第9話


「……馬鹿なことを、したわね。きっとみんな、笑ってるわ」


 ぐい、と現実に引き戻したおんなの声に、一瞬己のことを言われたのかと錯覚した。しかし、少しうつむき加減の顔と瞳に、おんな自身のことを自嘲したのだとすぐに気付いた。

 それは、己の不注意で(もしかしたら、半分は意図的だったのかもしれないが)命を落としてしまったことなのか、それとも巴里に渡ったことそのものだったのか。きっと、両方だったに違いない。


 彼女の姿が、境遇は違うものの今の己と重なるような心地がして、ひどくいたたまれない気持ちになった。こんな、小説家の真似ごとしかできない、何者でもない存在に成り下がってしまったおとこに、何が言えよう?

 それでも、と。誇りと尊厳の崩れ落ちた、この夢の残骸の中にも、まだ残っているものがあるとしたら。それはきっと、過去から手渡されたぬくもりの欠片、人の情のようなもの。



 託した夢。託された夢。破れた夢。見果てぬ夢。

 死してもなお、この胸にあるもの。



「……貴女は、最後に後悔しましたか。仏蘭西に渡ったことを。己の意志を貫いたことを。好きな絵を描いて生きる道を、選んだことを」



 私の言葉に、おんなはハッと目を見開いて、首を振った。



「いいえ。どんなに苦しくても、家に帰ろうとは思わなかった。生活は苦しかったけど、自分の好きなものに人生を捧げたことには、一片の悔いもないの。芸術が、私のすべてよ」



 その力強い瞳の奥に、歩き方を忘れて立ち尽くす男の姿がうつっていた。その醜悪さから、今まで散々に目を背けてきたのだ。このおんなの持つ、死してもなお誇り高き芸術家の魂に、少しばかりでも恥じぬ己であれと、その吸い込まれるようにきらめく黒曜の瞳を見つめた。

 私は既に、私のたましいの一部になった友の言葉を借りて、噛みしめるように口にした。



「なら、貴女を理解しないヤツには、好き勝手言わせておきなさい。もしかしたら、貴女が生まれ変わる頃には、貴女の絵が名画になっているかも知れない」



 本当は世間様からの評価だとか、名画とか名作だとか、そういうのはどうでも良いのだ。いや、どうでも良くはないかもしれないが、少なくとも己と己の歩んだ道のりが誇るべきものであったかどうかに、勝るものはない。

 その誇りは、良い作品であったか満足のいく作品であったか、などという話ではないのだ。



 命を賭けたか。己が人生を捧げるに足るものであったか。



 それに迷いなく頷けるのであれば、己にとって価値ある生であったなら、本当にそれだけでいいのだと。そんなことを口にせずとも伝わるほど、私とおんなの間に積み重ねた年月も、相互理解も存在はしなかった。

 それでも、このおんなには間違いなく伝わると、どうしてか確信があった。



「ありがとう」



 凜と顔をあげて小さく笑んだ瞳が、どうしようもなく美しいと、思った。



 その笑顔を引き出したのは、残念ながら私ではない。坂口安吾の言葉である。

 ただ、私も誰かに何かを手渡すことができたと、そんな奇妙な充足感が全身に満ちているような心地がした。だからだろうか、それは本当に不意打ちでしかない言葉の続きだった。




「私、決めたわ」


 ふと顔をあげた私を、力強い視線が貫いた。



「この街を出ます。死後の世界を歩く、なんて経験めったにできないから、もう少しあちこち見て回ってみるつもりだけど。でも、それでもきっと、出て行きたいって気持ちは変わらないわ……こうやって意識があって、言葉を交わせて、永遠に時間はあるし何だってできる。でも、私にとって『何も変わらない』ってことは、死よりも耐え難い時間だから」


 その言葉を、その姿を、どうしようもないほど眩しく感じた。私が生の世界に置き忘れてきたと、そう思い込もうとしてきた全てを握り締めて、そのおんなは立っていた。



「あなたはどうするの?」



 ふと、私を覗き込んだ瞳に、呼吸が止まった。



 これから、どうするのか。今までも、そしてこれからも、どうにもならないつもりでいたことを、今更のように思い知らされた。




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