということではないはずだ。私はそれを証明するために、文学の可能性を……人間の可能性を追い求めて生きたのではなかったか。
前を向け。顔を上げろ。最後に織田作之助として、己の為すべきことを為せ。
「……私にも、やることが出来ました」
書かなくては。この、出会いを。私というものを思い出させてくれた『運命の女』を。それは、この場所では決して出来ないことなのだ。
「行くのですね」
そう、どこか眩しいものを見るような目で、マスターが呟いた。
「ああ。世話に、なった」
私の言葉に頷いて、マスターはそっと笑った。彼がいつからここにいて、いつまでここにいるのか、どこから来て、どこへ行くのか、これだけ長い時を共にしていても何一つ知らなかった。ただ、それがきっと私達の在り方だったのだろうと、この物静かなマスターとの別れを惜しみながらも、最後までそれらしく在りたいと湿っぽさを捨てた。
向き直ると、おんなは何もかも理解しているかのように優しく微笑んでいた。それは『運命の女』を夢想する私の錯覚だったのかもしれないが、少なくともその時だけは完璧な理想そのものの存在がそこに在った。
「……お嬢さんは、もう少しゆっくりして行って下さい。それでいつか『向こう』で、また会いましょう」
向こう、がどこを指すのか私にも分からなかったが、おんなはしっかりと頷いた。だからきっと、私は真実を告げる勇気を持てた。
「あと、一つ。私も嘘を吐きました」
「あら、何かしら?」
息を吸い込んで、己を認める。それから胸を張って、告げた。
「実は、小説家をしているのです」
彼女は目を閉じて、その言葉をゆっくりと受け止めた後、花の零れるように笑った。
「その方が、ずっと貴方らしいわ」
笑うと、よく映える。美しい
「では、また」
「ええ、またいつか」
私達はどちらからともなく手を差し出すと、しっかりと握手を交わした。
それは、温度も生命感もない、死人同士のひどく冷たい握手だった。けれど、何かきっと尊い意味を持っているこの行為を、この瞬間の熱を、決して忘れないでおこうと思った。
そっと離れた手をぐっと握り締め、草臥れた鞄をもう一方の手に取ると、振り返らずに店を出た。
カランコロン、と。最後のベルが別れを告げる。
街は今朝歩いた時と何も変わってはいなかったが、私自身は大いに変わっていた。人間の尊厳を、取り戻したのだ。
足取りも軽く、あっという間に『深淵』へと辿り着く。それから今朝と同じように、その闇を覗き込んだ。私を見つめ返す闇に、根源的な死の恐怖が全身を駆け巡る。だが、私は既に、もっと恐ろしいものを知っている。
もう何も、失うものはない。
鞄を開けて、中の原稿用紙を全て掴みとると『深淵』の上にばら撒いた。風に乗って巻き上がる『私』の言の葉たちが、歴史の証言者だ。
『文学を除いては、私にはもうすべての希望は封じられているが文学だけは辛うじて私の生きる希望をつないでいるのだ。目的といいかえてもよい』
『天才……?莫迦莫迦しい。天才じゃありません。努力です』
『したいことだけを、して来たのだ。これ以上、何のすることがあろうか』
『人間いかに生くべきか』
『「可能性の文学」は果して可能であろうか』
問え、問え。何度でも、解を持たない言葉をもとめて。
それが、生きている、ということだろう?
私は自由の鳥のごとく手を広げて、始まりと終わりの一歩を踏み出した。
ざまを見ろ。ざまを見ろ!
今日、私は己に打ち克ち、人生の勝利者となるのだ!
深淵 雪白楽 @yukishiroraku
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