蛍狩 〜妖刀使いの髪飾り〜

K

蛍狩 〜妖刀使いの髪飾り〜

 草木も眠る丑三つ時。宵寝よいねから覚めた浜谷雪子は身支度を済ませ、家を出た。

 見上げる夜空は月に叢雲、花に風といった風情そのままで、隣近所の垣根の向こうから金木犀きんもくせいの甘い香りがする。さほど明るいとはいえない夜道を照らすのは、その手に提げた提灯ちょうちんばかりだが、彼女の目はむしろ暗い場所でこそよく見える。なればこそ、無用の長物のように思われたが、この提灯は言わば撒き餌のようなものだ。

 人家を離れるほどにその気配は強くなり、やがて田畑すらが遠くに見える頃にはもう、確信めいて“そこにいる”と直覚ちょっかくする。それは妖刀使いと謳われる雪子をして恐怖に他ならないが、彼女は努めて冷静に歩を進めた。それを阻止するかのように、ブツッと音を立てて草鞋わらじの紐が切れた。なにか刃物を押し当てられて切られたような、いやな感触だった。だがこれは想定内──雪子はすぐに懐から新しい草鞋を出してきて履き替え、大儀そうに屈んで紐を結ぶ──と、山の方から甲高い笛の音に似た声が聞こえてきた。まるで警告めいたその声に耳を澄ますと、彼女の瞼の裏にその姿が思い出された。

鵺子鳥ぬえこどりか……」

 深く息を吐き、震える手に喝を入れて紐を結んだ。恐れる事は恥でない。恐れを認めない事が恥なのだ。そうして雪子が訪れたのは、郊外の野原であった。背丈ほどあるススキを脇差で斬り払うと、道が現れた。それこそススキを踏み潰してこしらえた道だ。そこを抜けると、苔むしたふるい桟橋が見えて、これを渡る。溜め池の中央にあるこの洲が終着点だ。その周囲に自生するガマ、その向こうにそびえ立つ黒い木々の間から、獣の光る目が見えた。

 叱責するようなカラスの鳴き声と羽ばたきに首をすくめつつ、しかし雪子はすぐに落ち着きを取り戻す。まず提灯を足下に置き、脇差の刀身を懐紙かいしで拭って鞘に納め、その紙束を放り投げた。

 雪子の両目が蒼白く輝いた。

 宙で三枚に分かれてそれぞれに舞う懐紙が、一斉に火を吹いて燃え上がった。まるでそれが合図であったかのように、そこかしこから大量の鬼火が現れ、雪子の周囲を飛び交う。ほとんどが蒼白いが、雪子が目で追うのはそれらに交じって漂う赤や紫、ないし橙色の鬼火だった。五つ、六つといったところか。もし追加されたとしても十はいくまいと判じた雪子は足下の提灯の火を吹き消して、鬼火の輝きのみが照らす極彩色の闇の中に佇んだ。

 その美しい童顔に七色の陰影を纏い、雪子は呼吸が整うのを待ち、静かに太刀を抜いた。現れたる刀身の妖しい輝きに惹かれるように、特に赤い鬼火が寄ってくる。目を凝らせば、その揺らめきの中に怨恨に歪んだ人面が浮かんでいるが、これらは厳密には物の怪ではなく、人の雑念の集合に過ぎない。しかして、いまだ成仏しきれない魂と結びついて、ごく稀ではあるものの、物の怪に成る事がある。

 だが。

 切っ先で突き抉り、横薙ぎに変化させた太刀筋をそのままに、返す刀で袈裟懸けに両断する鬼火の数はきっかり三つ。間合いに入ったそれから確実に刃筋を立てるべく、最適な足捌きと体捌きを実践しなければ、この一撃必殺の三連続は成し得ない。

 丑三つ時、提灯と得物のほかは身一つを以て鬼火を祓う──浜谷流鍛錬法、蛍狩ほたるがり

 雪子は皆伝後かいでんごも暇を見つけてはこの鍛錬法を好んで行い、自身の腕が少しも落ちていない事に納得する。ただひたすら師より受け継いだ破魔の太刀術を感じる事が肝要であり、鬼火を斬り祓う事はあくまで手段に過ぎない。研ぎ澄まされていく五体のみを感じるばかりだ。 

「……そこっ」

 右肩に寄せるように傾げた首、その分できた隙間に通すように雪子は切っ先を背後へ振り上げた。手桶で湯をかぶるような手つきだった。ひとつ間違えれば自らの喉を掻くような荒業は破魔の剣術にしかありえない。そして対人でなく、対魔を想定したその剣術は、やはり彼女の背後に迫っていた鬼火を貫き、その背後で溶け崩れるように消え去った。それを雪子は見もしないで、まるで神輿みこしの片棒を担ぐような格好で太刀を持ったまま、残る鬼火が寄ってくるのを待つ。が、恐れをなしたか、それは闇の彼方に消え去った。他の鬼火もその後に続き、雪子はただ闇の中に残された。

 夜風が池の水面を震わせ、ガマの穂を揺らす。雲間から月が覗き、雪子は月明かりの中で頬にまつわる後れ毛を指で払った。そして太刀を逆手に持ち替え、静かに鞘に納める。

 見上げる月は、巨大な鏡のごとき満月だった。


(了)

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